「地味な眼鏡女」と婚約破棄されましたが、この国は私の技術で保たれていたようです

水上

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第9話:炎上する王都、鎮火する辺境

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 空気が乾燥し、静電気で髪が逆立つような日が続いていました。
 この季節、最も警戒すべき化学反応は急速な酸化、すなわち火災です。

 ある日の午後、領都の鐘楼からけたたましい早鐘が鳴り響きました。
 木造建築が密集する下町エリアでの火災発生です。

「リル! 南区画で火事だ!」

 執務室に飛び込んできたギルバート様と共に、私は現場へと急行しました。
 強風が吹いており、火の回りが早ければ大惨事になりかねない気象条件です。

 しかし、私たちが現場に到着した時、そこに広がっていたのは阿鼻叫喚ではなく、奇妙な白い煙と、安堵の溜息でした。

「……鎮火、していますね」

 私が眼鏡の位置を直して確認すると、ボヤ騒ぎを起こした民家の前で、近所のおかみさんたちが井戸端会議をしていました。

「いやぁ、焦ったねぇ」

「でも、リル様が配ってくれたあれがあったから助かったわよ」

「本当、投げるだけで消えるんだもの。水汲みバケツリレーなんてやってたら、今頃この一帯は丸焦げだったわ」

 彼女たちの足元には、薄いガラスの破片が散らばっていました。

 私が開発し、全世帯に配布しておいた投擲用消火弾の残骸です。

「極薄のガラス球の中に、炭酸水素ナトリウムと硫酸、および泡消火剤を封入してあります。衝撃で割れると化学反応を起こし、二酸化炭素の泡が爆発的に広がって酸素を遮断する――窒息消火の原理ですね」

 ギルバート様が、黒焦げになりかけた壁と、無事な家屋を見て感嘆の声を漏らしました。

「子供や女性の力でも、火元に投げつけるだけでいい、か。……水利の悪いこの地区で、ボヤを初期消火だけで食い止めるとは」 

「火災は最初の五分が勝負ですから。物理的な延焼速度計算に勝つには、誰でも使える即効性の武器が必要なんです」

 住民たちが私たちに気づき、「ありがとうございます!」と手を振っています。
 その笑顔を見ながら、私はふと、遠く離れた王都の空を見上げました。

 同じような乾燥注意報が、あちらでも出ているはずですが。
 果たして、彼らに備えはあるのでしょうか。

 その夜。領主館の会議室にて。

 消火弾の増産体制を整えるため、ガラス工房の職人や、配送担当の兵士たちが集まっていました。
 連日の激務に加え、今日のボヤ騒ぎへの対応で、彼らの顔には疲労の色が濃く滲んでいました。

「はぁ……。明日までにあと五百個か……」

「ガラスを薄く吹くのが難しいんだよなぁ……、失敗続きで凹むぜ……」

「俺たち、いつまでこの熱波の中で戦えばいいんだ……」

 重苦しい空気が漂う中、私は彼らの前に立ちました。
 
「皆様。ガラスという物質が、どのようにして強靭さと透明さを手に入れるかご存知ですか?」

 職人の一人が顔を上げました。

「え? そりゃあ、炉で溶かして……」

「ええ。千度を超える高温の炉でドロドロに溶かされ、叩かれ、引き伸ばされ、急冷されるという過酷なプロセスを経て初めて、ガラスは有用な形になります」

 私は彼らの顔を一人一人見渡しました。

「今の貴方たちは、熱されている最中なのです。これから美しい形になる途中経過にすぎません」

 きょとんとする彼らに、私は続けました。

「今日の火災、焼失家屋はゼロでした。貴方たちが流した汗が、そのまま住民の命を救う盾になったのです。……今、熱くて死にそうなのは分かりますが、炉から出れば、貴方たちは以前よりずっと強くて美しい輝きを放っているはずですよ」

 一瞬の静寂の後、職人の親方がニッと笑いました。

「へっ……、俺たち自身が価値のあるガラスだってか。上手いこと言いやがって」

「違いない。俺たちは今、鍛えられてる最中ってわけだ!」

「よし、やるか! 俺たちのガラスで火事をねじ伏せてやる!」

 単純ですが、士気はV字回復しました。

 彼らの熱量管理も大事なことの一つです。

     *

「うるさい! うるさいうるさいうるさーーーーいッ!!」

 王城にある王太子の寝室で、彼は狂ったように叫び、枕を投げつけていた。
 彼の目の下にはどす黒いクマができ、目は血走っている。

 窓の外、城下町の一角が赤く染まっていた。
 初期消火に失敗した火災が広がり、夜通し半鐘が鳴り響き、人々の悲鳴や怒号が風に乗ってここまで届いているのだ。

「なぜだ! なぜこんなにうるさい! 窓を閉めているのに!」

 彼は窓に駆け寄り、バンバンと叩いた。

 そこにあるのは、以前リルが設置した真空断熱・防音二重ガラス――ではなく、急遽入れ替えられた普通の板ガラスだった。

 先日の毒ガス漏洩騒ぎの際、避難のどさくさでリルの特製ガラスが割れてしまったのだ。
 新しい職人が入れたガラスは、厚みが不均一で気密性も皆無。

 隙間からは火災の煙たなびく熱風と、凍えるような夜風が交互に入り込み、そして何より音を全く遮断できていなかった。

「寒い……、暑い……、うるさい……!」

 彼は頭を抱えてうずくまりました。
 かつて、この部屋は静寂そのものだった。

 どんなに外が嵐でも、祭りの喧騒があっても、リルが作った窓を閉めれば、そこは完全なプライベート空間だった。

 適度な室温と、深い静けさ。
 それが当たり前だと思っていた。

 しかし、その静寂こそが、彼女の高度な技術によって人工的に作られた贅沢品だったことに、失って初めて気づいたのだ。

「リル……、リルを呼べ……! あの静かな部屋を返してくれ……!」

 不眠が続き、精神の限界を迎えた彼は、幻覚を見るようになっていた。
 燃え盛る王都の炎が、自分を責めるリルの瞳に見えるのだ。

「殿下! 火の手が第三区画へ……!」

「知るか! 私は寝たいんだ! 眠らせろぉぉぉッ!」

 側近の報告に、王太子は獣のような咆哮を上げた。
 指導者が理性を失ったことで、王都の消火活動はさらに遅れ、被害は拡大の一途を辿るばかりだった。

     *

 翌朝。
 ギルバート様から、王都の大火事と、王太子のご乱心の報せを聞いた私は、静かに紅茶を啜りました。

「……そうですか。断熱と防音の機能不全による睡眠障害。判断力の低下は必然ですね」

「お前、本当に容赦ないな。元婚約者が発狂しかけているというのに」

「自業自得です。……それに」

 私は窓の外、朝日を浴びて仕事に向かう職人たちの、活気に満ちた背中を見つめました。

「私には、大切なガラスたちがいますから。壊れた他所の窓の心配をしている暇はありません」

 ギルバート様は苦笑し、新しい紅茶を注いで渡してくれました。
 その香りは、焦げ臭い王都の風とは無縁の、安らぎに満ちたものでした。
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