殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

文字の大きさ
10 / 10

第10話:優しい食卓

しおりを挟む
「申し訳ありません、旦那様。朝食は結構です。すぐに現場の視察に行きたいので。これから、改革が始まるのです」

「……」

「昨日見た井戸のポンプの図面も引かなければなりませんし、時間は1秒たりとも――」

 セレフィーナの手が、グレイグの大きな手によって掴まれた。
 彼は無言で資料を取り上げ、遠くのサイドテーブルへと放り投げた。

「ああっ、私の資料が!」

「座れ」

 グレイグの低い声には、有無を言わせぬ響きがあった。
 彼はセレフィーナを椅子に座らせると、自らスープをよそい、彼女の目の前に置いた。

「車輪には油を差そうとするくせに、自分の体のメンテナンスはしないのか?」

「え……?」

「お前の顔色は、潤滑油切れの機械そのものだ。思考回路のパフォーマンスも落ちている。……これを食え。これはお前が今日、最高の仕事をするための燃料だ」

 燃料。
 その言葉に、セレフィーナの瞳が反応した。

「……燃料、ですか」

 確かに、彼の言う通りだ。
 燃料がなければ、機械は動かない。

 それは、人間も同じことだ。
 そんな当たり前のことを、自分のこととなるとを失念してしまっていた。

「そうだ。このスープには、疲労回復に効くタウリンを含む魚介と、脳のエネルギー源になるブドウ糖を補う根菜が入っている。鶏肉は筋肉の修復に必要なタンパク質だ。俺が計算して作った」

「旦那様が、計算を……?」

 セレフィーナはスープをスプーンですくい、口に運んだ。
 温かい液体が喉を通り、胃に落ちる。

 その瞬間、身体の芯からじわりと熱が広がるのを感じた。

「……美味しい」

「当たり前だ。味付けの塩分濃度は0.8%、人間の体液に近く、最も旨味を感じる数値にしてある」

 グレイグは得意げに鼻を鳴らした。
 セレフィーナは驚愕した。

 この強面の辺境伯は、栄養学と調理科学に精通しているというのか。

「すごい……。完璧な組成です。これなら消化吸収率も最大化されます」

「だろう? さあ、残さず食え。完食しない限り、仕事部屋の鍵は渡さん」

 ぶっきらぼうな言い方だが、その皿には、セレフィーナの体を気遣う優しさが詰まっていた。
 実家では冷めきった残飯のような食事を摂ることも多かった。

 貴女の体のためにと、誰かが計算し、用意してくれた食事。
 それは、セレフィーナにとって、心と体を滑らかにする潤滑剤だった。

「……ありがとうございます」

 セレフィーナは資料のことを忘れ、温かいスープを夢中で口に運んだ。
 それを見守るグレイグの眼差しが、とても穏やかであることに、彼女はまだ気づいていなかった。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

処理中です...