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第31話:黒い腐敗と、単一品種の罠
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天敵農法による勝利も束の間、王都の空は再び厚い雲に覆われた。
シトシトと降り続く冷たい雨。
湿度は飽和状態に達し、肌にまとわりつくような不快な空気が漂っている。
「……嫌な匂いですな」
ある朝、セバスチャンが屋敷の窓を開けようとして、顔をしかめた。
雨の匂いに混じって、何か酸っぱく、カビ臭い、独特の腐敗臭が風に乗って漂ってくる。
「この匂い……。セバス、すぐに窓を閉めて」
私は読みかけの本を閉じ、真剣な表情で命じた。
「これはただの腐敗臭じゃないわ。疫病の匂いよ」
「疫病、ですか? 人間のですか?」
「いいえ。植物の……、特に、私たちが頼みの綱にしているジャガイモを殺す病気よ」
不吉な予感は的中した。
昼過ぎ、ガストンが泥だらけになって駆け込んできた。
「マリアンヌ様! 大変です! 王都周辺のジャガイモ畑が、一夜にして全滅しました!」
「全滅……、早すぎるわね」
私はレインコートを羽織り、現場へと急行した。
向かったのは、ジェラルド殿下が管理する王家の農場だ。
殿下は私の成功を真似て、遅まきながら小麦畑を潰し、ジャガイモを植えさせていたのだ。
「あああ……! なぜだ! なぜ私の芋だけが!」
現場では、ジェラルド殿下が泥沼に膝をつき、黒い塊を握りしめて絶叫していた。
そこは、もはや畑ではなかった。
黒く変色してドロドロに溶けた葉と茎が、悪臭を放ちながら地面を覆い尽くしている。
「殿下、触らない方がいいですよ。その胞子は服に付着して広がりますから」
私が声をかけると、殿下はギョッとして振り返った。
その手には、腐って崩れたジャガイモの残骸が握られている。
「マ、マリアンヌ! 貴様、また呪いをかけたな! 昨日までは青々としていたのだぞ! それが一晩で、こんな……、溶けた泥のようになってしまった!」
「呪いではありません。これはジャガイモ疫病菌による感染症です」
私はハンカチで鼻と口を覆いながら、一定の距離を保って観察した。
「この長雨と低温は、カビの一種である疫病菌にとって最高の繁殖環境です。葉に付着した胞子は、数時間で組織を侵食し、雨水に乗って地中の芋まで腐らせる。……感染力は凄まじく、風に乗って数キロ先まで広がります」
「だ、だがおかしいだろう! 私は最高級の種芋を使ったのだぞ! ゴールデン・キングという、最も大きく育つ品種だけを選りすぐって植えたのだ!」
殿下は食い下がる。
彼は最高級や一番という言葉が大好きだ。
だから、畑一面にその最高の品種だけを植えたのだろう。
「それが命取りでしたね、殿下」
私は冷ややかに告げた。
「貴方は単一品種栽培の罠に落ちたのです」
「タン……、イツ?」
「ええ。ジャガイモは種ではなく、芋(塊茎)で増える植物です。つまり、貴方の畑にある何万株ものジャガイモは、すべて同じ遺伝子を持つクローンなのです」
私は腐った茎をステッキで指した。
「クローンの弱点を知っていますか? ……一人が病気にかかれば、全員が同じように罹るということです。遺伝的な多様性がないため、誰一人生き残ることができない」
私は歴史の教科書を引用するように語った。
「かつて、ある島国で同じ悲劇が起きました。単一の品種に依存しすぎた結果、疫病の流行で国中のジャガイモが全滅し、百万人が餓死した歴史的大飢饉……。貴方は今、その歴史を再現しているのです」
殿下は顔面蒼白になり、黒いヘドロと化した畑を見渡した。
見渡す限り、生きている株は一つもない。
全滅だ。
「じ、じゃあ……、私の芋は……、王都の食料は……」
「ここにあるのは、ただの産業廃棄物ですね。食べることはおろか、家畜の餌にもなりません」
