婚約破棄されて捨てられたのですが、なぜか公爵様に拾われた結果……。

水上

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第38話:追跡の道標

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 日はとっぷりと暮れ、王都郊外の森は漆黒の闇に包まれていました。
 夜行性の鳥が不吉な声を上げる中、アルフレッド様はランタンの僅かな灯りを頼りに、地面を這うようにして進んでいました。

「……あった」

 泥にまみれた彼の手が拾い上げたのは、小さな金平糖のような形をした種子――オナモミの実でした。

「オナモミ……。花言葉は頑固や復讐もあるが、その物理的特性は付着散布。動物の毛や人の服にくっついて移動する……つまり、『私はここに捕らわれている』というメッセージか」

 アルフレッド様は、そのトゲだらけの実を愛おしそうに握りしめました。
 彼が馬車から降りて数時間。
 彼を導いてきたのは、私が残した植物の種子たちでした。

 街道の分岐点には、赤いトウアズキが落ちていました。
 危険(毒)を示す赤信号。
 獣道の入り口には、風に乗って飛ぶカエデの翼果が、進行方向を示す矢印のように置かれていました。

「君は天才だ、フローラ。君はただ種をばら撒いたのではない。その種子の散布戦略になぞらえて、自分の状況と進路を私に伝えている」

 種は言葉を持たない。
 でも、植物学者にとっては、どんな手紙よりも雄弁な言語です。
 しかし――。

「……道が途絶えたか」

 森の奥深く、鬱蒼と茂る木々の前で、アルフレッド様は立ち止まりました。
 ここから先は道すらなく、草木が生い茂る未開の藪です。
 地面は腐葉土に覆われ、小さな種を見つけるのは困難を極めます。

 しかも、月明かりすら届かない完全な闇。
 視覚による追跡は限界でした。

「くそっ……! ここまで来て、見失うわけには……!」

 アルフレッド様は焦燥感に駆られ、木を拳で殴りつけました。
 エドワード様の精神状態は不安定です。
 時間が経てば、私に何をするか分からない状況が、彼を焦らせていました。

「考えろ。思考を止めるな。彼女ならどうする? 視界が効かない夜の森で、私に居場所を知らせる方法は?」

 アルフレッド様は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませました。
 視覚がダメなら、聴覚か、あるいは――。

 ふわりと夜風に乗って、甘く、官能的で、そしてどこか懐かしい香りが鼻をくすぐりました。

「……この香りは」

 アルフレッド様はカッと目を見開きました。
 ジャスミンに似ているけれど、もっと濃厚で、少し青臭い刺激を含んだ香り。

「ヤコウボク(夜香木)……! Cestrum nocturnum(ケストルム・ノクターナム)か!」

 彼は風上――藪の向こう側を睨み据えました。

 ヤコウボク。
 ナス科の常緑低木で、その名の通り、夜になると強烈な芳香を放つ花です。

「だが、待て。ヤコウボクは南国原産の植物だ。この緯度の王都周辺に自生しているはずがない」

 アルフレッド様の脳内で、膨大な植物分布図と、王都の土地台帳のデータが高速でリンクしました。

「……そうだ。五十年前に流行した! 当時の貴族たちがこぞって別荘の庭に、この異国の香木を植えるのがステータスだった。だが、ブームが去って別荘が打ち捨てられた後も、生命力の強いこの木だけが野生化して残った場所がある」

 彼は確信を持って闇を指差しました。

「あの方角……、かつて没落貴族の森と呼ばれた、旧男爵家の廃別荘地帯だ!」

 さらに、鼻をひくつかせます。
 漂ってくる香りは、ただ花が咲いているだけにしては強すぎました。

「……匂いが強烈だ。これは、枝が折られ、葉が揉みしだかれている匂いだ」

 情景が目に浮かぶようでした。
 連れ去られる私が、道端に生えていたヤコウボクに気づき、とっさにその枝を折り、葉を握りつぶして香りを拡散させたのです。

 視界の効かない闇夜において、唯一嗅覚だけを頼りにする私への、最後の道標として。

「君は、私が夜に温室へ通っていたことを覚えていたんだな。私が夜の植物の香りに敏感なことを……」

 アルフレッド様は、迷うことなく藪の中へと足を踏み入れました。
 顔に枝が当たり、茨が白衣を引き裂きますが、構いません。

 甘い香りの濃度が濃くなる方向へ。
 それが私への最短ルートです。

 数十分後。

 香りの源泉に辿り着いたアルフレッド様の前に、蔦に覆われた古びた洋館が姿を現しました。
 窓には鉄格子が嵌り、入り口は厳重に閉ざされています。
 しかし、その入り口付近の植え込みは無残に踏み荒らされ、ヤコウボクの枝が折られて散乱していました。

「……ここだ」

 アルフレッド様は入り口の石段に近づき、ランタンをかざしました。
 そして、石の隙間に押し込まれた、青い小さな点を見つけました。

「ワスレナグサ(勿忘草)……」

 花言葉は『私を忘れないで』。
 そして『真実の愛』。

「忘れるものか。……迎えに来たぞ、フローラ」

 アルフレッド様は立ち上がり、眼鏡の位置を直しました。
 その表情から焦りは消え、冷徹な狩人の顔に戻っていました。

「さて。植物学者の領分はここまでだ。ここからは……、害虫駆除の時間といこうか」

 彼は懐から、護身用の小さな麻酔銃(本来は大型動物の捕獲用)を取り出し、音もなく館の裏手へと回り込みました。

 植物の香りが案内したその先で、最終決戦が始まろうとしていました……。
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