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第18話:境界線の争い
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その巨木は、数百年もの間、そこにあったと言われています。
公爵領とローズベリー伯爵領の境界線。
そのちょうど境目に、天を衝くような巨大なオーク(ナラ)の木がそびえ立っていました。
幹周りは大人三人で手を繋いでも届かないほど太く、苔むした樹皮は歴史の重みを物語っています。
しかし、その静寂は、無粋な金属音によって切り裂かれました。
「おい、もっと早く切れ! 日が暮れるぞ!」
エドワード様の怒鳴り声が響きます。
私とアルフレッド様が現場に駆けつけると、数人の木こりたちが、巨大な鋸を幹に当てているところでした。
「やめなさい! 何をしているんですか!」
私が叫ぶと、木こりたちは驚いて手を止めました。
エドワード様は、私たちを見ても悪びれる様子もなく、むしろ邪魔が入ったことに舌打ちをしました。
「チッ、また来たか。見ての通り、伐採作業だ。この木は邪魔だからな」
「邪魔? これほど立派な古木をですか?」
「ああ。枝が俺の領地側に大きく張り出していて、日当たりが悪い。それに秋になればドングリや枯れ葉が落ちてきて掃除が面倒だ。ベアトリスも『虫が来るから嫌だ』と言っている」
エドワード様は、背後で日傘を差しているベアトリス様に視線を送りました。
「それに、この木は高級家具の材料になる。切り倒して売れば、先日のイチイ事件の賠償金の足しになるだろう」
「……金のために、歴史ある木を切るというのか」
アルフレッド様が静かに歩み出ました。その目には、いつもの冷徹な光が宿っています。
「エドワード君。君は一つ、重大な勘違いをしている」
「勘違いだと?」
「この木の所有権だ。勝手に切る権利は君にはない」
エドワード様は鼻で笑い、頭上の枝を指差しました。
「何を言う。見ろ、この枝ぶりを。全体の6割以上が、俺の領地側に張り出している。枝が俺の空気を吸い、俺の日光を浴びて育ったんだ。なら、この木は実質的に俺のものだろう!」
「……相変わらず、君の論理は幼児並みだな」
アルフレッド様は呆れ果てて首を振りました。
「枝がどこに伸びていようと関係ない。重要なのは幹と根がどこにあるかだ」
「幹なら、ちょうど境界線上じゃないか!」
「よく見ろ」
アルフレッド様は、木の根元を指し示しました。
巨大な根が地面を這っていますが、幹の中心軸は、わずかに――しかし確実に、公爵領側に寄っていました。
「古代より続く法、土地付着の原則(スーパーフィシーズ・ソロ・セディット)を知らんのか。『土地に定着した物は、その土地の所有者に帰属する』。この木の幹の中心は私の土地にある。よって、この木は法的に私の所有物だ」
アルフレッド様は懐から測量図を取り出し、広げました。
「君が主張できるのは、君の土地に越境してきた枝の剪定を私に請求する権利だけだ。木そのものを伐採し、材木として売却する権利など1ミリもない」
エドワード様は顔を真っ赤にして反論しました。
「へ、屁理屈を言うな! 根っこだって俺の土地に入り込んでいるぞ! 地面の下の栄養を吸っているんだから、俺のものだ!」
そこで、私が口を挟みました。
「エドワード様、それは逆効果です」
「ああん? なんだフローラ!」
「もし、根がエドワード様の土地に入り込んでいることを理由に所有権を主張するなら……、エドワード様は、この木を支える責任も負うことになります」
私は巨木の足元、地面を這う太い根を撫でました。
「この木は樹齢300年以上。根は地下深く、そして広範囲に広がっています。特にこの場所は傾斜地です。この木の根が、土砂崩れを防ぐアンカーの役割を果たしているんですよ」
「土砂崩れ……?」
「はい。もしこの木を切れば、根は数年で腐り、地盤の保持力を失います。そうなれば、次の大雨でエドワード様の領地側にあるあの果樹園は、土砂と一緒に流されてしまうでしょう」
私は丘の下に広がる、エドワード様の領地のブドウ畑を指差しました。
「植物学的に言えば、この木の根圏は、あなたの土地を守っている守護神なんです。それを切るということは、自らの土地を破壊する行為と同じです」
「うっ……」
エドワード様が言葉に詰まりました。
しかし、お金に困っている彼は引き下がりません。
「知ったことか! 俺は今すぐ金が欲しいんだ! 半分は俺の領地にあるんだから、半分に切って俺の分だけ持っていく!」
「……半分に切る、か。ソロモン王の裁判のようなことを言う」
アルフレッド様はため息をつき、木の幹の、ある一点を指でなぞりました。
