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第2話:執事の絶望と、赤茶色の希望
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王都を出発してから十日が過ぎた頃、車窓の景色は一変していた。
手入れされた街道と豊かな麦畑は姿を消し、代わりにゴツゴツとした岩肌と、風にひしゃげた針葉樹が目立ち始める。
気温も明らかに下がっていた。
吐く息が白い。
馬車の御者台から戻ってきたセバスチャンが、ガタガタと音を立てながらブランケットにくるまった。
「お、お嬢様……。寒いです。ここは人の住む場所ではありません。今からでも遅くありませんから、王都に戻って土下座でも何でもして、温かい南の修道院行きに変更してもらいましょう」
「あら、何を弱気なことを。見てごらんなさい、あの崖の露頭を!」
私はガタつく馬車の中で、興奮気味に窓にへばりついていた。
「あの縞模様、見事な変成岩だわ! あのねじれ具合からして、太古に凄まじい圧力がかかった証拠よ。まるで大地の悲鳴がそのまま固まったみたいで、ゾクゾクするでしょう?」
「私には、お嬢様の感性の方がゾクゾクします……」
セバスはげんなりとした顔で、温かい紅茶――携帯用の魔道コンロで淹れたものだ――を差し出してくれた。
彼にとって、この旅は没落への片道切符に見えているらしい。
だが、私にとっては違う。
これは、フィールドワークだ。
「いい? セバス。王都の貴族たちは、このハイランド地方を『何も育たない死の荒野』と呼ぶけれど、それは彼らが農耕という一つの物差しでしか土地を見ていないからよ」
私は紅茶の香りを楽しみながら、膝の上の地形図を指でなぞった。
「土地にはそれぞれの適正があるの。パンが焼けないなら、石を焼けばいい。花が咲かないなら、鉱脈を探せばいい。適材適所、それは人間も土地も同じことよ」
「はぁ……。お嬢様が石ころを愛しておられるのは存じておりますが、石をかじって生きていくわけにはいきませんからな」
セバスは諦めたように肩をすくめた。
やがて、馬車が大きく揺れて停止した。
「到着したようですぜ! アースガルドの若奥様!」
雇った御者の荒っぽい声が響く。
私は勢いよく馬車の扉を開け、北の大地に飛び降りた。
「…………」
最初に私を出迎えたのは、頬を切り裂くような冷たい突風だった。
そして、目の前に広がる光景。
「なんてことだ……」
後ろから降りてきたセバスが、絶望のあまり膝から崩れ落ちた。
そこにあったのは、屋敷と呼ぶにはあまりに凄惨な廃墟だった。
かつては砦として使われていたのだろうか。
石造りの壁はあちこちが崩れ落ち、蔦が絡まり、屋根には大きな穴が開いている。
幽霊屋敷という表現すら生ぬるい。
魔王の別荘(廃業済み)といった風情だ。
「お嬢様……。これが、これから我々が住む家ですか? 壁より穴の方が多いではありませんか。これなら王都の牢屋の方がまだ快適ですぞ」
「換気が良さそうね。それに見て、土台の石組みはしっかりしているわ。花崗岩を使っているから、強度は十分よ」
私はポジティブに評しながら、屋敷の裏手へと歩を進めた。
私の興味は家屋ではない。
事前の地図にあった水源だ。
人が生きるために最も必要なもの、それは水である。
しかし、そこに広がっていたのは、セバスの顔色をさらに青ざめさせる光景だった。
「ひっ……。お、お嬢様、あれをご覧ください!」
セバスが震える指で差した先。
屋敷の裏手にある沼は、毒々しいほどに赤かった。
血のような、あるいは錆びついた鉄のような、赤茶色の水面。
水面には油のような膜がギラギラと浮き、鼻を突くような金属臭が漂っている。
岸辺の草は赤く染まり、まるで呪われた地のようだ。
「ああ、なんてことだ……。水まで死んでいるとは。これは毒の沼です。飲めば即座に腹を壊し、皮膚はただれ、やがて死に至る呪いの泉に違いありません!」
セバスがパニックになって叫ぶ。
私は静かに沼のほとりにしゃがみ込み、その赤い水をじっと観察した。
そして、手袋を外して素手を伸ばす。
「お、お嬢様!? おやめください! 手が溶けますぞ!」
制止するセバスを無視して、私は指先で赤い沈殿物をすくい上げた。
ヌルリとした感触。