「そ、そんな……。お前の畑はどうなんだ! 隣にあるお前の畑も、同じように全滅しているはずだ!」
殿下が縋るように叫ぶ。
私は静かに、自分の畑の方を指差した。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
確かに一部の株は黒く枯れている。
しかし、その隣の株は青々とし、また別の列の株も元気に育っている。
畑全体がまだら模様になっているのだ。
「な、なぜだ!? なぜお前の芋は生きている!?」
「多様性を持たせたからです」
私は自分の畑に入り、元気な株の葉を撫でた。
「私は一つの品種に頼りませんでした。疫病に強い品種、味は良いが弱い品種、早生、晩生……、数十種類のジャガイモを混ぜて植えたのです。……だから、弱い品種がやられても、隣の強い品種が壁となって感染を止めてくれる」
さらに、私は葉の表面がうっすらと青白く光っているのを見せた。
「それに、雨が降る前にボルドー液を散布しておきました。硫酸銅と石灰を混ぜた殺菌剤です。……予防医学の基本ですよ」
「くっ……! 品種を混ぜるだと? そんな効率の悪いことを……」
「効率を求めて全滅するのと、非効率でも生き残るのと、どちらが強いと思いますか?」
私は掘り起こしたばかりの、無傷のジャガイモ(赤い皮の品種だ)を殿下に見せつけた。
「リスク分散。それが投資だけでなく、農業においても鉄則です。……一点張りで勝てるほど、自然界は甘くありませんわ」
殿下は泥の中にへたり込んだ。
彼の畑は黒い死に覆われ、私の畑は命のモザイクとして生き残った。
その差は、種芋の値段ではなく、遺伝子の多様性に対する理解の差だった。
「さて、ガストンさん。生き残った私のジャガイモを収穫しましょう。……ただし、市場価格は時価でお願いね」
「御意に! 王都で唯一のジャガイモ、高値がつきますぞ!」
雨は降り続いている。
しかし、知識という傘を持つ私たちは、濡れることなくこの災厄を乗り越えていく。
腐敗臭漂う王都の中で、私の畑だけが希望の緑を保っていた。
シトシトと降り続く冷たい雨。
湿度は飽和状態に達し、肌にまとわりつくような不快な空気が漂っている。
「……嫌な匂いですな」
ある朝、セバスチャンが屋敷の窓を開けようとして、顔をしかめた。
雨の匂いに混じって、何か酸っぱく、カビ臭い、独特の腐敗臭が風に乗って漂ってくる。
「この匂い……。セバス、すぐに窓を閉めて」
私は読みかけの本を閉じ、真剣な表情で命じた。
「これはただの腐敗臭じゃないわ。疫病の匂いよ」
「疫病、ですか? 人間のですか?」
「いいえ。植物の……、特に、私たちが頼みの綱にしているジャガイモを殺す病気よ」
不吉な予感は的中した。
昼過ぎ、ガストンが泥だらけになって駆け込んできた。
「マリアンヌ様! 大変です! 王都周辺のジャガイモ畑が、一夜にして全滅しました!」
「全滅……、早すぎるわね」
私はレインコートを羽織り、現場へと急行した。
向かったのは、ジェラルド殿下が管理する王家の農場だ。
殿下は私の成功を真似て、遅まきながら小麦畑を潰し、ジャガイモを植えさせていたのだ。
「あああ……! なぜだ! なぜ私の芋だけが!」
現場では、ジェラルド殿下が泥沼に膝をつき、黒い塊を握りしめて絶叫していた。
そこは、もはや畑ではなかった。
黒く変色してドロドロに溶けた葉と茎が、悪臭を放ちながら地面を覆い尽くしている。
「殿下、触らない方がいいですよ。その胞子は服に付着して広がりますから」
私が声をかけると、殿下はギョッとして振り返った。
その手には、腐って崩れたジャガイモの残骸が握られている。
「マ、マリアンヌ! 貴様、また呪いをかけたな! 昨日までは青々としていたのだぞ! それが一晩で、こんな……、溶けた泥のようになってしまった!」
「呪いではありません。これはジャガイモ疫病菌による感染症です」
私はハンカチで鼻と口を覆いながら、一定の距離を保って観察した。
