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第1話:婚約破棄と、屈折率1.5の偽物
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王立学院の卒業記念パーティーが開かれている大広間は、むせ返るような香水の匂いと、上滑りする笑い声で満たされていた。
シャンデリアの光が、着飾った貴族たちの宝石に反射し、人工的な星空を作っている。
美しいけれど、地質学的な価値は皆無だわ。
私がシャンパングラスを片手に、床の大理石の模様を観察していた時だった。
会場の空気を切り裂くような怒号が響いたのは……。
「マリアンヌ・フォン・アースガルド! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
音楽が止まる。
視線が集まる。
その中心で、この国の第一王子ジェラルド殿下が、顔を真っ赤にして私を指さしていた。
その腕には、男爵令嬢のリリーナ様がしがみついている。
彼女は小動物のように震えながら、口元だけは三日月のように歪めて笑っていた。
私は静かにグラスを近くの給仕に預け、ドレスの裾を摘んでカーテシーをした。
「……謹んでお受けいたします、殿下。それで、理由は伺っても?」
「理由だと!? 自分の胸に聞いてみるがいい!」
ジェラルド殿下は、まるで舞台役者のように大げさに腕を広げた。
「貴様はいつ見ても薄汚れている! 公爵令嬢のくせに、庭の土を掘り返してばかり。私の隣を歩く時も、ドレスの裾から土埃が舞う始末だ! それに比べてリリーナは、常に花の香りがする。貴様のような泥臭い女は、王妃にふさわしくない!」
泥臭い、ですか。
私は内心で首を傾げる。
先日、私が夢中になって採取していたのは、確かに粘土層だったけれど、あれは美肌効果の高いモンモリロナイトを含む層だ。
科学的に言えば、そこらの香水よりもよほど浄化作用があるのだけれど。
「それに貴様は可愛げがない! 私が贈った宝石を見ても、結晶構造がどうこうと屁理屈ばかり。リリーナのように素直に喜べないのか!」
「殿下。それは以前、貴方様がルビーだと言って渡された石が、実際にはスピネルだった件でしょうか? 私はただ、スピネルにはスピネルの美しさと鉱物学的価値があると申し上げただけで……」
「黙れ黙れ! そういうところが可愛くないと言っているんだ!」
殿下は憤慨し、懐から一つの小箱を取り出した。
パカッ、と蓋が開けられると、そこには大粒の青い宝石が鎮座していた。
「手切れ金代わりだ。このサファイアをやるから、二度と私の前に顔を見せるな!」
殿下は乱暴に、その宝石を私に向かって投げつけた。
放物線を描いて飛んでくる青い石。
床に落ちれば傷がつくかもしれない。
私はとっさに手を伸ばし、それを空中で見事にキャッチした。
「あら」
手のひらに乗った石を見て、私は思わず声を上げた。
美しいブルーだ。
内側から強い輝きを放っている。
「どうだ! 貴様には過ぎた輝きだろう! それは王家の鉱山から採掘された最高級品だ!」
勝ち誇る殿下。
周囲の貴族たちも、「さすがは殿下」「あの石だけで城が建つぞ」と囁き合っている。
私はドレスのポケットから、常に携帯している愛用のルーペ(10倍率)を取り出した。
右目にそれを当て、光にかざす。
「……ほう」
「な、何を気取って鑑定などしている! 私の愛の証を疑うのか!」
「いえ、疑ってはいませんわ。ただ、事実を確認しているだけです」
私はルーペを下ろし、にっこりと微笑んだ。
最大限の慈愛と、ほんの少しの哀れみを込めて。
「殿下。大変申し上げにくいのですが、これはサファイアではありません」
「……は?」
会場がざわめく。
私は人差し指で、石の表面をツツッと撫でた。