指先についたそれを、鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
さらに、太陽の光にかざして、その粒子の細かさを確認する。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれた。
これよ……、これこそが、私が求めていたもの。
「セバス。ハンカチを貸してちょうだい」
「は、はい。すぐにその汚れた手を拭いて……」
「違うわ。この宝物を包んで持ち帰るのよ」
「は?」
セバスが間の抜けた声を出す。
私は指についた赤茶色のドロドロを、まるで最高級のルージュのように愛おしそうに見つめて言った。
「貴方の目は節穴ね、セバス。これは毒でも呪いでもないわ。これは鉄バクテリアの死骸よ」
「てつ……、ばく、てりあ?」
「ええ。この沼の底には、豊富な鉄分を含んだ地下水が湧いているのよ。その鉄分を餌にするバクテリアが繁殖し、水酸化鉄――つまり錆を作っているの。この赤い泥はね、言ってみれば天然の純度の高い鉄鉱石の粉末なのよ」
私は立ち上がり、広大な赤い沼を見渡した。
一般人には汚染された沼にしか見えないだろう。
けれど、地質学を修めた私の目には、そこが黄金の泉に見えていた。
「通常、鉄を得るためには硬い岩盤を掘削し、鉱石を砕く重労働が必要だわ。でも、ここではその必要がない。ただ、この沼の底に溜まった泥をすくい上げて、炭と一緒に焼くだけで、良質な鉄が手に入る」
私はセバスに向かって、勝ち誇ったように宣言した。
「つまりね、ここは勝手に鉄が湧いてくる魔法の泉なのよ。王都の連中が血眼になって鉱山を掘っている間に、私たちは優雅に沼遊びをするだけで鉄器を量産できるわ」
「は、はぁ……。泥が、鉄になるのですか? 錬金術のおとぎ話ではなく?」
「科学という名の魔法よ。さあ、忙しくなるわよセバス。まずはこの屋敷の修理に使う釘と金槌を、この沼から作ってしまいましょう」
私は泥だらけの手でスカートを叩き、歩き出した。
セバスはまだ、信じられないという顔で赤い沼を見つめている。
彼がこの沼の真価を理解し、「お嬢様、今日はどれくらい泥を採りましょうか」と嬉々としてスコップを握るようになるまで、そう時間はかからないはずだ。
最悪のスタート地点?
いいえ、ここは最高の資源王国の予定地なのよ。
手入れされた街道と豊かな麦畑は姿を消し、代わりにゴツゴツとした岩肌と、風にひしゃげた針葉樹が目立ち始める。
気温も明らかに下がっていた。
吐く息が白い。
馬車の御者台から戻ってきたセバスチャンが、ガタガタと音を立てながらブランケットにくるまった。
「お、お嬢様……。寒いです。ここは人の住む場所ではありません。今からでも遅くありませんから、王都に戻って土下座でも何でもして、温かい南の修道院行きに変更してもらいましょう」
「あら、何を弱気なことを。見てごらんなさい、あの崖の露頭を!」
私はガタつく馬車の中で、興奮気味に窓にへばりついていた。
「あの縞模様、見事な変成岩だわ! あのねじれ具合からして、太古に凄まじい圧力がかかった証拠よ。まるで大地の悲鳴がそのまま固まったみたいで、ゾクゾクするでしょう?」
「私には、お嬢様の感性の方がゾクゾクします……」
セバスはげんなりとした顔で、温かい紅茶――携帯用の魔道コンロで淹れたものだ――を差し出してくれた。
彼にとって、この旅は没落への片道切符に見えているらしい。
だが、私にとっては違う。
これは、フィールドワークだ。
「いい? セバス。王都の貴族たちは、このハイランド地方を『何も育たない死の荒野』と呼ぶけれど、それは彼らが農耕という一つの物差しでしか土地を見ていないからよ」
私は紅茶の香りを楽しみながら、膝の上の地形図を指でなぞった。
「土地にはそれぞれの適正があるの。パンが焼けないなら、石を焼けばいい。花が咲かないなら、鉱脈を探せばいい。適材適所、それは人間も土地も同じことよ」
「はぁ……。お嬢様が石ころを愛しておられるのは存じておりますが、石をかじって生きていくわけにはいきませんからな」
セバスは諦めたように肩をすくめた。
やがて、馬車が大きく揺れて停止した。
「到着したようですぜ! アースガルドの若奥様!」
雇った御者の荒っぽい声が響く。
私は勢いよく馬車の扉を開け、北の大地に飛び降りた。
「…………」
