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第20話:公爵の過去
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第20話 トウゴマ騒動から数日が過ぎた、雨の降りしきる夜のことでした。
私は、執務室で一人グラスを傾けるアルフレッド様の姿を見つけました。
いつもなら、夜遅くまで顕微鏡を覗いている時間です。
けれど今夜の彼は、何もせず、ただ窓を打つ雨音に耳を傾けているようでした。
「……眠れないのか、フローラ」
「はい。雨音が強くて。……アルフレッド様こそ」
私が部屋に入ると、彼は手元のグラスを軽く掲げました。
中に入っているのは、美しい琥珀色の液体。
以前、私たちが作った青梅の果実酒でした。
「どうしても、飲みたくなってしまってな。……飲んでみるか?」
「少しだけ、いただきます」
差し出されたグラスに口をつけると、芳醇な香りと共に、少し強めのアルコールが喉を焼きました。
毒が抜け、熟成された甘美な味。
「……先日の孤児院での君は、勇敢だった」
アルフレッド様がぽつりと呟きました。
「だが見ていて、肝が冷えた。もし君が間に合わず、あの猛毒が撒き散らされていたら……、あるいは、君自身が毒に触れていたらと思うとな」
「私は大丈夫です。植物の扱いには慣れていますから」
「そうだな。……だが、知識なき善意や迷信という名の暴力は、いつだって唐突に、理不尽に襲いかかってくる」
彼の碧眼が、揺れる暖炉の炎を映して陰りました。
「フローラ。君に話しておこうと思う。私がなぜこれほどまでに無知を憎み、科学的論理に固執するのかを」
アルフレッド様はグラスを置き、遠い過去を見る目をしました。
「私の父、先代公爵は典型的な武人だった。体が弱く本ばかり読んでいた私を出来損ないと疎んでいたよ。そんな私にとって、唯一の逃げ場であり、師であったのが……、領地の森に住む、一人の薬師の老婆だった」
「薬師の方、ですか?」
「ああ。名をエララと言った。彼女は大学を出ていなかったが、植物に関する知識は驚異的だった。今の私の植物学の基礎は、すべて彼女から教わったものだ」
アルフレッド様の口元に、微かな笑みが浮かびました。
「彼女は魔法使いのように植物を操り、村人の病を治していた。だが、彼女は常にこう言っていた。『これは魔法ではない。植物の成分と人体の化学反応だ』とな」
科学的な視点を持つ、賢明な女性だったのでしょう。
今のアルフレッド様と重なります。
「だが、私が12歳の時だ。領地で原因不明の疫病が流行った。高熱が出て、皮膚に黒い斑点が浮かぶ奇病だ」
空気が重くなりました。
「エララはすぐに原因を突き止めた。井戸の近くに自生していた有毒植物の根が、地下水脈に触れていたことによる中毒だとね。彼女は解毒剤を作り、井戸の使用を禁じるよう村長に進言した」
「……でも、村人たちは信じなかったのですか?」
「ああ。それどころか、彼らはこう言った。『魔女エララが井戸に毒を投げ入れたのだ』と」
私は息を呑みました。
以前の魔女のスープ事件や、予言者騒動。
それらが最悪の形で結実した過去が、そこにはありました。
「恐怖に駆られた集団心理は、どんな猛毒よりも恐ろしい。村人たちは松明を手に、彼女の小屋を取り囲んだ。私が駆けつけた時には、もう手遅れだった」
アルフレッド様の手が、強く握りしめられました。
「小屋は燃やされ、彼女の研究ノートも、標本も、そして彼女自身も……、全てが灰になった。彼女が作った解毒剤も、誰にも飲まれることなく炎の中に消えた。……結局、疫病が収まったのは、毒の根が枯れた冬になってからだ。それまでに多くの村人が死んだ。自分たちを救おうとした恩人を殺し、その報いで自らも死んでいったのだ」
雨音が、激しさを増したように感じられました。
「私はその時、悟ったよ。人を殺すのは病原菌でも毒草でもない。無知という闇こそが、真の殺人者なのだと」
アルフレッド様は私を見つめました。
その瞳には、深い悲しみと、それを焼き尽くすほどの怒りの炎が宿っていました。
「だから私は誓った。あらゆる知識を身につけ、この世の全ての現象を論理的に解明し、二度とあのような愚かな悲劇を起こさせないと。……だが、私は孤独だった。誰も私の言葉を理解しようとはしなかったからな」
変人公爵。
そう呼ばれ、周囲から距離を置かれていた理由が、痛いほど分かりました。
彼は人を馬鹿にしていたのではありません。
絶望していたのです。
