婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第35話:夏が来ない年と、地下の太陽

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 暦の上では、今は盛夏のはずだった。
 人々が日差しを避けて木陰を探し、冷たい飲み物を欲する季節。

 しかし、王都の空は今日も鉛色の雲に覆われ、冷たい雨が石畳を叩いていた。

「……寒いです」

 王都の別邸にて。
 セバスチャンが暖炉に薪をくべながら、白い息を吐いた。
 8月だというのに、私たちは厚手のウールのショールを羽織っている。

「気温は10度を下回っているわね。……成層圏を覆う火山灰のベールが、太陽の熱を遮断し続けている」

 私は窓ガラスに付いた水滴を指でなぞった。

「歴史書には『夏が来ない年』として刻まれるでしょうね。……そして、今日がその審判の日よ」

 正午過ぎ。
 商人のガストンが、雨合羽から雫を垂らしながら飛び込んできた。
 その顔色は、外の天気よりも悪い。

「マリアンヌ様……、終わりです。王都周辺の農村から、悲痛な報告が届きました」

 ガストンは帽子を握りしめ、絞り出すように言った。

「小麦の収穫量は……、ゼロです」

「ゼロ、ね」

「はい。冷害で成長が止まり、長雨で受粉できず、最後に疫病で腐りました。……ジェラルド殿下が『奇跡の豊作間違いなし』と豪語していた王家の直轄地も、ただの枯れ草の野原と化しています」

 予想通りだ。
 小麦は繊細な作物だ。
 発芽から収穫までに一定の積算温度が必要であり、特に開花期の雨と低温にはめっぽう弱い。
 この異常気象下で小麦に固執するのは、嵐の中で紙飛行機を飛ばすようなものだった。

「市場はどうなっているの?」

「パニックです。パンの価格は昨日の50倍に跳ね上がりました。それでも買えない。そもそも粉がないのですから。……貴族たちが金貨を積んでも、パン屋は首を振るばかりです」

 ガストンが窓の外を指差した。
 通りには、傘も差さずに食料を求めて彷徨う人々の姿が見える。
 彼らの目は虚ろで、その足取りは重い。
 飢餓という二文字が、王都の喉元まで迫っていた。

「……皮肉なものですな」

 セバスチャンがポットを持ち上げたが、中身は空だった。

「殿下たちは『白いパンしか食べない』『芋など豚の餌だ』と笑っていました。しかし今、その白いパンは幻となり、彼らが持っている黄金は、パン一切れすら買えない石ころになりました」

「価値観の逆転ね」

 私は立ち上がり、倉庫への鍵を手にした。

「カロリーなき黄金に価値はない。……行きましょう、ガストンさん。私たちの豚の餌が、彼らにとっての黄金に変わる瞬間を見に……」

 アースガルド商会の倉庫前には、すでに人だかりができていた。
 貴族の使いの者、裕福な商人、そして一般市民。
 彼らは固く閉ざされた扉を、祈るような目で見つめている。

「マ、マリアンヌ!」

 私を見つけたジェラルド殿下が、群衆をかき分けて走ってきた。
 その頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。
 かつての傲慢さは消え失せ、あるのは焦燥と恐怖だけだ。

「頼む! 食料を! 倉庫を開けてくれ! 王城の備蓄も底をついた! このままでは暴動が起きる!」

「殿下。先日、貴方は言いましたわね。『泥臭い芋などいらん』と」

「い、言った! 言ったが、今はそんなことを言っている場合ではない! 背に腹は代えられんのだ!」

 なりふり構わない殿下の姿に、周囲の貴族たちも同調した。

「そうだ! 金なら払う!」

「早く開けてくれ!」

 私は無言で、倉庫の南京錠を解錠した。
 重い扉が、ギギーッと音を立てて開く。

 その瞬間。
 中から溢れ出したのは、甘く、土の香りがする温かい空気だった。

「おお……っ!」

 人々が息を呑んだ。
 防湿工事(縁切り)を施した乾燥した倉庫の中。
 そこには、天井まで届くほど積み上げられた、麻袋の山があった。

 ジャガイモ。
 サツマイモ。
 タマネギ。
 カボチャ。

 茶色、紫、黄色。
 決して洗練された色ではない。泥がついたままの、ゴツゴツとした塊たち。
 しかし、飢えた人々の目には、それらがどんな宝石よりも輝いて見えたはずだ。

「ど、どうして……!」

 殿下が膝をつき、転がり出たサツマイモを拾い上げた。

「外はこんなに寒いのに……、小麦は全滅したのに……、なぜ、お前の作物だけがこんなに無事なんだ!?」

「彼らは地下にいたからです」

 私は静かに答えた。

「空気は冷えやすく、熱しにくい。でも土は逆です。土壌は巨大な蓄熱材であり、断熱材でもあります。……地上の気温が5度まで下がっても、地下30センチの温度は15度以上を保っていた」

 私はサツマイモを指差した。

「彼らは、母なる大地の布団の中で、寒さをやり過ごしていたのです。……貴方たちが空(天候)ばかり見て祈っている間に、私は足元の土を信じた。ただそれだけのことです」

「地下の……、太陽……」

 殿下がサツマイモを抱きしめて震えた。
 それは、彼が忌み嫌い、見下していた泥と土がもたらした恵みだった。

「さあ、配給を始めましょう」

 私が手を叩くと、ガストンと従業員たちが動き出した。

「ただし、無料ではありませんよ。……市民には適正価格で。そして、これまで散々私たちを馬鹿にしてきた貴族の皆様には、特別プレミアム価格で提供させていただきます」

「か、買う! いくらでも出す!」

「芋をくれ! その紫の芋を!」

 金貨が飛び交い、ジャガイモが飛ぶように売れていく。
 かつて貧者の食べ物と呼ばれた根菜が、今や王都の命綱となった。

 私は喧騒を離れ、倉庫の隅に置かれたカゴから、小さなジャガイモを一つ手に取った。
 冷たい雨の降る王都で、この小さな塊だけが、確かな熱量(カロリー)を持っている。

「セバス。今夜はポトフにしましょうか」

「はい、お嬢様。……ソーセージはありませんが、このお芋があれば、王様のディナーより贅沢ですな」

 夏が来なかった年。
 王都の歴史書には、「白いパンが消え、茶色い芋が人々を救った年」として記されることになるだろう。

 そしてそれは、アースガルド領の完全勝利が確定した瞬間でもあった。
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