「まず、比重が軽すぎます。それにルーペで見ると、内部に微細な気泡が見られますわ。天然のサファイアには、液体インクルージョンや針状結晶はあっても、丸い気泡が入ることはあり得ません」
「な、何を……」
「さらに、エッジの摩耗が見られます。サファイアのモース硬度は9。ダイヤモンドに次ぐ硬さです。このように布と擦れた程度で角が丸くなることはありません」
私は結論を述べた。
あくまで、学術的な報告として。
「つまりこれは、ガラスです。それも、着色料で青く見せかけただけの、鉛ガラス。市場価格で言えば、そうですね……、パン二つ分くらいでしょうか」
静寂。
痛いほどの沈黙が、大広間を支配した。
殿下の顔色が、青いガラスと同じ色に変わっていく。
「ば、馬鹿な! 私は商人に『最高級のサファイアだ』と言われて、金貨五百枚を払ったんだぞ!?」
「まあ。……それは見事なカモ、いえ、寛大な投資家であらせられますこと」
ぷっ、と誰かが吹き出した。
それを合図に、こらえきれなくなった令嬢たちが扇子で口元を隠し、クスクスと笑い始める。
殿下の震えが止まらない。
隣のリリーナ様も、偽物だと知ってサッと石から目を逸らした。
「き、貴様ァァァッ!!」
恥辱にまみれた殿下が絶叫した。
「王族を愚弄した罪は重いぞ! 追放だ! 貴様など、この国の北の果て、ハイランド地方へ行ってしまえ! あのような草木も生えぬ死の荒野で、泥を啜って野垂れ死ぬがいい!」
ハイランド地方。
その地名を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。
ハイランド……、北部の湿地帯。太古の造山活動によって隆起し、複雑な地層が露出しているという、あの未開の地?
私の脳内で、かつて読んだ地質図が展開される。
あそこには確か、広大な泥炭層があったはず。
それに、あの独特の地質構造なら、希少金属や宝石の原石が眠っている可能性が高い。
王都の軟弱な沖積平野とはわけが違う。
地質学者にとっての、垂涎のフロンティア!
「……本気、ですか?」
私は震える声で尋ねた。
嬉しさを必死に噛み殺して。
殿下はそれを、絶望による震えと勘違いしたらしく、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ふん、今さら泣いて詫びても遅い! 二度と戻ってくるな!」
「ありがとうございます!!」
私は満面の笑みで叫んでいた。
パーティー会場の誰よりも明るく、誰よりも力強い声で。
「感謝いたします、殿下! そのような素晴らしい地質学的宝庫を賜れるなんて! ああ、すぐに準備をしなくては。ハンマーと、試薬と、ああとにかく頑丈なブーツが必要ですわ!」
私はドレスの裾を翻し、呆然とする殿下とリリーナ様に背を向けた。
手の中にある青いガラス玉は、近くのテーブルにそっと置く。
偽物の輝きになど、もう興味はない。
私を待っているのは、本物の大地なのだから。
会場を出ると、冷ややかな夜風が頬を撫でた。
馬車止まりには、我が家のアースガルド公爵家の馬車が待機している。
御者台の横に立っていた初老の男――私の執事、セバスチャンが、私の顔を見るなり長い溜息をついた。
「お嬢様。……その弾んだ足取りと、上気した頬。また何か、しでかしましたな?」
「失礼ね、セバス。私はただ、自由を手に入れただけよ」
私は馬車に乗り込みながら、これから向かう冒険の地に思いを馳せた。
「行き先が決まったわ。北のハイランドよ」
「……はい?」
常に冷静なセバスが、素っ頓狂な声を上げる。
「あの、冬は極寒、夏は泥沼と言われる死の荒野ですか? 正気ですか、お嬢様」
「ええ、大正気よ。あそこはね、セバス。まだ誰も価値に気づいていない宝の山なの」
私はポケットからルーペを取り出し、夜空の月を覗き込んだ。
クレーターの凹凸がくっきりと見える。
「殿下は私を『泥臭い』と言ったわ。だから見せてあげるの。泥の中にこそ、本当の宝石が眠っているということをね」
