婚約破棄ですか? 損切りの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます

水上

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第29話:深夜零時のナッシュ均衡

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 (※ヘリオス視点)

 深夜の王城。
 かつては愛を語り合ったサロンに、今夜は窒息しそうなほどの疑念が充満していた。

 壁掛け時計の音が、まるで断頭台へ登る足音のように聞こえる。

 現在時刻は午後十一時三十分。
 エリーゼが指定した期限まで、あと三十分。

「……ねえ、ヘリオス様」

 沈黙を破ったのは、向かいのソファに座るリリィだった。
 彼女は引きつった笑顔を浮かべ、震える手で紅茶のカップを握っている。

「確認ですけれど……、書きませんわよね? あんな手紙」

「あ、当たり前だろう!」

 僕は大げさに頷いてみせた。

「僕たちの愛は本物だ。エリーゼの口車に乗って互いを売るなんて、そんな卑劣な真似、僕たちがするはずがない」

「そ、そうですわよね! 私、信じてますもの。ヘリオス様が私を裏切るなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないって」

「ああ、もちろんだとも。僕もリリィを信じているよ」

 ――嘘だ。

 こいつの目は笑っていない。
 さっきから視線が泳いでいるし、ドレスのポケットに手を隠している。
 あの中に、すでに書き上げた告発文が入っているに違いない。

 甘いな、リリィ。
 僕が気づいていないとでも思ったか?

 僕は心の中で冷笑した。
 もし僕が書かずに、リリィだけが書いたらどうなる?

 彼女は無罪放免、僕は全ての罪を被って処刑だ。
 そんな馬鹿な話があるか。
 逆に、僕だけが書けば、僕は助かる。

 生き残るためには、やるしかないんだ。
 これは正当防衛だ。

「……あ、あの、私、少しお化粧を直してきますわ」

 十一時四十五分。
 リリィが立ち上がった。

「ああ、行ってくるといい。僕も少し、風に当たってくるよ」

 僕たちは互いにぎこちなく微笑み合い、そして背を向けた瞬間に――猛ダッシュで走った。

 目指すは、エリーゼの代理人が待つ闇の銀行家の部屋だ。

 廊下を走りながら、僕は懐から羊皮紙を取り出した。
 そこには、ありったけの事実と嘘を混ぜた告発文が書いてある。

『全てはリリィ・フルールの発案です。魔石詐欺も、金庫の横領も、彼女が私を唆してやらせたのです。私は被害者です!』

 これでいい。
 僕は王族だ。
 こんなところで終わるわけにはいかないんだ!

 角を曲がったところで、銀行家の部屋が見えた。
 そして、反対側の廊下から、ドレスの裾をまくり上げて全速力で走ってくる女の姿が見えた。

「リ、リリィ!?」

「ヘリオス様!?」

 僕たちは鉢合わせした。
 彼女の手には、しっかりと封筒が握られている。

「き、貴様……。化粧直しというのは嘘か! やはり僕を売る気だったんだな!」

「何をおっしゃいますの! 風に当たりに行くと言ったのはどこのどなた!? 自分だけ助かろうなんて、最低の男ですわ!」

 リリィは般若のような顔で叫ぶと、僕を突き飛ばして部屋に飛び込んだ。

「これ! これをお願いしますわ! ヘリオス様が主犯です! 全部彼が悪いんです!」

「ま、待て! 僕が先だ! こっちを受け取れ! リリィが悪魔なんだ!」

 僕たちは銀行家の前で、互いの手紙を押し付け合い、罵り合った。

 愛? 
 信頼?
 そんなものは、この泥沼の中には欠片も残っていなかった。

     *

 同時刻、ノルト領。
 通信機から吐き出された二通の報告書を手に、私は静かに目を閉じました。

「……ナッシュ均衡、成立です」

 向かいのルーカス閣下が、チェス盤の上で、黒のキングとクイーンを同時に倒しました。

「二人とも裏切ったか」

「ええ。ヘリオス殿下の告発文には『リリィが贅沢のために横領を強要した』とあり、リリィ様の告発文には『王太子の権力で無理やり詐欺に加担させられた』とあります」

 私は二枚の手紙をテーブルに並べました。

「互いに相手を売れば助かると思い込んで行動した結果、二人ともが最も重い罪を背負うという結末。ゲーム理論の教科書に載せたいほど美しい事例ですわ」

 これで、証拠は揃いました。
 彼ら自身の署名入りの自白証書が二通。
 これ以上の証拠能力を持つ書類はありません。

「彼らは今頃、互いの首を絞め合っているでしょうね。ですが、本当の地獄はこれからです」

 私は手帳のスケジュール欄を確認しました。

 三日後。
 王城にて、各国の要人を招いた、春の建国記念舞踏会が開催される予定です。
 金欠の王家が、最後の見栄を張って開催する、起死回生のパーティ。

「この舞踏会を、彼らの断罪劇の舞台にしましょう。主役はもちろん、泥棒王太子と詐欺師の歌姫。そして、脚本・演出はこのエリーゼ・フォン・ノイマン」

 私はルーカス閣下に微笑みかけました。

「閣下、エスコートをお願いできますか? 久しぶりに王都の空気を吸いに行きましょう」

「喜んで。……君の隣で、あの二人の絶望顔を見るのが楽しみだ」

 復讐のシナリオは完成しました。
 あとは、華やかに幕を開けるだけです。
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