理解されない孤独の中で、たった一人で無知と戦い続けてきたのです。
「……でも、今は違います」
私は立ち上がり、アルフレッド様の冷たい手を両手で包み込みました。
「今は、私がいます。アルフレッド様の言葉を理解し、同じ景色を見て、同じ怒りを感じる私がいます」
「……フローラ」
「私はエララさんのような偉大な薬師にはなれないかもしれません。でも、アルフレッド様の助手として、貴方の背中を守ることはできます」
私は彼を真っ直ぐに見つめ返しました。
「私はもう雑草ではありません。貴方が見つけてくれた新種ですから。……簡単には枯れませんし、燃やされたりもしません」
アルフレッド様が、目を見開きました。
そして次の瞬間、彼は椅子から立ち上がり、私を強く抱きしめました。
グラスが倒れ、氷がカランと音を立てましたが、そんなことはどうでもよくなるほど、彼の鼓動が強く響いていました。
「……ああ。そうだ。君がいたな」
耳元で囁かれる声は、震えていました。
「トウゴマの時、君が叫ぶのを見て、私はエララの姿を重ねてしまっていたのかもしれない。……だが君は、村人に襲われるどころか、子供たちを救い、エドワードたちを追い払った」
彼の腕の力が強まりました。
「君は私の光だ、フローラ。君がいれば、私はどんな闇の中でも、論理の道を見失わずにいられる」
その言葉は、愛の告白よりも深く、私の魂に刻まれました。
私たちはしばらくの間、雨音だけが響く部屋で、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていました。
「……そろそろ離さないと、グラスのお酒がこぼれてしまいますよ」
「構わん。また作ればいい。……君となら、いくらでも」
アルフレッド様は少しだけ体を離すと、濡れた私の瞳を指先で拭いました。
「行こう、フローラ。夜が明ければ、また忙しくなる」
「はい。……何をするんですか?」
「王都へ行く」
アルフレッド様の表情は、もう過去に囚われた少年のものではありませんでした。
不敵な笑みを浮かべた、いつもの最強の植物学者の顔です。
「領地での改革はあらかた片付いた。次は王都の社交界だ。あそこには、我が領地以上に虚栄と無知という毒が蔓延っているからな。……掃除の時間だ」
こうして、私たちの領地での生活は一区切りを迎えました。
過去の悲劇を乗り越え、より強い絆で結ばれた私たちは、次なる舞台――陰謀とドレスが渦巻く王都へと向かうことになったのです。
私は、執務室で一人グラスを傾けるアルフレッド様の姿を見つけました。
いつもなら、夜遅くまで顕微鏡を覗いている時間です。
けれど今夜の彼は、何もせず、ただ窓を打つ雨音に耳を傾けているようでした。
「……眠れないのか、フローラ」
「はい。雨音が強くて。……アルフレッド様こそ」
私が部屋に入ると、彼は手元のグラスを軽く掲げました。
中に入っているのは、美しい琥珀色の液体。
以前、私たちが作った青梅の果実酒でした。
「どうしても、飲みたくなってしまってな。……飲んでみるか?」
「少しだけ、いただきます」
差し出されたグラスに口をつけると、芳醇な香りと共に、少し強めのアルコールが喉を焼きました。
毒が抜け、熟成された甘美な味。
「……先日の孤児院での君は、勇敢だった」
アルフレッド様がぽつりと呟きました。
「だが見ていて、肝が冷えた。もし君が間に合わず、あの猛毒が撒き散らされていたら……、あるいは、君自身が毒に触れていたらと思うとな」
「私は大丈夫です。植物の扱いには慣れていますから」
「そうだな。……だが、知識なき善意や迷信という名の暴力は、いつだって唐突に、理不尽に襲いかかってくる」
彼の碧眼が、揺れる暖炉の炎を映して陰りました。
「フローラ。君に話しておこうと思う。私がなぜこれほどまでに無知を憎み、科学的論理に固執するのかを」
アルフレッド様はグラスを置き、遠い過去を見る目をしました。
「私の父、先代公爵は典型的な武人だった。体が弱く本ばかり読んでいた私を出来損ないと疎んでいたよ。そんな私にとって、唯一の逃げ場であり、師であったのが……、領地の森に住む、一人の薬師の老婆だった」
「薬師の方、ですか?」
「ああ。名をエララと言った。彼女は大学を出ていなかったが、植物に関する知識は驚異的だった。今の私の植物学の基礎は、すべて彼女から教わったものだ」
アルフレッド様の口元に、微かな笑みが浮かびました。
「彼女は魔法使いのように植物を操り、村人の病を治していた。だが、彼女は常にこう言っていた。『これは魔法ではない。植物の成分と人体の化学反応だ』とな」