最初に私を出迎えたのは、頬を切り裂くような冷たい突風だった。
そして、目の前に広がる光景。
「なんてことだ……」
後ろから降りてきたセバスが、絶望のあまり膝から崩れ落ちた。
そこにあったのは、屋敷と呼ぶにはあまりに凄惨な廃墟だった。
かつては砦として使われていたのだろうか。
石造りの壁はあちこちが崩れ落ち、蔦が絡まり、屋根には大きな穴が開いている。
幽霊屋敷という表現すら生ぬるい。
魔王の別荘(廃業済み)といった風情だ。
「お嬢様……。これが、これから我々が住む家ですか? 壁より穴の方が多いではありませんか。これなら王都の牢屋の方がまだ快適ですぞ」
「換気が良さそうね。それに見て、土台の石組みはしっかりしているわ。花崗岩を使っているから、強度は十分よ」
私はポジティブに評しながら、屋敷の裏手へと歩を進めた。
私の興味は家屋ではない。
事前の地図にあった水源だ。
人が生きるために最も必要なもの、それは水である。
しかし、そこに広がっていたのは、セバスの顔色をさらに青ざめさせる光景だった。
「ひっ……。お、お嬢様、あれをご覧ください!」
セバスが震える指で差した先。
屋敷の裏手にある沼は、毒々しいほどに赤かった。
血のような、あるいは錆びついた鉄のような、赤茶色の水面。
水面には油のような膜がギラギラと浮き、鼻を突くような金属臭が漂っている。
岸辺の草は赤く染まり、まるで呪われた地のようだ。
「ああ、なんてことだ……。水まで死んでいるとは。これは毒の沼です。飲めば即座に腹を壊し、皮膚はただれ、やがて死に至る呪いの泉に違いありません!」
セバスがパニックになって叫ぶ。
私は静かに沼のほとりにしゃがみ込み、その赤い水をじっと観察した。
そして、手袋を外して素手を伸ばす。
「お、お嬢様!? おやめください! 手が溶けますぞ!」
制止するセバスを無視して、私は指先で赤い沈殿物をすくい上げた。
ヌルリとした感触。
指先についたそれを、鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
さらに、太陽の光にかざして、その粒子の細かさを確認する。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれた。
これよ……、これこそが、私が求めていたもの。
「セバス。ハンカチを貸してちょうだい」
「は、はい。すぐにその汚れた手を拭いて……」
「違うわ。この宝物を包んで持ち帰るのよ」
「は?」
セバスが間の抜けた声を出す。
私は指についた赤茶色のドロドロを、まるで最高級のルージュのように愛おしそうに見つめて言った。
「貴方の目は節穴ね、セバス。これは毒でも呪いでもないわ。これは鉄バクテリアの死骸よ」
「てつ……、ばく、てりあ?」
「ええ。この沼の底には、豊富な鉄分を含んだ地下水が湧いているのよ。その鉄分を餌にするバクテリアが繁殖し、水酸化鉄――つまり錆を作っているの。この赤い泥はね、言ってみれば天然の純度の高い鉄鉱石の粉末なのよ」
私は立ち上がり、広大な赤い沼を見渡した。
一般人には汚染された沼にしか見えないだろう。
けれど、地質学を修めた私の目には、そこが黄金の泉に見えていた。
「通常、鉄を得るためには硬い岩盤を掘削し、鉱石を砕く重労働が必要だわ。でも、ここではその必要がない。ただ、この沼の底に溜まった泥をすくい上げて、炭と一緒に焼くだけで、良質な鉄が手に入る」
私はセバスに向かって、勝ち誇ったように宣言した。
「つまりね、ここは勝手に鉄が湧いてくる魔法の泉なのよ。王都の連中が血眼になって鉱山を掘っている間に、私たちは優雅に沼遊びをするだけで鉄器を量産できるわ」
「は、はぁ……。泥が、鉄になるのですか? 錬金術のおとぎ話ではなく?」
「科学という名の魔法よ。さあ、忙しくなるわよセバス。まずはこの屋敷の修理に使う釘と金槌を、この沼から作ってしまいましょう」
私は泥だらけの手でスカートを叩き、歩き出した。
セバスはまだ、信じられないという顔で赤い沼を見つめている。
彼がこの沼の真価を理解し、「お嬢様、今日はどれくらい泥を採りましょうか」と嬉々としてスコップを握るようになるまで、そう時間はかからないはずだ。
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