そこには、古びて苔に埋もれかけた、石の杭が食い込んでいました。
木が成長して、飲み込んでしまったのです。
「エドワード君。君は本当に歴史を知らないようだな。この木はただの境界木ではない。あかしの木だ」
「あかし?」
「数代前の領主たちが境界を定めた際、動かない目印としてこの木を選び、石碑を埋めた。この木そのものが、公的な測量基準点なのだよ」
アルフレッド様は冷ややかに宣告しました。
「もし君がこの木を切り倒せば、両家の境界を示す基準が消失する。そうなればどうなるか? 法に基づき、国による大規模な再測量が行われることになる」
「さ、再測量だと?」
「ああ。そして古い文献によれば……、本来の境界線は、ここよりさらに50メートルほど君の領地側にあるらしいぞ?」
その言葉に、エドワード様が飛び上がりました。
「な、なんだと!?」
「長い年月の間に、君の家が少しずつ畑を広げて侵食していたようだな。この木があるおかげで、私は黙認してやっていたが……、木がなくなれば、厳密な測量をやり直さねばならん。そうなれば、君のブドウ畑の半分は没収されることになるが、それでも切るか?」
エドワード様の顔色が、ブドウの皮のように紫色になりました。
木一本分の材木代と、ブドウ畑半分。
どちらが得か、いくら彼でも計算できます。
「く、くそぉぉぉっ! 覚えてろ! 木ごときに守られるなんて!」
エドワード様は捨て台詞を吐き、木こりたちに「撤収だ!」と叫んで逃げ帰っていきました。
ベアトリス様も「日焼けするわ!」と文句を言いながらその後を追います。
静けさが戻った丘の上で、アルフレッド様は巨木の幹をポンと叩きました。
「……老兵は死なず、ただ立ち尽くすのみ、か」
「よかった。切られずに済んで」
私はホッとして、木の幹に耳を当てました。
微かに、水を吸い上げる音が聞こえるような気がします。
「それにしてもアルフレッド様。境界線が50メートルずれているというのは、本当ですか?」
「さあな。脅し半分だ」
アルフレッド様は悪戯っぽく肩をすくめました。
「だが、この木が両家の緩衝材になっているのは事実だ。白黒つけすぎるよりも、曖昧なまま共存する方がいい場合もある。……植物の共生関係のようにな」
「ふふ、そうですね」
私たちは巨木に見守られながら、丘を降りました。
根は地中で絡み合い、枝は空で触れ合う。
人間同士の境界線も、この木のように、もう少し柔軟であればいいのに……。
そう願いながら、私はアルフレッド様の袖を少しだけ強く握りました。
公爵領とローズベリー伯爵領の境界線。
そのちょうど境目に、天を衝くような巨大なオーク(ナラ)の木がそびえ立っていました。
幹周りは大人三人で手を繋いでも届かないほど太く、苔むした樹皮は歴史の重みを物語っています。
しかし、その静寂は、無粋な金属音によって切り裂かれました。
「おい、もっと早く切れ! 日が暮れるぞ!」
エドワード様の怒鳴り声が響きます。
私とアルフレッド様が現場に駆けつけると、数人の木こりたちが、巨大な鋸を幹に当てているところでした。
「やめなさい! 何をしているんですか!」
私が叫ぶと、木こりたちは驚いて手を止めました。
エドワード様は、私たちを見ても悪びれる様子もなく、むしろ邪魔が入ったことに舌打ちをしました。
「チッ、また来たか。見ての通り、伐採作業だ。この木は邪魔だからな」
「邪魔? これほど立派な古木をですか?」
「ああ。枝が俺の領地側に大きく張り出していて、日当たりが悪い。それに秋になればドングリや枯れ葉が落ちてきて掃除が面倒だ。ベアトリスも『虫が来るから嫌だ』と言っている」
エドワード様は、背後で日傘を差しているベアトリス様に視線を送りました。
「それに、この木は高級家具の材料になる。切り倒して売れば、先日のイチイ事件の賠償金の足しになるだろう」
「……金のために、歴史ある木を切るというのか」
アルフレッド様が静かに歩み出ました。その目には、いつもの冷徹な光が宿っています。
「エドワード君。君は一つ、重大な勘違いをしている」
「勘違いだと?」
「この木の所有権だ。勝手に切る権利は君にはない」
エドワード様は鼻で笑い、頭上の枝を指差しました。
「何を言う。見ろ、この枝ぶりを。全体の6割以上が、俺の領地側に張り出している。枝が俺の空気を吸い、俺の日光を浴びて育ったんだ。なら、この木は実質的に俺のものだろう!」
「……相変わらず、君の論理は幼児並みだな」
アルフレッド様は呆れ果てて首を振りました。
「枝がどこに伸びていようと関係ない。重要なのは幹と根がどこにあるかだ」
「幹なら、ちょうど境界線上じゃないか!」
「よく見ろ」
アルフレッド様は、木の根元を指し示しました。
