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第19話:砕け散った心
「ああ、泣かないで。君に怪我がなくて本当によかった」
「だって、お姉様の大事なカップなんでしょう? 私、どうしたら……」
ソフィアが涙目でアデライドをチラリと見た。
その視線には「怒らないでね」という懇願と、わざとじゃないから許されるべきという甘えが含まれている。
アデライドは、ゆっくりと顔を上げた。
エリアスが、アデライドを見ている。
その瞳には、妻への心配ではなく、ある種の牽制の色があった。
『まさか、たかがカップ一つで、可哀想な妹を責めたりしないよな?』という圧力。
「……アデライド」
エリアスは優しく、しかし諭すように言った。
「形あるものは、いつか壊れるものだよ。それに、君はプロの陶芸家だろう? 自分で作ったものなんだから、また作ればいいじゃないか」
また、作ればいい。
アデライドの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
それは、感情のスイッチが完全にOFFになった音だった。
この人は、何も分かっていない。
あれがただの食器ではなく、アデライド魂の一部だったことも。
「また作ればいい」という言葉が、どれほどクリエイターへの冒涜であり、アデライドの努力を軽んじるものかも。
そして、コーヒーで汚れたドレスよりも、妹の嘘泣きを優先したことも。
――ああ、もういい。
本当に、もういい。
アデライドの中にあった、微かな未練の残り火。
いつか分かってくれるかもしれないという淡い期待。
それらが全て、足元の破片と共にゴミになった。
「……アデライド? 怒っているのかい?」
沈黙を恐れたのか、エリアスが不安げに尋ねてきた。
ソフィアも「お姉様、ごめんなさい……」と鼻をすすっている。
アデライドは立ち上がった。
濡れたドレスの裾を気にすることもなく、優雅に。
そして、この世で最も美しい、ひんやりとした微笑みを浮かべた。
「いいえ、とんでもない」
彼女の声は、冬の朝の空気のように澄んでいた。
「エリアス様のおっしゃる通りですわ。たかが試作品、たかが道具ですもの。ソフィアに怪我がなくて何よりでした」
「そ、そうか! よかった、君なら分かってくれると思ったよ!」
エリアスは安堵し、パッと笑顔になった。
アデライドは静かにしゃがみ込み、散らばった破片を素手で拾い始めた。
「あ、危ないよアデライド。使用人を呼べば……」
「いいえ。私のものですから、私が始末します」
鋭利な破片が指先をかすめ、赤い血が滲む。
けれど、アデライドは痛みを感じなかった。
心の痛みに比べれば、こんなものは蚊に刺された程度だ。
彼女は破片を全て拾い集めると、テーブルの端にあった屑入れに、迷うことなく放り込んだ。
乾いた音が響く。
それは、アデライドがエリアスへの愛を捨てた音だった。
「さあ、片付きましたわ」
アデライドは手を払い、二人に向かって微笑んだ。
「私はドレスを着替えてまいります。お二人で、どうぞごゆっくりお茶を楽しんでらして」
「ああ、ありがとうアデライド! 君は本当に心が広いね」
エリアスは感動したように頷き、再びソフィアの機嫌を取り始めた。
「ほら、お姉様も許してくれたよ」と。
アデライドはサンルームを出た。
廊下を歩く足取りは、不思議なほど軽かった。
大切にしていたものが壊れたのに、悲しくない。
むしろ、清々しい。
なぜなら、あそこで怒り狂ったり、泣いたりしていたら、まだ彼らに感情という贈り物を与えてしまうことになったからだ。
無関心、無感動。
それが、今の彼女ができる最大の自己防衛だった。
角を曲がったところで、サイラスが待ち構えていた。
彼はアデライドの汚れたドレスと、血の滲む指先を見て、悲痛な表情でハンカチを差し出した。
「……奥様。あのカップは、奥様が一番大切にされていたものでは」
「ええ、そうね」
アデライドはハンカチを受け取り、指先の血を拭った。
「でも、ちょうどよかったわ。未練ごと捨てられたから」
「……」
「サイラス、明日の夜が決行よ。準備はいい?」
「はい。馬車の手配も、荷物の搬出ルートも、全て整っております」
サイラスの声は震えていた。
怒りと、そして主人の決断への敬意で。
「ありがとう。……明日の夜、この家での最後の晩餐を作りましょう。彼が一生、後悔の味として思い出すような、最高の食事をね」
アデライドはハンカチを握りしめ、前を見据えた。
その瞳には、もう涙の痕跡すら残っていなかった。
あるのは、燃えるような決意と、凍てつくような冷静さだけ。
陶器の心は砕け散った。
しかし、その破片は鋭い刃となり、これから彼らの喉元に突きつけられることになるのだ。