「この長雨と低温は、カビの一種である疫病菌にとって最高の繁殖環境です。葉に付着した胞子は、数時間で組織を侵食し、雨水に乗って地中の芋まで腐らせる。……感染力は凄まじく、風に乗って数キロ先まで広がります」
「だ、だがおかしいだろう! 私は最高級の種芋を使ったのだぞ! ゴールデン・キングという、最も大きく育つ品種だけを選りすぐって植えたのだ!」
殿下は食い下がる。
彼は最高級や一番という言葉が大好きだ。
だから、畑一面にその最高の品種だけを植えたのだろう。
「それが命取りでしたね、殿下」
私は冷ややかに告げた。
「貴方は単一品種栽培の罠に落ちたのです」
「タン……、イツ?」
「ええ。ジャガイモは種ではなく、芋(塊茎)で増える植物です。つまり、貴方の畑にある何万株ものジャガイモは、すべて同じ遺伝子を持つクローンなのです」
私は腐った茎をステッキで指した。
「クローンの弱点を知っていますか? ……一人が病気にかかれば、全員が同じように罹るということです。遺伝的な多様性がないため、誰一人生き残ることができない」
私は歴史の教科書を引用するように語った。
「かつて、ある島国で同じ悲劇が起きました。単一の品種に依存しすぎた結果、疫病の流行で国中のジャガイモが全滅し、百万人が餓死した歴史的大飢饉……。貴方は今、その歴史を再現しているのです」
殿下は顔面蒼白になり、黒いヘドロと化した畑を見渡した。
見渡す限り、生きている株は一つもない。
全滅だ。
「じ、じゃあ……、私の芋は……、王都の食料は……」
「ここにあるのは、ただの産業廃棄物ですね。食べることはおろか、家畜の餌にもなりません」
「そ、そんな……。お前の畑はどうなんだ! 隣にあるお前の畑も、同じように全滅しているはずだ!」
殿下が縋るように叫ぶ。
私は静かに、自分の畑の方を指差した。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
確かに一部の株は黒く枯れている。
しかし、その隣の株は青々とし、また別の列の株も元気に育っている。
畑全体がまだら模様になっているのだ。
「な、なぜだ!? なぜお前の芋は生きている!?」
「多様性を持たせたからです」
私は自分の畑に入り、元気な株の葉を撫でた。
「私は一つの品種に頼りませんでした。疫病に強い品種、味は良いが弱い品種、早生、晩生……、数十種類のジャガイモを混ぜて植えたのです。……だから、弱い品種がやられても、隣の強い品種が壁となって感染を止めてくれる」
さらに、私は葉の表面がうっすらと青白く光っているのを見せた。
「それに、雨が降る前にボルドー液を散布しておきました。硫酸銅と石灰を混ぜた殺菌剤です。……予防医学の基本ですよ」
「くっ……! 品種を混ぜるだと? そんな効率の悪いことを……」
「効率を求めて全滅するのと、非効率でも生き残るのと、どちらが強いと思いますか?」
私は掘り起こしたばかりの、無傷のジャガイモ(赤い皮の品種だ)を殿下に見せつけた。
「リスク分散。それが投資だけでなく、農業においても鉄則です。……一点張りで勝てるほど、自然界は甘くありませんわ」
殿下は泥の中にへたり込んだ。
彼の畑は黒い死に覆われ、私の畑は命のモザイクとして生き残った。
その差は、種芋の値段ではなく、遺伝子の多様性に対する理解の差だった。
「さて、ガストンさん。生き残った私のジャガイモを収穫しましょう。……ただし、市場価格は時価でお願いね」
「御意に! 王都で唯一のジャガイモ、高値がつきますぞ!」
雨は降り続いている。
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腐敗臭漂う王都の中で、私の畑だけが希望の緑を保っていた。
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