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第3話:格の違い
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「分からないのですか? では、質問を変えましょう」
セレフィーナはさらに一歩近づく。
その迫力に、フェリシアは後ずさった。
「試験環境の相対湿度は何%に保ちましたか?」
「し、湿度……? そんなの、関係ないわ!」
フェリシアが裏返った声で叫んだ。
「関係ない? とんでもないことです」
セレフィーナの声が、冷徹に響き渡る。
「植物油ベースのエステル系潤滑剤は、加水分解を起こしやすい性質を持っています。高湿度の環境下では水分と反応し、酸を生成して金属を腐食させる原因となります。試験データの信頼性を担保するためには、湿度の管理は必須条件です。……湿度管理もせずに新型として発表するなど、機械を壊すつもりですか?」
「っ……!」
フェリシアの顔から血の気が引いていく。
周囲の貴族たちも、専門用語の意味こそ完全には理解できないものの、セレフィーナの堂々たる態度と、しどろもどろになるフェリシアの対比を見て、ざわめき始めた。
「あれ? もしかして……」
「答えられてないぞ」
その空気に耐えられなくなったのか、ルーカスが割って入った。
「や、やめろセレフィーナ! フェリシアをいじめるな! そんな難しい言葉を使って、彼女を混乱させるつもりか!」
セレフィーナは冷ややかに元婚約者を見上げた。
「殿下。これはいじめではなく、技術的な確認です。開発者であれば即答できて然るべき基礎知識です」
「う、うるさい! とにかくフェリシアが発見したと言っているのだから、そうなのだ! お前のような可愛げのない女は、さっさと出ていけ!」
論理もへったくれもない。
完全なる思考停止。
セレフィーナの中で、彼に対する最後の敬意という名の極薄い油膜が、完全に消滅した瞬間だった。
(ああ、無理だわ)
金属同士が直接触れ合い、ガリガリと削り合うような不快感が消えた。
代わりに訪れたのは、乾いた諦めと、奇妙なほどの清々しさ。
この組織における、セレフィーナの役割は終わったのだ。
正しい設計思想に基づかない機械は、いずれ必ず壊れる。
彼らがこれから直面するであろう摩擦と摩耗の地獄を思うと、一抹の憐れみすら覚えるが――それはもう、セレフィーナの管轄外だ。
「……承知いたしました」
セレフィーナは、これ以上ないほど優雅に一礼した。
その姿は、周囲の誰よりも気高く、美しかった。
「私の論理回路に、貴方様の感情論が入り込む隙間はもうございません。どうぞ、その真実の愛とやらで、国を回していってくださいませ。……もし、回るものであれば、ですが」
「なっ……、なんだその言い草は!」
ルーカスの罵声を受け止めながら、セレフィーナは踵を返した。
大広間の扉が開く。
外の空気は冷たく、そして澄んでいた。
(さて……)
屋敷に帰ったら、まずは荷造りだ。
研究機材と、集めたデータ。
それだけあれば、どこでだって生きていける。
むしろ、あのような非論理的な環境から解放されたことで、研究効率は劇的に向上するだろう。
セレフィーナは、二度と振り返らなかった。
その背後で、フェリシアが「湿度がなんだっていうのよぉ!」とヒステリックに叫ぶ声が聞こえた気がしたが、それはもう、遠い世界の雑音に過ぎなかった。
これが、すべての始まり。
後に、一人の辺境伯と共に国を救うことになる令嬢、セレフィーナ・ヴァレンシュタインの、新たな人生の幕開けだった。
セレフィーナはさらに一歩近づく。
その迫力に、フェリシアは後ずさった。
「試験環境の相対湿度は何%に保ちましたか?」
「し、湿度……? そんなの、関係ないわ!」
フェリシアが裏返った声で叫んだ。
「関係ない? とんでもないことです」
セレフィーナの声が、冷徹に響き渡る。
「植物油ベースのエステル系潤滑剤は、加水分解を起こしやすい性質を持っています。高湿度の環境下では水分と反応し、酸を生成して金属を腐食させる原因となります。試験データの信頼性を担保するためには、湿度の管理は必須条件です。……湿度管理もせずに新型として発表するなど、機械を壊すつもりですか?」
「っ……!」
フェリシアの顔から血の気が引いていく。
周囲の貴族たちも、専門用語の意味こそ完全には理解できないものの、セレフィーナの堂々たる態度と、しどろもどろになるフェリシアの対比を見て、ざわめき始めた。
「あれ? もしかして……」
「答えられてないぞ」
その空気に耐えられなくなったのか、ルーカスが割って入った。
「や、やめろセレフィーナ! フェリシアをいじめるな! そんな難しい言葉を使って、彼女を混乱させるつもりか!」
セレフィーナは冷ややかに元婚約者を見上げた。
「殿下。これはいじめではなく、技術的な確認です。開発者であれば即答できて然るべき基礎知識です」
「う、うるさい! とにかくフェリシアが発見したと言っているのだから、そうなのだ! お前のような可愛げのない女は、さっさと出ていけ!」
論理もへったくれもない。
完全なる思考停止。
セレフィーナの中で、彼に対する最後の敬意という名の極薄い油膜が、完全に消滅した瞬間だった。
(ああ、無理だわ)
金属同士が直接触れ合い、ガリガリと削り合うような不快感が消えた。
代わりに訪れたのは、乾いた諦めと、奇妙なほどの清々しさ。
この組織における、セレフィーナの役割は終わったのだ。
正しい設計思想に基づかない機械は、いずれ必ず壊れる。
彼らがこれから直面するであろう摩擦と摩耗の地獄を思うと、一抹の憐れみすら覚えるが――それはもう、セレフィーナの管轄外だ。
「……承知いたしました」
セレフィーナは、これ以上ないほど優雅に一礼した。
その姿は、周囲の誰よりも気高く、美しかった。
「私の論理回路に、貴方様の感情論が入り込む隙間はもうございません。どうぞ、その真実の愛とやらで、国を回していってくださいませ。……もし、回るものであれば、ですが」
「なっ……、なんだその言い草は!」
ルーカスの罵声を受け止めながら、セレフィーナは踵を返した。
大広間の扉が開く。
外の空気は冷たく、そして澄んでいた。
(さて……)
屋敷に帰ったら、まずは荷造りだ。
研究機材と、集めたデータ。
それだけあれば、どこでだって生きていける。
むしろ、あのような非論理的な環境から解放されたことで、研究効率は劇的に向上するだろう。
セレフィーナは、二度と振り返らなかった。
その背後で、フェリシアが「湿度がなんだっていうのよぉ!」とヒステリックに叫ぶ声が聞こえた気がしたが、それはもう、遠い世界の雑音に過ぎなかった。
これが、すべての始まり。
後に、一人の辺境伯と共に国を救うことになる令嬢、セレフィーナ・ヴァレンシュタインの、新たな人生の幕開けだった。
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