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第34話:ナルシストな林檎と、高価な花婿
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長雨の合間の、貴重な晴れ間。
王都の郊外にある王室御用達の果樹園では、季節外れの狂い咲きのように、白い花が満開を迎えていた。
「見ろ、マリアンヌ! この白き絶景を!」
ジェラルド殿下が、勝ち誇ったように腕を広げた。
彼の背後には、整然と植えられた数百本のリンゴの木が並んでいる。
「ジャガイモは失敗したが、果樹は違うぞ! これは私が直々に選んだ最高級品種、キング・オブ・アップルだ! 見ての通り、花も満開だ。秋にはたわわに実り、王都の食卓を潤すだろう!」
「……ほう。見事な咲きっぷりですね」
私は日傘を差し、並木道を歩いた。
確かに木々は健康そうだ。
白い花が枝を覆い尽くし、甘い香りに誘われてミツバチたちも飛び回っている。
一見すれば、大豊作が約束された光景に見える。
「グレイ伯爵が言っていた。『この品種は一本の木から採れる実の数が通常の倍だ』とな。どうだ、これなら文句はあるまい!」
「ええ、木そのものは立派ですわ。……ただ一つ、残念な点を除けば」
私は立ち止まり、満開の花房を指先で弾いた。
白い花びらがハラハラと散る。
「この花たちは、一つ残らず散り落ちますわ。……実は一つもなりません」
「はぁ? 何を言っている? 受粉ならミツバチがやっているだろう!」
殿下が飛び回るハチを指差す。
「ええ、ハチは仕事をしています。ですが、それは無駄骨ですわ。……なぜなら、この果樹園には花嫁しかいないのですから」
「花嫁……?」
「殿下。貴方はまたやりましたね? 最高級だからという理由で、この広い果樹園のすべてに、たった一種キング・オブ・アップルだけを植えたのでしょう?」
「当たり前だ! 雑種など混ぜてたまるか! 純血種こそのブランドだ!」
「それが命取りなのです」
私は憐れむような目で殿下を見た。
ジャガイモ疫病の時の単一品種栽培の失敗から、彼は何も学んでいない。
「リンゴやサクランボ、ナシといった多くの果樹には、自家不和合性という性質があります」
「ジカ……、なんだって?」
「簡単に言えば、自分自身の花粉では妊娠しないという性質です」
私は隣り合う二本の木の枝を掴み、近づけた。
「この木々は接ぎ木で増やされたクローン……。つまり、遺伝子的には同一人物です。隣の木の花粉が飛んできても、メシベはそれを『あ、これは自分自身の花粉だわ』と識別して、受精を拒否するのです」
「きょ、拒否だと!?」
「ええ。近親交配による劣性遺伝を防ぐための、植物の知恵ですわ。……つまり、この果樹園にいる数百本の木は、全員が鏡を見ているナルシストのようなもの。いくらハチが花粉を運んでも、自分自身に恋はできません」
私は花粉のついた指先を拭った。
「受粉して実をつけるためには、遺伝子の異なる別の品種の花粉が必要なのです。……パートナーがいないこの果樹園は、秋には実のならない緑の葉が茂るだけの森になりますわ」
「な、な、なんだとぉぉぉ!!」
殿下の悲鳴が果樹園に響き渡った。
彼は慌ててグレイ伯爵を振り返ったが、詐欺師の伯爵も「そ、そんな馬鹿な……、花が咲けば実はなるものでしょう!?」と狼狽している。
無知とは罪深い。
「ど、どうすればいい! 今から別の木を植えるか!?」
「無駄です。苗木が育って花をつけるには数年かかります。今年の収穫には間に合いません」
「そ、そんな……! このままでは、また莫大な投資がパーに……!」
殿下が膝から崩れ落ちそうになった、その時だ。
「……あら? そういえば」
私はわざとらしく手を打った。
「セバス。私たちの馬車に、積んでありませんでしたか? あれが」
「はい、お嬢様。アースガルド領の山奥に自生していた、酸っぱくて誰も食べない野生のリンゴ……、クラブアップルの枝が、山ほど」
「偶然ね! ちょうど今が満開で、処分に困っていたのよ」
私はセバスに合図した。
