殿下から婚約破棄された後、戻ってきてくれと懇願されましたがもう遅いです。~契約結婚のはずなのに、溺愛されている気がするのですが~

水上

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第7話:始まりの予感

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 北の辺境、ロックホールド領への道のりは、想像以上に過酷なものだった。

 王都を出て数日。
 窓の外の景色は、なだらかな平原から険しい岩肌と針葉樹の森へと変わっていた。
 
 気温も著しく低下し、吐く息が白い。

「……寒いか?」

 向かいの席で腕を組んでいたギデオンが、ぶっきらぼうに尋ねてきた。

 彼は分厚い軍服の上から毛皮のマントを羽織っているが、その下にある筋肉のボイラーがフル稼働しているのか、全く寒そうな様子がない。

 セレスは膝上のデータを整理しながら、眼鏡の位置を直した。

「室温一二度。製粉工場の保管庫としては理想的な温度ですが、人間の居住環境としては少々低めですね。ですが、問題ありません」

「無理をするな。風邪を引かれたら、俺の……、いや、領地の損失だ」

 ギデオンは眉を寄せ、自分の予備の毛皮を無造作に放り投げてきた。

 ずしり、と重い。
 熊一頭分ありそうな重量感だ。

 セレスは「合理的配慮に感謝します」と礼を言い、その暖かさに包まれた。
 獣の匂いと、微かに石鹸のような清潔な香りがする。

「それより閣下、到着まであとどれくらいですか? 水質検査キットの試薬が沈殿してしまう前に、水源を確認したいのですが」

「……お前は本当にブレないな。もうすぐだ。あの丘を越えれば城下が見える」

 ギデオンの言葉通り、峠を越えると、灰色の城壁に囲まれた街が現れた。
 ロックホールド辺境伯領。

 厳しい自然に囲まれたこの地は、王都の華やかさとは無縁の、質実剛健な空気を纏っていた。

 城に到着するなり、セレスは休息を固辞して現地のパンを要求した。
 出されたのは、黒くて硬い、レンガのような塊だった。

(……比重が高い。気泡の立ち上がりが不十分ですね)

 一口かじってみる。
 ガリッ、という不穏な音がした。

 味は雑味が多く、舌に残るざらつきがある。
 飲み込むのに大量の水が必要だ。

「……どうだ?」

 ギデオンが心配そうに覗き込んでくる。
 セレスは表情一つ変えずに飲み込み、冷静に分析結果を述べた。

「これはパンではありません。加熱処理された小麦の死体です」

「し、死体……」

「灰分の混入率が高すぎて味がえぐいです。さらに製粉時の摩擦熱でタンパク質が変性し、グルテンの結着力が失われています。これでは膨らみませんし、消化にも悪いです。領民の方々が胃腸炎を起こしていないか心配です」

 セレスはナプキンで口を拭い、立ち上がった。

「原因は明白です。製粉工程に致命的な欠陥があります。直ちに現場へ案内してください」

 領内最大の製粉所は、川沿いにあった。
 巨大な水車が轟音を立てて回っている。

 その迫力は凄まじいが、セレスの目には非効率の塊にしか映らなかった。

「なんだ、女連れかよ。領主様も物好きだな」

 出迎えたのは、粉まみれの作業着を着た初老の男だった。
 製粉所長のガレンだ。

 彼はセレスを一瞥すると、露骨に鼻を鳴らした。

「ここは貴族のお嬢様が遊びに来る場所じゃねえよ。ドレスが汚れる前に帰んな」

「ガレン、口を慎め。彼女は俺の妻だ」

 ギデオンが低い声で威圧するが、ガレンは悪びれもせずに肩をすくめた。

「へえ、奥方様でしたか。ですがね閣下、俺たちは忙しいんでさ。今年の麦も出来が悪いし、水車の調子もおかしい。粉の歩留まりが下がってて、みんなイライラしてるんですわ」

 職人たちの視線は冷ややかだ。
 現場を知らない素人が、という侮蔑の色が隠されていない。

 だが、セレスにとってそんな感情論はどうでもよかった。
 彼女はスタスタと石臼の周りを歩き、駆動ギアの噛み合わせと、水路の水量計をチェックした。

 その後、セレスは懐から手帳を取り出し、計算式を走り書きした。
 そして、ガレンに向き直った。

 これからセレスは彼に、無視できない結果を示そうとしていた。
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