馬車が動き出す。
車輪が石畳を叩く音が、私にはこれから始まる改革のファンファーレのように聞こえた。
待っていなさい、北の大地よ。
この私が、その隠された魅力をすべて暴いてみせるから……。
シャンデリアの光が、着飾った貴族たちの宝石に反射し、人工的な星空を作っている。
美しいけれど、地質学的な価値は皆無だわ。
私がシャンパングラスを片手に、床の大理石の模様を観察していた時だった。
会場の空気を切り裂くような怒号が響いたのは……。
「マリアンヌ・フォン・アースガルド! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
音楽が止まる。
視線が集まる。
その中心で、この国の第一王子ジェラルド殿下が、顔を真っ赤にして私を指さしていた。
その腕には、男爵令嬢のリリーナ様がしがみついている。
彼女は小動物のように震えながら、口元だけは三日月のように歪めて笑っていた。
私は静かにグラスを近くの給仕に預け、ドレスの裾を摘んでカーテシーをした。
「……謹んでお受けいたします、殿下。それで、理由は伺っても?」
「理由だと!? 自分の胸に聞いてみるがいい!」
ジェラルド殿下は、まるで舞台役者のように大げさに腕を広げた。
「貴様はいつ見ても薄汚れている! 公爵令嬢のくせに、庭の土を掘り返してばかり。私の隣を歩く時も、ドレスの裾から土埃が舞う始末だ! それに比べてリリーナは、常に花の香りがする。貴様のような泥臭い女は、王妃にふさわしくない!」
泥臭い、ですか。
私は内心で首を傾げる。
先日、私が夢中になって採取していたのは、確かに粘土層だったけれど、あれは美肌効果の高いモンモリロナイトを含む層だ。
科学的に言えば、そこらの香水よりもよほど浄化作用があるのだけれど。
「それに貴様は可愛げがない! 私が贈った宝石を見ても、結晶構造がどうこうと屁理屈ばかり。リリーナのように素直に喜べないのか!」
「殿下。それは以前、貴方様がルビーだと言って渡された石が、実際にはスピネルだった件でしょうか? 私はただ、スピネルにはスピネルの美しさと鉱物学的価値があると申し上げただけで……」
「黙れ黙れ! そういうところが可愛くないと言っているんだ!」
殿下は憤慨し、懐から一つの小箱を取り出した。
パカッ、と蓋が開けられると、そこには大粒の青い宝石が鎮座していた。
「手切れ金代わりだ。このサファイアをやるから、二度と私の前に顔を見せるな!」
殿下は乱暴に、その宝石を私に向かって投げつけた。
放物線を描いて飛んでくる青い石。
床に落ちれば傷がつくかもしれない。
私はとっさに手を伸ばし、それを空中で見事にキャッチした。
「あら」
手のひらに乗った石を見て、私は思わず声を上げた。
美しいブルーだ。
内側から強い輝きを放っている。
「どうだ! 貴様には過ぎた輝きだろう! それは王家の鉱山から採掘された最高級品だ!」
勝ち誇る殿下。
周囲の貴族たちも、「さすがは殿下」「あの石だけで城が建つぞ」と囁き合っている。
私はドレスのポケットから、常に携帯している愛用のルーペ(10倍率)を取り出した。
右目にそれを当て、光にかざす。
「……ほう」
「な、何を気取って鑑定などしている! 私の愛の証を疑うのか!」
「いえ、疑ってはいませんわ。ただ、事実を確認しているだけです」
私はルーペを下ろし、にっこりと微笑んだ。
最大限の慈愛と、ほんの少しの哀れみを込めて。
「殿下。大変申し上げにくいのですが、これはサファイアではありません」
「……は?」
会場がざわめく。
私は人差し指で、石の表面をツツッと撫でた。
「まず、比重が軽すぎます。それにルーペで見ると、内部に微細な気泡が見られますわ。天然のサファイアには、液体インクルージョンや針状結晶はあっても、丸い気泡が入ることはあり得ません」
「な、何を……」