「だって、お姉様の大事なカップなんでしょう? 私、どうしたら……」
ソフィアが涙目でアデライドをチラリと見た。
その視線には「怒らないでね」という懇願と、わざとじゃないから許されるべきという甘えが含まれている。
アデライドは、ゆっくりと顔を上げた。
エリアスが、アデライドを見ている。
その瞳には、妻への心配ではなく、ある種の牽制の色があった。
『まさか、たかがカップ一つで、可哀想な妹を責めたりしないよな?』という圧力。
「……アデライド」
エリアスは優しく、しかし諭すように言った。
「形あるものは、いつか壊れるものだよ。それに、君はプロの陶芸家だろう? 自分で作ったものなんだから、また作ればいいじゃないか」
また、作ればいい。
アデライドの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
それは、感情のスイッチが完全にOFFになった音だった。
この人は、何も分かっていない。
あれがただの食器ではなく、アデライド魂の一部だったことも。
「また作ればいい」という言葉が、どれほどクリエイターへの冒涜であり、アデライドの努力を軽んじるものかも。
そして、コーヒーで汚れたドレスよりも、妹の嘘泣きを優先したことも。
――ああ、もういい。
本当に、もういい。
アデライドの中にあった、微かな未練の残り火。
いつか分かってくれるかもしれないという淡い期待。
それらが全て、足元の破片と共にゴミになった。
「……アデライド? 怒っているのかい?」
沈黙を恐れたのか、エリアスが不安げに尋ねてきた。
ソフィアも「お姉様、ごめんなさい……」と鼻をすすっている。
アデライドは立ち上がった。
濡れたドレスの裾を気にすることもなく、優雅に。
そして、この世で最も美しい、ひんやりとした微笑みを浮かべた。
「いいえ、とんでもない」
彼女の声は、冬の朝の空気のように澄んでいた。
「エリアス様のおっしゃる通りですわ。たかが試作品、たかが道具ですもの。ソフィアに怪我がなくて何よりでした」
「そ、そうか! よかった、君なら分かってくれると思ったよ!」
エリアスは安堵し、パッと笑顔になった。
アデライドは静かにしゃがみ込み、散らばった破片を素手で拾い始めた。
「あ、危ないよアデライド。使用人を呼べば……」
「いいえ。私のものですから、私が始末します」
鋭利な破片が指先をかすめ、赤い血が滲む。
けれど、アデライドは痛みを感じなかった。
心の痛みに比べれば、こんなものは蚊に刺された程度だ。
彼女は破片を全て拾い集めると、テーブルの端にあった屑入れに、迷うことなく放り込んだ。
乾いた音が響く。
それは、アデライドがエリアスへの愛を捨てた音だった。
「さあ、片付きましたわ」
アデライドは手を払い、二人に向かって微笑んだ。
「私はドレスを着替えてまいります。お二人で、どうぞごゆっくりお茶を楽しんでらして」
「ああ、ありがとうアデライド! 君は本当に心が広いね」
エリアスは感動したように頷き、再びソフィアの機嫌を取り始めた。
「ほら、お姉様も許してくれたよ」と。
アデライドはサンルームを出た。
廊下を歩く足取りは、不思議なほど軽かった。
大切にしていたものが壊れたのに、悲しくない。
むしろ、清々しい。
なぜなら、あそこで怒り狂ったり、泣いたりしていたら、まだ彼らに感情という贈り物を与えてしまうことになったからだ。
無関心、無感動。
それが、今の彼女ができる最大の自己防衛だった。
角を曲がったところで、サイラスが待ち構えていた。
彼はアデライドの汚れたドレスと、血の滲む指先を見て、悲痛な表情でハンカチを差し出した。
「……奥様。あのカップは、奥様が一番大切にされていたものでは」
「ええ、そうね」
アデライドはハンカチを受け取り、指先の血を拭った。
「でも、ちょうどよかったわ。未練ごと捨てられたから」
「……」
「サイラス、明日の夜が決行よ。準備はいい?」
「はい。馬車の手配も、荷物の搬出ルートも、全て整っております」
サイラスの声は震えていた。
怒りと、そして主人の決断への敬意で。
「ありがとう。……明日の夜、この家での最後の晩餐を作りましょう。彼が一生、後悔の味として思い出すような、最高の食事をね」
アデライドはハンカチを握りしめ、前を見据えた。
その瞳には、もう涙の痕跡すら残っていなかった。
あるのは、燃えるような決意と、凍てつくような冷静さだけ。
陶器の心は砕け散った。
しかし、その破片は鋭い刃となり、これから彼らの喉元に突きつけられることになるのだ。
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