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第9話:カタリスト――近づく足音と完璧なるエスコート
同盟国との返還式典を翌日に控えた午後。
新興子爵邸のアトリエで、エリアーヌは熱への耐性を高めた新しいプリザーブドフラワーの調合データを確認していた。
高分子の樹脂成分を細胞内に定着させるプロセスは順調に進み、彼女の指先はミリ単位の誤差もなくピンセットとスポイトを操っている。
そこへ、再び大公ギルベルトが訪れたという報せが入った。
(式典の前日に、わざわざご自身で? 装飾の最終確認であれば、副官の方を遣わせれば済むはずですが、まさか、何か問題が……)
エリアーヌは白衣を脱ぎ、塵一つない完璧な状態で応接室へと向かった。
部屋に入ると、近衛騎士団総団長としての正装に身を包んだギルベルトが、窓の外の庭園を見つめて立っていた。
「お忙しいところ申し訳ない、ヴァレリ令嬢。明日の式典に関する、極めて重要な件で直接君の力を借りに来た」
ギルベルトは振り返ると、単刀直入に切り出した。
彼の声には、いつもの威厳とともに、隠しきれない緊迫感が混じっていた。
「私の力、ですか?」
「ああ。君の並外れた眼力が必要だ。諜報網からの報告によると、最近、外務卿であるセルジィ侯爵の周辺で、非正規商会の職人が頻繁に目撃されているらしい」
その言葉を聞いた瞬間、エリアーヌの脳内でいくつかの情報が瞬時に連結された。
自身が侯爵家を去り、技術提供を完全に断ち切ったこと。
環境維持の知識がない夫のもとで、プリザーブドフラワーがどのような状態に置かれているかということ。
そして、窮地に陥った人間が保身のために選びがちな、最も愚かな隠蔽工作。
「……つまり、旦那様……いえ、前侯爵は、明日の式典で何か重大な不正、あるいは偽造を行っているのではないかと疑われているのですね」
「その通りだ。もし自国が主催する式典で、他国の国宝の偽物を掴ませるような真似をすれば、外交問題どころか国家への反逆行為にあたる。だが、私や部下の目では、それが本物か精巧な偽物かを瞬時に見極めることはできない。それに、当日まで厳重な警備のもとそれは保管されているから、我々貴族ですら、近づけない状況だ。これは、主催である彼が指示したのだろう」
ギルベルトは真っ直ぐにエリアーヌの目を見据え、一歩近づいた。
「だからこそ、何かあるかもしれない当日、君を式典の最前列に配置したい。私のパートナーとして、共に出席してくれないか」
その提案は、一般的な貴族社会の常識に照らし合わせれば、非常に大胆なものであった。
離縁したばかりの女性が、元夫が主催する公の場に、最高位の貴族である大公のエスコートで現れれば、どれほどの波紋を呼ぶか想像に難くない。
しかし、エリアーヌの中に躊躇いは一切なかった。
(離縁の手続きは公証人の印をもって完全に成立しており、法的な問題は何一つありません)
それに加えて、ギルベルトは「プリザーブドフラワーの最高技術保持者を、技術的監査役として同伴する」という、完璧な大義名分を用意している。
いかなる誹謗中傷も封じ込める、政治的パワーバランスに裏打ちされた強固な盾であった。
何より、エリアーヌ自身が、自分が心血を注いできたプリザーブドフラワーという芸術の価値を貶めるような粗悪な不正を、決して許す気はなかった。
「……承知いたしました、大公閣下。私の技術と誇りにかけて、もし祭壇に不自然な化学反応や劣化があれば、必ず見抜いてみせます」
彼女が力強く頷くと、ギルベルトの口元に初めて満足げな笑みが浮かんだ。
「心強い言葉だ。君のそのプロフェッショナルとしての矜持こそが、私にとって何よりも頼もしい」
彼は彼女の能力と知性に対する圧倒的な敬意を込めて、深く一礼した。
お互いの実力をリスペクトし合う強者同士の対等な信頼関係が、そこには確かに構築されていた。
「明日の朝、馬車で迎えに上がる。式典の演出では、花の美しさを際立たせるために強力な照明が使われる手筈になっている。この情報が何か参考になれば良いのだが」
ギルベルトの言葉に、エリアーヌは冷静に思考を巡らせた。
(細胞液の置換を省き、短期間で形だけを似せた偽造品を作るとすれば、必然的に使用できる薬品は限られてきます。もしそれが、熱に弱い物質であったならば……)
化学反応を促進させる触媒のように、彼女の存在が、隠蔽された嘘を急激な速度で暴き出すことになるだろう。
翌日の式典。
