殿下から婚約破棄された後、戻ってきてくれと懇願されましたがもう遅いです。~契約結婚のはずなのに、溺愛されている気がするのですが~

水上

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第6話:契約成立

「俺が必要なのは、横で微笑む人形じゃない。俺の領地のやせ細った小麦を、食える糧に変えられる頭脳だ。……俺と手を組んでくれないか」

 ギデオンのその言葉を聞いて、セレスの心臓が大きく跳ねた。

 それはときめきではない。
 もっと知的な興奮だ。

 美しいから、家柄が良いから。
 そんな理由ではなく、その頭脳が必要だと言われたのだ。

 技術者として、これ以上の殺し文句があるだろうか。

(最高の……、ヘッドハンティングですね)

 セレスは契約書を受け取り、素早く目を通した。

 研究設備の提供、予算の裁量権、そして生活の保障。
 条件は破格だ。

 だが、セレスにはもう一つ、確認しなければならないことがあった。
 彼女は契約書から視線を外し、ギデオンの身体をじっと凝視した。

「……見るな」

「いえ、見せてください。重要事項説明の一部です」

 ギデオンが気まずそうに顔を背けるのを無視して、セレスは彼の上腕に熱い視線を注いだ。

 服の上からでもわかる、丸太のような二の腕。
 上腕二頭筋の盛り上がり、前腕に浮き出る血管の太さ。

 そして、重い馬車の扉を軽々と扱った握力。

(素晴らしい……! 硬質小麦はグルテン形成に強い剪断力を必要とします。私の細腕では加水率四〇パーセント以下の生地を捏ねる際、どうしても機械の補助が必要でした。ですが、この筋肉があれば……!)

 セレスの脳内で、シミュレーションが走る。
 彼がボウルを抱え、その豪腕で生地を捏ねる姿。

 機械をも凌駕するトルク。
 一定のリズムで繰り出されるパンチング。

 それは、まさに究極の製麺機の擬人化だった。

「辺境伯様」

「……なんだ」

「その強靭な腕は理想の製麺機です。ぜひ一度、私の生地を全力で捏ねてください」

「……は?」

 ギデオンが素っ頓狂な声を上げた。

 愛の告白でも、感謝の言葉でもなく、いきなり「お前の腕はミキサーだ」と言われたのだ。
 さすがの彼も理解が追いつかないらしい。

「あ、いえ、比喩的な意味ではなく、物理的な意味で」

「ぶ、物理的……?」

「はい。あなたのその上腕二頭筋と広背筋があれば、コシの強い最高の麺が打てます。その筋肉を私の製粉ラボにお貸しいただけますか?」

 セレスは真剣そのものの眼差しで詰め寄った。

 ギデオンは頬を引きつらせ、しばらく呆然としていたが、やがて「……ふっ」と短く笑った。

「変わった女だ。俺の筋肉を見て、悲鳴を上げなかった女は初めてだ」

「悲鳴? なぜですか?」

 ギデオンは愉快そうに喉を鳴らすと、大きな手を差し出した。

「いいだろう。俺の腕も、筋肉も、全てお前の実験に使えばいい。その代わり──俺の領民を、飢えから救ってくれ」

「承知いたしました。ビジネスパートナーとして、そのオーダー、完璧に遂行してみせます」

 セレスはそのゴツゴツとした手を握り返した。
 掌は分厚く、熱く、そして驚くほど頼もしかった。

 この瞬間、二人の奇妙な契約結婚が成立した。

「では、直ちに出発しましょう。移動中の馬車内で、まずは領地の土壌データと水質検査の結果を見せていただけますか?」

「……休もうという発想はないのか?」

「休息は死んでからで十分です」

 セレスは軽やかに馬車へと乗り込んだ。
 ギデオンは呆れたように肩をすくめた。

 しかし、その口元に微かな笑みを浮かべながら、彼女に続いて馬車へ乗り込んだ。

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