婚約破棄されて捨てられたのですが、なぜか公爵様に拾われた結果……。

水上

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第45話:ベアトリスの涙

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 エドワード様が連行された後、風車の丘には乾いた風だけが吹いていました。
 後に残されたのは、私たちと、そして地面にへたり込んだまま動かないベアトリス様だけです。

 かつて社交界で最も華やかだった彼女の姿は、見る影もありませんでした。
 ドレスは泥と煤で汚れ、自慢の巻き髪は乱れ、そして何より――その肌は、自ら招いた光毒性の煙と、過去のヒ素中毒の影響でボロボロに傷ついていました。

「……殺しなさいよ」

 ベアトリス様が、掠れた声で呟きました。
 彼女は顔を伏せたまま、震える肩を抱いています。

「エドワード様も捕まった。家も勘当された。美貌も失った……。わたくしにはもう、何もないわ。いっそ、ここであなたたちに殺された方がマシよ」

「殺す? 非生産的だな」

 アルフレッド様が冷ややかに見下ろしました。

「君には法の裁きを受けてもらう。エドワードの共犯として、水源汚染未遂と傷害の罪は重いぞ。牢獄で一生、自分の愚かさと向き合うんだな」

「……ええ、そうね。それがお似合いよ」

 ベアトリス様は自嘲気味に笑い、ふらりと立ち上がろうとしました。

 しかし、足元のバランスを崩し、「痛ッ!」と悲鳴を上げて再び倒れ込みました。
 彼女の腕や足には、先ほどの煙による赤い発疹と水疱が広がり、火傷のような痛みが走っているのです。

「ううっ……、痛い……。熱い……!」

 彼女は涙を流しながら、痛む肌を掻きむしろうとしました。

「駄目です! 掻いたら跡が残ります!」

 私はとっさに駆け寄り、彼女の手首を掴んで止めました。

「放してよ! どうせもう傷物よ! わたくしの肌なんて、二度と元には戻らないんだわ!」

「戻ります。……手当てをすれば」

「は……?」

 ベアトリス様が、涙に濡れた目で私を見上げました。
 私は彼女の前に膝をつき、腰のポーチから小さな瓶を取り出しました。
 中には、半透明の緑色の軟膏が入っています。

「アルフレッド様。少しお時間をいただけますか?」

「……フン。お人好しな助手だ」

 アルフレッド様は呆れたように肩をすくめましたが、止めることはせず、背を向けて周囲の警戒にあたってくれました。
 私は軟膏を指に取り、ベアトリス様の赤く腫れた腕に、そっと塗り広げました。

「ひっ……!」

 彼女が痛みに身を縮めますが、すぐに表情が和らぎました。
 ひんやりとした感触が、灼熱の痛みを鎮めていくからです。

「……何、これ? 痛くない……」

「アロエとカレンデュラ(キンセンカ)の軟膏です。火傷や皮膚の炎症を抑え、修復を助ける働きがあります」

「アロエ……、あのトゲトゲした植物?」

「はい。見た目は無骨ですが、葉の中にあるゼリー状の果肉は、古くから医者いらずと呼ばれるほどの万能薬です」

 私は丁寧に、彼女の荒れた肌一つ一つに薬を塗っていきました。
 腕、首筋、そして頬の傷にも。

「どうして……?」

 ベアトリス様が、震える声で尋ねました。

「わたくしは、あなたを陥れようとしたのよ? 毒を盛ろうとしたし、ドレスを破いたし、悪口だってたくさん言ったわ。……なのに、どうして助けるの?」

「勘違いしないでください。私は貴女の罪を許したわけではありません」

 私は手を止めず、淡々と答えました。

「ただ……、植物たちが誤解されたままなのが、悲しいだけです」

 私は、彼女の腕の火傷を見つめました。

「ジャイアント・ホグウィードも、トリカブトも、キョウチクトウも。彼らは人間を傷つけたくて毒を持っているわけではありません。ただ、自分を守り、生き延びるために進化・適応しただけなんです」

「……」

「悪いのは植物ではありません。その性質を知ろうともせず、見た目だけで利用したり、武器として使ったりした人間の方です」

 私は軟膏の瓶を彼女の手に握らせました。

「ベアトリス様。貴女も同じです」

「え?」

「貴女は美しさや流行という表面的なものだけに囚われ、その中身(毒)を知ろうとしなかった。だから、植物たちに手痛いしっぺ返しを食らったんです」

 ベアトリス様はハッとして、自分の手を見つめました。

 ヒ素のドレス、ベラドンナの目薬、そして光毒性の煙。
 全て、彼女が美しくなりたいと願って安易に手を出した結果でした。

「……わたくし、馬鹿だったわ。本当に、馬鹿だった……」

 ポロポロと、大粒の涙がこぼれ落ちました。
 それは、痛みのせいではなく、初めて流す悔恨の涙でした。

「綺麗になりたかったの。エドワード様に愛されたかったの。でも……、中身が空っぽなまま飾り立てても、結局はメッキが剥がれて、ボロボロになるだけだったのね」

「気づけたなら、やり直せます」

 私はハンカチで彼女の涙を拭いました。

「植物は強いです。たとえ地上部が枯れても、根さえ生きていれば、次の春にはまた芽を出します。……貴女も、生きて罪を償えば、いつかきっと本当の花を咲かせられます」

 ベアトリス様は泣きじゃくりながら、何度も頷きました。
 かつての傲慢な令嬢の仮面は剥がれ落ち、そこには傷つき、過ちを認めた一人の少女の素顔がありました。

「……ありがとう、フローラ。……ごめんなさい……っ!」

 彼女は私の手を握り締め、子供のように泣きました。

 やがて、彼女を護送するための馬車が到着しました。
 ベアトリス様は、もう抵抗しませんでした。
 衛兵に促され、大人しく馬車に乗り込みます。

 去り際、彼女は窓から顔を出し、私に向かって小さく頭を下げました。
 その手には、私が渡した軟膏の瓶がしっかりと握られていました。

「……終わったな」

 アルフレッド様が戻ってきました。

「甘いな、フローラ。敵に塩を送るどころか、特効薬を送るとは」

「塩を塗ったら痛いじゃないですか」

「ふっ……、違いない」

 アルフレッド様は、遠ざかる馬車を見送りました。

「だが、彼女の毒は抜けたようだな。君の処方箋は、心にも効いたらしい」

「そうだといいのですが。……植物療法の基本は、自然治癒力を引き出すことですから」

 私は空を見上げました。

 嵐は過ぎ去り、雲の切れ間から穏やかな陽光が降り注いでいます。
 それは、エドワード様たちが恐れた焼く光ではなく、生命を育む優しい光でした。

「帰りましょう、アルフレッド様。……私たちも、新しい種を蒔きに行かなくては」

「ああ。まずは、延期になっていた結婚式の準備からだな」

 私たちは手を繋ぎ、丘を降りました。
 ベアトリス様の涙は、彼女自身の再生のための水やりになったと信じて……。
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