元夫が主催する華やかな祭壇の前で、最悪の事態が起きるまでのカウントダウンは、もう止められないところまで迫っていた。
新興子爵邸のアトリエで、エリアーヌは熱への耐性を高めた新しいプリザーブドフラワーの調合データを確認していた。
高分子の樹脂成分を細胞内に定着させるプロセスは順調に進み、彼女の指先はミリ単位の誤差もなくピンセットとスポイトを操っている。
そこへ、再び大公ギルベルトが訪れたという報せが入った。
(式典の前日に、わざわざご自身で? 装飾の最終確認であれば、副官の方を遣わせれば済むはずですが、まさか、何か問題が……)
エリアーヌは白衣を脱ぎ、塵一つない完璧な状態で応接室へと向かった。
部屋に入ると、近衛騎士団総団長としての正装に身を包んだギルベルトが、窓の外の庭園を見つめて立っていた。
「お忙しいところ申し訳ない、ヴァレリ令嬢。明日の式典に関する、極めて重要な件で直接君の力を借りに来た」
ギルベルトは振り返ると、単刀直入に切り出した。
彼の声には、いつもの威厳とともに、隠しきれない緊迫感が混じっていた。
「私の力、ですか?」
「ああ。君の並外れた眼力が必要だ。諜報網からの報告によると、最近、外務卿であるセルジィ侯爵の周辺で、非正規商会の職人が頻繁に目撃されているらしい」
その言葉を聞いた瞬間、エリアーヌの脳内でいくつかの情報が瞬時に連結された。
自身が侯爵家を去り、技術提供を完全に断ち切ったこと。
環境維持の知識がない夫のもとで、プリザーブドフラワーがどのような状態に置かれているかということ。
そして、窮地に陥った人間が保身のために選びがちな、最も愚かな隠蔽工作。
「……つまり、旦那様……いえ、前侯爵は、明日の式典で何か重大な不正、あるいは偽造を行っているのではないかと疑われているのですね」
「その通りだ。もし自国が主催する式典で、他国の国宝の偽物を掴ませるような真似をすれば、外交問題どころか国家への反逆行為にあたる。だが、私や部下の目では、それが本物か精巧な偽物かを瞬時に見極めることはできない。それに、当日まで厳重な警備のもとそれは保管されているから、我々貴族ですら、近づけない状況だ。これは、主催である彼が指示したのだろう」
ギルベルトは真っ直ぐにエリアーヌの目を見据え、一歩近づいた。
「だからこそ、何かあるかもしれない当日、君を式典の最前列に配置したい。私のパートナーとして、共に出席してくれないか」
その提案は、一般的な貴族社会の常識に照らし合わせれば、非常に大胆なものであった。
離縁したばかりの女性が、元夫が主催する公の場に、最高位の貴族である大公のエスコートで現れれば、どれほどの波紋を呼ぶか想像に難くない。
しかし、エリアーヌの中に躊躇いは一切なかった。
(離縁の手続きは公証人の印をもって完全に成立しており、法的な問題は何一つありません)
それに加えて、ギルベルトは「プリザーブドフラワーの最高技術保持者を、技術的監査役として同伴する」という、完璧な大義名分を用意している。
いかなる誹謗中傷も封じ込める、政治的パワーバランスに裏打ちされた強固な盾であった。
何より、エリアーヌ自身が、自分が心血を注いできたプリザーブドフラワーという芸術の価値を貶めるような粗悪な不正を、決して許す気はなかった。
「……承知いたしました、大公閣下。私の技術と誇りにかけて、もし祭壇に不自然な化学反応や劣化があれば、必ず見抜いてみせます」
彼女が力強く頷くと、ギルベルトの口元に初めて満足げな笑みが浮かんだ。
「心強い言葉だ。君のそのプロフェッショナルとしての矜持こそが、私にとって何よりも頼もしい」
彼は彼女の能力と知性に対する圧倒的な敬意を込めて、深く一礼した。
お互いの実力をリスペクトし合う強者同士の対等な信頼関係が、そこには確かに構築されていた。
「明日の朝、馬車で迎えに上がる。式典の演出では、花の美しさを際立たせるために強力な照明が使われる手筈になっている。この情報が何か参考になれば良いのだが」
ギルベルトの言葉に、エリアーヌは冷静に思考を巡らせた。
(細胞液の置換を省き、短期間で形だけを似せた偽造品を作るとすれば、必然的に使用できる薬品は限られてきます。もしそれが、熱に弱い物質であったならば……)
化学反応を促進させる触媒のように、彼女の存在が、隠蔽された嘘を急激な速度で暴き出すことになるだろう。
翌日の式典。
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