彼が馬車から持ってきたのは、小さなピンク色の花をつけた、枯れ木のような枝の束だった。
「殿下。商談をしましょう」
「商談……?」
「この野生のリンゴは、実は小さくて不味いですが、花粉の生命力だけは抜群です。……この枝をバケツに入れて、果樹園のあちこちに置くのです。あるいは、高接ぎと言って、殿下の木の枝に無理やり継ぎ足す方法もあります」
私はピンク色の花を殿下の鼻先に突きつけた。
「そうすれば、ハチたちがこの野生種の花粉を運んでくれます。高級品種のプライド高いメシベたちも、この野性味あふれる花粉となら、喜んで結ばれるでしょう」
「そ、その枯れ枝を置くだけで、実がなるのか?」
「ええ。これを受粉樹と言います。……いわば、お見合い相手の斡旋ビジネスですね」
私は枝の束を抱きしめ、ニッコリと笑った。
「本来なら薪にするつもりの枝でしたが……、殿下の果樹園を救う高価な花婿ですもの。それなりのお値段になりますわよ?」
「ぐぬぬぬ……!」
殿下は屈辱に顔を歪めたが、背に腹は代えられない。
目の前の満開の花を、全て散らせて終わるか。
それとも、泥臭い野生種の力を借りて実を得るか。
「か、買う! その枝を全部よこせ! 言い値でいい!」
「ありがとうございます、殿下。……セバス、請求書を。特急料金込みでね」
数ヶ月後の秋。
ジェラルド殿下の果樹園には、見事に真っ赤なリンゴが実った。
ただし、その木の根元には、不釣り合いなバケツと野生の枝が置かれ、奇妙な光景となっていたが。
「……皮肉なものですな」
セバスチャンが、アースガルド領の別邸でリンゴ(殿下から代金の一部として送られてきたもの)を剥きながら言った。
「純血にこだわった殿下のリンゴが、結局は雑種の助けなしには実を結べなかったとは」
「ええ。純血主義や単一性は、脆さの裏返しよ。異なるものを受け入れてこそ、豊かな実りが生まれる。……植物たちは、人間よりもずっと賢い遺伝戦略を持っているのね」
私はシャクリとリンゴを齧った。
甘酸っぱい味の中に、多様性の勝利の味がした。
これで王都の食料事情はまた一つ改善された。
私の財布も潤い、殿下はプライドを切り売りして生き延びた。
ウィンウィンの関係と言えるだろう。
……殿下の精神的ダメージを除けば、だが。
王都の郊外にある王室御用達の果樹園では、季節外れの狂い咲きのように、白い花が満開を迎えていた。
「見ろ、マリアンヌ! この白き絶景を!」
ジェラルド殿下が、勝ち誇ったように腕を広げた。
彼の背後には、整然と植えられた数百本のリンゴの木が並んでいる。
「ジャガイモは失敗したが、果樹は違うぞ! これは私が直々に選んだ最高級品種、キング・オブ・アップルだ! 見ての通り、花も満開だ。秋にはたわわに実り、王都の食卓を潤すだろう!」
「……ほう。見事な咲きっぷりですね」
私は日傘を差し、並木道を歩いた。
確かに木々は健康そうだ。
白い花が枝を覆い尽くし、甘い香りに誘われてミツバチたちも飛び回っている。
一見すれば、大豊作が約束された光景に見える。
「グレイ伯爵が言っていた。『この品種は一本の木から採れる実の数が通常の倍だ』とな。どうだ、これなら文句はあるまい!」
「ええ、木そのものは立派ですわ。……ただ一つ、残念な点を除けば」
私は立ち止まり、満開の花房を指先で弾いた。
白い花びらがハラハラと散る。
「この花たちは、一つ残らず散り落ちますわ。……実は一つもなりません」
「はぁ? 何を言っている? 受粉ならミツバチがやっているだろう!」
殿下が飛び回るハチを指差す。
「ええ、ハチは仕事をしています。ですが、それは無駄骨ですわ。……なぜなら、この果樹園には花嫁しかいないのですから」
「花嫁……?」
「殿下。貴方はまたやりましたね? 最高級だからという理由で、この広い果樹園のすべてに、たった一種キング・オブ・アップルだけを植えたのでしょう?」
「当たり前だ! 雑種など混ぜてたまるか! 純血種こそのブランドだ!」
「それが命取りなのです」
私は憐れむような目で殿下を見た。
ジャガイモ疫病の時の単一品種栽培の失敗から、彼は何も学んでいない。