科学的な視点を持つ、賢明な女性だったのでしょう。
今のアルフレッド様と重なります。
「だが、私が12歳の時だ。領地で原因不明の疫病が流行った。高熱が出て、皮膚に黒い斑点が浮かぶ奇病だ」
空気が重くなりました。
「エララはすぐに原因を突き止めた。井戸の近くに自生していた有毒植物の根が、地下水脈に触れていたことによる中毒だとね。彼女は解毒剤を作り、井戸の使用を禁じるよう村長に進言した」
「……でも、村人たちは信じなかったのですか?」
「ああ。それどころか、彼らはこう言った。『魔女エララが井戸に毒を投げ入れたのだ』と」
私は息を呑みました。
以前の魔女のスープ事件や、予言者騒動。
それらが最悪の形で結実した過去が、そこにはありました。
「恐怖に駆られた集団心理は、どんな猛毒よりも恐ろしい。村人たちは松明を手に、彼女の小屋を取り囲んだ。私が駆けつけた時には、もう手遅れだった」
アルフレッド様の手が、強く握りしめられました。
「小屋は燃やされ、彼女の研究ノートも、標本も、そして彼女自身も……、全てが灰になった。彼女が作った解毒剤も、誰にも飲まれることなく炎の中に消えた。……結局、疫病が収まったのは、毒の根が枯れた冬になってからだ。それまでに多くの村人が死んだ。自分たちを救おうとした恩人を殺し、その報いで自らも死んでいったのだ」
雨音が、激しさを増したように感じられました。
「私はその時、悟ったよ。人を殺すのは病原菌でも毒草でもない。無知という闇こそが、真の殺人者なのだと」
アルフレッド様は私を見つめました。
その瞳には、深い悲しみと、それを焼き尽くすほどの怒りの炎が宿っていました。
「だから私は誓った。あらゆる知識を身につけ、この世の全ての現象を論理的に解明し、二度とあのような愚かな悲劇を起こさせないと。……だが、私は孤独だった。誰も私の言葉を理解しようとはしなかったからな」
変人公爵。
そう呼ばれ、周囲から距離を置かれていた理由が、痛いほど分かりました。
彼は人を馬鹿にしていたのではありません。
絶望していたのです。
理解されない孤独の中で、たった一人で無知と戦い続けてきたのです。
「……でも、今は違います」
私は立ち上がり、アルフレッド様の冷たい手を両手で包み込みました。
「今は、私がいます。アルフレッド様の言葉を理解し、同じ景色を見て、同じ怒りを感じる私がいます」
「……フローラ」
「私はエララさんのような偉大な薬師にはなれないかもしれません。でも、アルフレッド様の助手として、貴方の背中を守ることはできます」
私は彼を真っ直ぐに見つめ返しました。
「私はもう雑草ではありません。貴方が見つけてくれた新種ですから。……簡単には枯れませんし、燃やされたりもしません」
アルフレッド様が、目を見開きました。
そして次の瞬間、彼は椅子から立ち上がり、私を強く抱きしめました。
グラスが倒れ、氷がカランと音を立てましたが、そんなことはどうでもよくなるほど、彼の鼓動が強く響いていました。
「……ああ。そうだ。君がいたな」
耳元で囁かれる声は、震えていました。
「トウゴマの時、君が叫ぶのを見て、私はエララの姿を重ねてしまっていたのかもしれない。……だが君は、村人に襲われるどころか、子供たちを救い、エドワードたちを追い払った」
彼の腕の力が強まりました。
「君は私の光だ、フローラ。君がいれば、私はどんな闇の中でも、論理の道を見失わずにいられる」
その言葉は、愛の告白よりも深く、私の魂に刻まれました。
私たちはしばらくの間、雨音だけが響く部屋で、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていました。
「……そろそろ離さないと、グラスのお酒がこぼれてしまいますよ」
「構わん。また作ればいい。……君となら、いくらでも」
アルフレッド様は少しだけ体を離すと、濡れた私の瞳を指先で拭いました。
「行こう、フローラ。夜が明ければ、また忙しくなる」
「はい。……何をするんですか?」
「王都へ行く」
アルフレッド様の表情は、もう過去に囚われた少年のものではありませんでした。
不敵な笑みを浮かべた、いつもの最強の植物学者の顔です。
「領地での改革はあらかた片付いた。次は王都の社交界だ。あそこには、我が領地以上に虚栄と無知という毒が蔓延っているからな。……掃除の時間だ」
こうして、私たちの領地での生活は一区切りを迎えました。
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