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第9話:従順な妻
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「わ……、わかればいいんだ」
ヴィンセントは、予想外の反応に戸惑いながらも、すぐに安堵の表情を浮かべた。
やはり、自分の教育は間違っていなかったのだ。
厳しく叱ったことで、彼女もようやく自分の狭量さを恥じたのだろう。
「そうだよ、ロザリンド。君は優秀だが、少し視野が狭いところがある。私がこうして導いてやらなければ、君は孤立してしまうんだ」
「はい。肝に銘じます。私は数字しか見えない冷たい女ですから、これからは旦那様の広いお心と、ミエルさんの豊かな感性を見習わせていただきます」
ロザリンドは瞬き一つせず、ヴィンセントの言葉を肯定した。
かつてなら「でも」「だって」と食い下がっていた言葉を、すべて「はい」「左様でございますね」という肯定のラベルに貼り替えて出荷する。
ただ、それだけの作業だ。
後ろに隠れていたミエルが、恐る恐る顔を出した。
「ロザリンドさん……、もう、怒ってない?」
上目遣いで、媚びるような視線を向けてくる。
ロザリンドは、彼女に対しても、変わらぬ深さで微笑んだ。
「ええ、怒っておりませんわ。ミエルさんのおかげで、私も大切なことに気づけましたもの」
「ほんとぉ? よかったぁ! 私、やっぱり愛が伝わったんだね!」
ミエルはパッと顔を輝かせ、無邪気にヴィンセントに抱きついた。
「ねえヴィンセント、やっぱりロザリンドさんもわかってくれたよぉ!」
「ああ、そうだな。やはり雨降って地固まるというやつか。我が家もこれで安泰だ」
ヴィンセントは満足げに頷き、上機嫌でロザリンドの肩を叩いた。
「今日の夕食は期待しているよ。仲直りの乾杯をしようじゃないか」
二人は笑い合いながら、サロンへと消えていった。
その背中を見送りながら、ロザリンドは口元の笑みを崩さなかった。
筋肉が痙攣することも、頬が引きつることもない。
それは、彼女が身につけた新しい仮面――従順な妻という名の、最強の防具だったからだ。
(ええ、安泰でございますね、旦那様)
ロザリンドは心の中で、冷ややかに呟いた。
これでもう、貴方と喧嘩をすることはありません。
議論をすることも、相談をすることも、心を交わすことも。
二度と、永遠にありません。
彼女はくるりと踵を返した。
向かう先は執務室だ。
書き直さなければならない書類がある。
ゴミ箱に捨てられた事業計画書ではない。
実家の男爵家へ送る手紙と、弁護士への相談状、そして彼女自身の才能を正当に評価してくれる次の場所への連絡書だ。
廊下を歩くロザリンドの足取りは、かつてないほど軽かった。
希望に満ちていたわけではない。
ただ、背負っていた期待という重荷をすべて下ろした人間特有の、空虚な軽やかさだった。
窓の外では、冬の気配を含んだ風が吹き始めていたが、ロザリンドの心はそれよりも遥かに冷たく、静まり返っていた。
――こうして、バークリー伯爵家の本当の終わりが始まった。
それに気づいているのは、屋敷の中でただ一人、微笑みを貼り付けた夫人だけだった。
ヴィンセントは、予想外の反応に戸惑いながらも、すぐに安堵の表情を浮かべた。
やはり、自分の教育は間違っていなかったのだ。
厳しく叱ったことで、彼女もようやく自分の狭量さを恥じたのだろう。
「そうだよ、ロザリンド。君は優秀だが、少し視野が狭いところがある。私がこうして導いてやらなければ、君は孤立してしまうんだ」
「はい。肝に銘じます。私は数字しか見えない冷たい女ですから、これからは旦那様の広いお心と、ミエルさんの豊かな感性を見習わせていただきます」
ロザリンドは瞬き一つせず、ヴィンセントの言葉を肯定した。
かつてなら「でも」「だって」と食い下がっていた言葉を、すべて「はい」「左様でございますね」という肯定のラベルに貼り替えて出荷する。
ただ、それだけの作業だ。
後ろに隠れていたミエルが、恐る恐る顔を出した。
「ロザリンドさん……、もう、怒ってない?」
上目遣いで、媚びるような視線を向けてくる。
ロザリンドは、彼女に対しても、変わらぬ深さで微笑んだ。
「ええ、怒っておりませんわ。ミエルさんのおかげで、私も大切なことに気づけましたもの」
「ほんとぉ? よかったぁ! 私、やっぱり愛が伝わったんだね!」
ミエルはパッと顔を輝かせ、無邪気にヴィンセントに抱きついた。
「ねえヴィンセント、やっぱりロザリンドさんもわかってくれたよぉ!」
「ああ、そうだな。やはり雨降って地固まるというやつか。我が家もこれで安泰だ」
ヴィンセントは満足げに頷き、上機嫌でロザリンドの肩を叩いた。
「今日の夕食は期待しているよ。仲直りの乾杯をしようじゃないか」
二人は笑い合いながら、サロンへと消えていった。
その背中を見送りながら、ロザリンドは口元の笑みを崩さなかった。
筋肉が痙攣することも、頬が引きつることもない。
それは、彼女が身につけた新しい仮面――従順な妻という名の、最強の防具だったからだ。
(ええ、安泰でございますね、旦那様)
ロザリンドは心の中で、冷ややかに呟いた。
これでもう、貴方と喧嘩をすることはありません。
議論をすることも、相談をすることも、心を交わすことも。
二度と、永遠にありません。
彼女はくるりと踵を返した。
向かう先は執務室だ。
書き直さなければならない書類がある。
ゴミ箱に捨てられた事業計画書ではない。
実家の男爵家へ送る手紙と、弁護士への相談状、そして彼女自身の才能を正当に評価してくれる次の場所への連絡書だ。
廊下を歩くロザリンドの足取りは、かつてないほど軽かった。
希望に満ちていたわけではない。
ただ、背負っていた期待という重荷をすべて下ろした人間特有の、空虚な軽やかさだった。
窓の外では、冬の気配を含んだ風が吹き始めていたが、ロザリンドの心はそれよりも遥かに冷たく、静まり返っていた。
――こうして、バークリー伯爵家の本当の終わりが始まった。
それに気づいているのは、屋敷の中でただ一人、微笑みを貼り付けた夫人だけだった。
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