巨大な根が地面を這っていますが、幹の中心軸は、わずかに――しかし確実に、公爵領側に寄っていました。
「古代より続く法、土地付着の原則(スーパーフィシーズ・ソロ・セディット)を知らんのか。『土地に定着した物は、その土地の所有者に帰属する』。この木の幹の中心は私の土地にある。よって、この木は法的に私の所有物だ」
アルフレッド様は懐から測量図を取り出し、広げました。
「君が主張できるのは、君の土地に越境してきた枝の剪定を私に請求する権利だけだ。木そのものを伐採し、材木として売却する権利など1ミリもない」
エドワード様は顔を真っ赤にして反論しました。
「へ、屁理屈を言うな! 根っこだって俺の土地に入り込んでいるぞ! 地面の下の栄養を吸っているんだから、俺のものだ!」
そこで、私が口を挟みました。
「エドワード様、それは逆効果です」
「ああん? なんだフローラ!」
「もし、根がエドワード様の土地に入り込んでいることを理由に所有権を主張するなら……、エドワード様は、この木を支える責任も負うことになります」
私は巨木の足元、地面を這う太い根を撫でました。
「この木は樹齢300年以上。根は地下深く、そして広範囲に広がっています。特にこの場所は傾斜地です。この木の根が、土砂崩れを防ぐアンカーの役割を果たしているんですよ」
「土砂崩れ……?」
「はい。もしこの木を切れば、根は数年で腐り、地盤の保持力を失います。そうなれば、次の大雨でエドワード様の領地側にあるあの果樹園は、土砂と一緒に流されてしまうでしょう」
私は丘の下に広がる、エドワード様の領地のブドウ畑を指差しました。
「植物学的に言えば、この木の根圏は、あなたの土地を守っている守護神なんです。それを切るということは、自らの土地を破壊する行為と同じです」
「うっ……」
エドワード様が言葉に詰まりました。
しかし、お金に困っている彼は引き下がりません。
「知ったことか! 俺は今すぐ金が欲しいんだ! 半分は俺の領地にあるんだから、半分に切って俺の分だけ持っていく!」
「……半分に切る、か。ソロモン王の裁判のようなことを言う」
アルフレッド様はため息をつき、木の幹の、ある一点を指でなぞりました。
そこには、古びて苔に埋もれかけた、石の杭が食い込んでいました。
木が成長して、飲み込んでしまったのです。
「エドワード君。君は本当に歴史を知らないようだな。この木はただの境界木ではない。あかしの木だ」
「あかし?」
「数代前の領主たちが境界を定めた際、動かない目印としてこの木を選び、石碑を埋めた。この木そのものが、公的な測量基準点なのだよ」
アルフレッド様は冷ややかに宣告しました。
「もし君がこの木を切り倒せば、両家の境界を示す基準が消失する。そうなればどうなるか? 法に基づき、国による大規模な再測量が行われることになる」
「さ、再測量だと?」
「ああ。そして古い文献によれば……、本来の境界線は、ここよりさらに50メートルほど君の領地側にあるらしいぞ?」
その言葉に、エドワード様が飛び上がりました。
「な、なんだと!?」
「長い年月の間に、君の家が少しずつ畑を広げて侵食していたようだな。この木があるおかげで、私は黙認してやっていたが……、木がなくなれば、厳密な測量をやり直さねばならん。そうなれば、君のブドウ畑の半分は没収されることになるが、それでも切るか?」
エドワード様の顔色が、ブドウの皮のように紫色になりました。
木一本分の材木代と、ブドウ畑半分。
どちらが得か、いくら彼でも計算できます。
「く、くそぉぉぉっ! 覚えてろ! 木ごときに守られるなんて!」
エドワード様は捨て台詞を吐き、木こりたちに「撤収だ!」と叫んで逃げ帰っていきました。
ベアトリス様も「日焼けするわ!」と文句を言いながらその後を追います。
静けさが戻った丘の上で、アルフレッド様は巨木の幹をポンと叩きました。
「……老兵は死なず、ただ立ち尽くすのみ、か」
「よかった。切られずに済んで」
私はホッとして、木の幹に耳を当てました。
微かに、水を吸い上げる音が聞こえるような気がします。
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「さあな。脅し半分だ」
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「だが、この木が両家の緩衝材になっているのは事実だ。白黒つけすぎるよりも、曖昧なまま共存する方がいい場合もある。……植物の共生関係のようにな」
「ふふ、そうですね」
私たちは巨木に見守られながら、丘を降りました。
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