「さらに、エッジの摩耗が見られます。サファイアのモース硬度は9。ダイヤモンドに次ぐ硬さです。このように布と擦れた程度で角が丸くなることはありません」
私は結論を述べた。
あくまで、学術的な報告として。
「つまりこれは、ガラスです。それも、着色料で青く見せかけただけの、鉛ガラス。市場価格で言えば、そうですね……、パン二つ分くらいでしょうか」
静寂。
痛いほどの沈黙が、大広間を支配した。
殿下の顔色が、青いガラスと同じ色に変わっていく。
「ば、馬鹿な! 私は商人に『最高級のサファイアだ』と言われて、金貨五百枚を払ったんだぞ!?」
「まあ。……それは見事なカモ、いえ、寛大な投資家であらせられますこと」
ぷっ、と誰かが吹き出した。
それを合図に、こらえきれなくなった令嬢たちが扇子で口元を隠し、クスクスと笑い始める。
殿下の震えが止まらない。
隣のリリーナ様も、偽物だと知ってサッと石から目を逸らした。
「き、貴様ァァァッ!!」
恥辱にまみれた殿下が絶叫した。
「王族を愚弄した罪は重いぞ! 追放だ! 貴様など、この国の北の果て、ハイランド地方へ行ってしまえ! あのような草木も生えぬ死の荒野で、泥を啜って野垂れ死ぬがいい!」
ハイランド地方。
その地名を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。
ハイランド……、北部の湿地帯。太古の造山活動によって隆起し、複雑な地層が露出しているという、あの未開の地?
私の脳内で、かつて読んだ地質図が展開される。
あそこには確か、広大な泥炭層があったはず。
それに、あの独特の地質構造なら、希少金属や宝石の原石が眠っている可能性が高い。
王都の軟弱な沖積平野とはわけが違う。
地質学者にとっての、垂涎のフロンティア!
「……本気、ですか?」
私は震える声で尋ねた。
嬉しさを必死に噛み殺して。
殿下はそれを、絶望による震えと勘違いしたらしく、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ふん、今さら泣いて詫びても遅い! 二度と戻ってくるな!」
「ありがとうございます!!」
私は満面の笑みで叫んでいた。
パーティー会場の誰よりも明るく、誰よりも力強い声で。
「感謝いたします、殿下! そのような素晴らしい地質学的宝庫を賜れるなんて! ああ、すぐに準備をしなくては。ハンマーと、試薬と、ああとにかく頑丈なブーツが必要ですわ!」
私はドレスの裾を翻し、呆然とする殿下とリリーナ様に背を向けた。
手の中にある青いガラス玉は、近くのテーブルにそっと置く。
偽物の輝きになど、もう興味はない。
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会場を出ると、冷ややかな夜風が頬を撫でた。
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「お嬢様。……その弾んだ足取りと、上気した頬。また何か、しでかしましたな?」
「失礼ね、セバス。私はただ、自由を手に入れただけよ」
私は馬車に乗り込みながら、これから向かう冒険の地に思いを馳せた。
「行き先が決まったわ。北のハイランドよ」
「……はい?」
常に冷静なセバスが、素っ頓狂な声を上げる。
「あの、冬は極寒、夏は泥沼と言われる死の荒野ですか? 正気ですか、お嬢様」
「ええ、大正気よ。あそこはね、セバス。まだ誰も価値に気づいていない宝の山なの」
私はポケットからルーペを取り出し、夜空の月を覗き込んだ。
クレーターの凹凸がくっきりと見える。
「殿下は私を『泥臭い』と言ったわ。だから見せてあげるの。泥の中にこそ、本当の宝石が眠っているということをね」
馬車が動き出す。
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