「リンゴやサクランボ、ナシといった多くの果樹には、自家不和合性という性質があります」
「ジカ……、なんだって?」
「簡単に言えば、自分自身の花粉では妊娠しないという性質です」
私は隣り合う二本の木の枝を掴み、近づけた。
「この木々は接ぎ木で増やされたクローン……。つまり、遺伝子的には同一人物です。隣の木の花粉が飛んできても、メシベはそれを『あ、これは自分自身の花粉だわ』と識別して、受精を拒否するのです」
「きょ、拒否だと!?」
「ええ。近親交配による劣性遺伝を防ぐための、植物の知恵ですわ。……つまり、この果樹園にいる数百本の木は、全員が鏡を見ているナルシストのようなもの。いくらハチが花粉を運んでも、自分自身に恋はできません」
私は花粉のついた指先を拭った。
「受粉して実をつけるためには、遺伝子の異なる別の品種の花粉が必要なのです。……パートナーがいないこの果樹園は、秋には実のならない緑の葉が茂るだけの森になりますわ」
「な、な、なんだとぉぉぉ!!」
殿下の悲鳴が果樹園に響き渡った。
彼は慌ててグレイ伯爵を振り返ったが、詐欺師の伯爵も「そ、そんな馬鹿な……、花が咲けば実はなるものでしょう!?」と狼狽している。
無知とは罪深い。
「ど、どうすればいい! 今から別の木を植えるか!?」
「無駄です。苗木が育って花をつけるには数年かかります。今年の収穫には間に合いません」
「そ、そんな……! このままでは、また莫大な投資がパーに……!」
殿下が膝から崩れ落ちそうになった、その時だ。
「……あら? そういえば」
私はわざとらしく手を打った。
「セバス。私たちの馬車に、積んでありませんでしたか? あれが」
「はい、お嬢様。アースガルド領の山奥に自生していた、酸っぱくて誰も食べない野生のリンゴ……、クラブアップルの枝が、山ほど」
「偶然ね! ちょうど今が満開で、処分に困っていたのよ」
私はセバスに合図した。
彼が馬車から持ってきたのは、小さなピンク色の花をつけた、枯れ木のような枝の束だった。
「殿下。商談をしましょう」
「商談……?」
「この野生のリンゴは、実は小さくて不味いですが、花粉の生命力だけは抜群です。……この枝をバケツに入れて、果樹園のあちこちに置くのです。あるいは、高接ぎと言って、殿下の木の枝に無理やり継ぎ足す方法もあります」
私はピンク色の花を殿下の鼻先に突きつけた。
「そうすれば、ハチたちがこの野生種の花粉を運んでくれます。高級品種のプライド高いメシベたちも、この野性味あふれる花粉となら、喜んで結ばれるでしょう」
「そ、その枯れ枝を置くだけで、実がなるのか?」
「ええ。これを受粉樹と言います。……いわば、お見合い相手の斡旋ビジネスですね」
私は枝の束を抱きしめ、ニッコリと笑った。
「本来なら薪にするつもりの枝でしたが……、殿下の果樹園を救う高価な花婿ですもの。それなりのお値段になりますわよ?」
「ぐぬぬぬ……!」
殿下は屈辱に顔を歪めたが、背に腹は代えられない。
目の前の満開の花を、全て散らせて終わるか。
それとも、泥臭い野生種の力を借りて実を得るか。
「か、買う! その枝を全部よこせ! 言い値でいい!」
「ありがとうございます、殿下。……セバス、請求書を。特急料金込みでね」
数ヶ月後の秋。
ジェラルド殿下の果樹園には、見事に真っ赤なリンゴが実った。
ただし、その木の根元には、不釣り合いなバケツと野生の枝が置かれ、奇妙な光景となっていたが。
「……皮肉なものですな」
セバスチャンが、アースガルド領の別邸でリンゴ(殿下から代金の一部として送られてきたもの)を剥きながら言った。
「純血にこだわった殿下のリンゴが、結局は雑種の助けなしには実を結べなかったとは」
「ええ。純血主義や単一性は、脆さの裏返しよ。異なるものを受け入れてこそ、豊かな実りが生まれる。……植物たちは、人間よりもずっと賢い遺伝戦略を持っているのね」
私はシャクリとリンゴを齧った。
甘酸っぱい味の中に、多様性の勝利の味がした。
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