「地味な眼鏡女」と婚約破棄されましたが、この国は私の技術で保たれていたようです

水上

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第8話:腐る食料、漏れる毒

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「ぐ、おぉ……、腹が……!」

「衛生兵! こっちもだ! 吐き気が止まらん!」

 ソレイユ第一王子が意気揚々と率いて出発した害獣討伐の遠征軍。

 その野営地は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 敵の攻撃を受けたわけではない。
 夕食を摂った直後、兵士たちが次々と腹痛を訴えて倒れたのだ。

「なんだこれは! 毒を盛られたのか!?」

 王子自身も青ざめた顔で腹を押さえ、補給部隊長を怒鳴りつけた。
 部隊長は震えながら、開封された瓶詰めの山を指差した。

「毒ではありません……。腐っていたのです。兵糧の煮込み肉が」

「馬鹿な! これは長期保存用の瓶詰めだろう! 今までの物なら一年は持つはずだ!」

「そ、それが……、リル様がいなくなってから納入されたこの新型瓶は、耐熱性が低く……」

 部隊長が割れた瓶の破片を見せた。

「煮沸殺菌の工程で、熱に耐えきれず微細なヒビが入っていたようです。そこから雑菌が入り込み、中で腐敗が進んでいました。……見た目は密封されていても、中身は毒の沼です」

「ええい、なら他の瓶はどうだ!」

「密封が甘く、空気が入っています。……全滅です。予備の食料は全て廃棄するしかありません」

 兵站の崩壊。
 それは軍隊にとって死を意味する。

 空腹と腹痛に苦しむ兵士たちの視線は、敵である害獣よりも、無能な指揮官である王子に向けられ始めていた。

 さらに、悲劇が起きたのは戦場だけではなかった。
 王城の地下、薬品や錬金術用の素材を保管する倉庫で、警報の鐘が鳴り響いていた。

「退避ーッ! 全員退避せよ! ガスが漏れているぞ!」

 倉庫番の騎士たちが、口元を布で覆いながら這うように逃げ出してくる。
 原因は、棚に並んでいた劇薬の入ったガラス容器だった。

 本来、揮発性の高い薬品を保存する容器には、本体と蓋の接触面をミクロン単位で擦り合わせる、共通摺り合わせ(グラウンド・ガラス・ジョイント)という高度な加工技術が必要だ。

 リル・ウィトリアの手によるそれは、分子レベルで密着し、一分子の気体すら逃さない完璧な盾だった。

 しかし、彼女を追い出した後に雇われた職人には、その技術がなかった。

 蓋が閉まっていればいいだろうという安易な認識で作られた容器。
 そのわずかな隙間から、致死性の有毒ガスが漏れ出し、地下通路を伝って城内へと広がっていったのである。

「王座の間へガスが流れている! 窓を開けろ!」

「駄目だ、風向きが悪い! 王族の方々を庭園へ避難させろ!」

 優雅な生活を送っていた王族や貴族たちが、着の身着のまま城外へ逃げ惑う。
 かつてリルが完璧に封じ込めていた毒が、彼女の不在によって牙を剥いた瞬間だった。

     *

 一方、王国の混乱とは対照的に、辺境の夜は静寂に包まれていた。

 領都の片隅にある倉庫街。
 闇に紛れて、一人の男が侵入を試みていた。

 隣国から流れてきた泥棒である。

(へへっ、この辺境は景気がいいって話だ。警備兵も少ねえし、ちょいと失敬して……)

 男が倉庫の裏庭に足を踏み入れた、その時。

 地面を踏んだ瞬間、鼓膜を劈くような甲高い音が響き渡った。

 それはただの砂利を踏む音ではなかった。
 ガラスが擦れ合い、高周波を撒き散らすような不快かつ大音量だった。

「うわっ!? な、なんだ!?」

 男が慌てて足を上げ、別の場所に着地する。

 しかし、そこでも結果は同じだった。

「誰だ!」

「そこにいるのは分かっているぞ!」

 即座に、近くの詰め所から警備兵たちが飛び出してきた。

 さらに、逃げた先の倉庫の扉が開くと同時に、軒先に吊るされたガラス風鈴が鋭い音色を奏で、侵入者の位置を正確に知らせた。

「くそっ、逃げるしかねえ!」

「待て!」

 泥棒は何も盗めず、あっという間に取り押さえられた。

     *

「……うまくいったようですね」

 騒ぎが収まった後、私はギルバート様と共に現場を確認していました。
 地面に敷き詰められているのは、白っぽく泡立ったような奇妙な石――防犯砂利です。

「廃ガラスを粉砕し、発泡剤を混ぜて焼成した発泡ガラスです。踏むと七十デシベル以上の音が鳴るように、気泡のサイズを調整してあります」

「……お前は本当に、無駄というものを許さないな」

「工房で出たガラス屑の再利用ですから、コストはほぼゼロです。それに、この砂利は軽いので泥棒の足を取りますが、刃物のように鋭くはないので怪我はさせません。人道的なトラップです」

 警備兵不足に悩む辺境において、この鳴りガラスは効果的となっていました。

 安心して眠れる夜。
 それは、何よりも代えがたい贅沢です。

 月明かりの下、ギルバート様がふと足を止め、私の方を向きました。
 そして、私の肩をそっと抱き寄せました。

「……王都から早馬が来た。城の一部が毒ガスで立ち入り禁止になり、遠征軍は食中毒で壊滅状態だそうだ」

「……そうですか。保存と密封の基本を怠った結果ですね」

「ああ。だが、俺たちの領地は違う」

 彼は腕に力を込め、私の体温を確かめるように抱きしめました。

「美味しい食事があり、安心して眠れる家があり、静かな夜がある。……当たり前だと思っていた平穏が、実はお前の技術というガラスの上に成り立っていたことを、今さらながら痛感するよ」

 彼の胸からは、規則正しい心音が聞こえます。

 それは、毒にも飢えにも脅かされていない、健康で力強い鼓動でした。

「お前が守った平和だ、リル。……ありがとう」

 耳元で囁かれた感謝の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じました。

 王都では「地味で華がない」と捨てられた私の技術。
 けれどここでは、その地味な技術こそが、大切な人たちの命と生活を守る盾になっています。

「……お礼を言うのは私の方です。私のガラスを、正しい場所に置いてくださったのですから」

 私は彼の背中に手を回しました。

 そして、私の居場所はこの辺境の地なのだと、改めて実感しました。
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