婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第43話:カレンダーを見ない魔女と、貯金された熱

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 王都に、冷たい秋風が吹き始めた頃。
 市場は奇妙なパニックに陥っていた。

「おい、もう10月だぞ! 早く収穫しないと霜が降りる!」

「でも、実はまだ青いままだ! こんなの売れないぞ!」

 農民たちは焦っていた。
 今年は歴史的な冷夏だった。

 そのため、作物の成長が例年より大幅に遅れているのだ。
 しかし、カレンダーは無情にも収穫の季節を告げている。
 これ以上待って霜が降りれば、作物は全滅する。
 かといって今収穫すれば、未熟なゴミにしかならない。

「ええい、迷っている暇はない! 全軍、収穫開始だ!」

 号令をかけたのは、懲りないジェラルド殿下だった。
 彼は王家の直轄地にあるブドウ畑と果樹園に兵を出し、青くて硬い果実を無理やり収穫させ始めた。

「マリアンヌを見ろ! あいつはまだ収穫していない! このまま霜が降りれば、あいつの作物は全滅だ! 今度こそ私の勝ちだ!」

 殿下は、隣接する私の畑を指差して高笑いしていた。
 私の畑では、ブドウもリンゴもまだ枝に残ったままだ。

「……お嬢様。本当によろしいのですか?」

 私の別邸にて。
 窓から外の様子を窺うセバスチャンが、不安げに尋ねた。

「周りの農家は皆、収穫を終えました。市場には青い果実が山積みです。……お嬢様の畑だけが、取り残されていますぞ。明日にも初霜が降りるとの予報ですが」

「大丈夫よ、セバス。明日は霜は降りないわ」

 私はデスクに向かい、分厚いノートにペンを走らせていた。
 そこには、毎日記録した気温のデータがびっしりと書き込まれている。

「カレンダーの日付なんて、植物には関係ないの。彼らが気にしているのは日付じゃなくてよ」

「温度の……、貯金?」

「ええ。それを有効積算温度と呼ぶわ」

 私はノートの計算式を指差した。

「植物が成熟するためには、一定の熱量が必要なの。毎日、平均気温マイナス基準温度を足し算していく。……その合計値が特定の数字に達した時、初めて彼らは完熟を迎える」

 私は窓の外、青空を見上げた。

「今年は冷夏だったから、毎日の貯金額が少なかった。だから、カレンダー上の収穫日になっても、植物たちの貯金箱はまだ満タンになっていないのよ」

「しかし、冬は待ってくれませんぞ」

「あと少しよ。……私の計算では、あと一週間。来週に来る小春日和の暖かさで、目標値に達するはず」

「もし外れたら?」

「全滅ね。……でも、私は自分の計算を信じるわ」

 一週間後。

 王都の市場は、悲惨な状況になっていた。
 ジェラルド殿下が収穫祭と銘打って売り出したブドウや果物は、酸っぱくて渋く、とても食べられたものではなかったのだ。

「ぺっ! なんだこのブドウ、酢の味がするぞ!」

「リンゴも石みたいに硬ぇ! こんなの金払って食えるか!」

 市民たちは激怒し、殿下の作物は二束三文で叩き売られ、最後はジャム用の加工品として買い叩かれた。

「くそっ……! なぜだ! 収穫時期は合っていたはずだ! 例年通り10月頭に採ったのに!」

 殿下は売れ残った青いブドウの山を前に、頭を抱えていた。
 そこへ、一台の荷馬車が悠然と現れた。
 アースガルド商会の紋章が入った馬車だ。

「お待たせしました! マリアンヌ様の農園より、採れたて完熟フルーツの到着です!」

 ガストンが高らかに宣言し、荷台の覆いを取った。
 そこにあったのは――

 芳醇な甘い香りを放つ、紫色に熟したブドウと、真っ赤なリンゴだった。

「な、なんだと……!?」

 殿下が目を剥いた。
 市場にいた人々も、その香りに吸い寄せられるように集まってくる。

「甘い匂いだ……!」

「嘘だろ? あの寒さの中で、どうやって完熟させたんだ?」

 ガストンが試食用のブドウを配る。
 口に入れた瞬間、市民たちの顔が綻んだ。

「うめぇぇぇ! 砂糖爆弾だ!」

「果汁が溢れてくるぞ!」

 瞬く間に人だかりができ、飛ぶように売れていく。
 殿下の青いブドウの十倍の値段がついているのに、争奪戦だ。

「ば、馬鹿な……! マリアンヌ! 貴様、どうやった!?」

 人混みをかき分けて、殿下が私に詰め寄った。
 私は完熟したリンゴを一つ、お手玉のように放り上げた。

「待っただけですわ、殿下」

「待った? 霜が降りるかもしれないのにか!?」

「ええ。貴方はカレンダーを見て収穫し、私は温度計を見て収穫した。その差です」

 私はノートを開いて見せた。

「この一週間、奇跡的に暖かい日が続きました。貴方が慌てて収穫した後、植物たちは最後の日差しを浴びて、一気に糖度を上げたのです。……有効積算温度が満ちた瞬間を、私は逃さなかった」

「せ、積算温度だと……? そんな数字遊びで、農業ができるか!」

「数字ではありません。植物との対話です」

 私は真っ赤なリンゴを殿下に押し付けた。

「植物は嘘をつきません。必要な熱を与えれば、必ず甘くなる。……貴方は彼らの都合を無視して、自分の都合(暦)を押し付けた。だから彼らは未熟なまま、酸っぱい実で貴方に抗議したのです」

 殿下は手の中のリンゴを見つめ、そしてガブリとかじった。
 溢れる蜜。
 濃厚な甘み。
 自分の作った石のようなリンゴとは、別の食べ物だ。

「……負けた」

 殿下は小さく呟き、よろめきながら去っていった。
 市場には、マリアンヌの完熟果実を求める行列が、いつまでも途切れなかった。

「お嬢様。見事な読みでしたな」

 セバスチャンが感心したように言う。

「でも、怖かったですぞ。もし今日、霜が降りていたら……」

「ふふ。その時はその時よ。……でもねセバス。地質学者も農学者も、最後は賭けに出るものよ。データという最強のカードを持ってね」

 王都の秋は深まっていく。
 私の計算通り、この翌日から急激に冷え込み、本格的な冬が到来した。

 ギリギリのタイミングで収穫されたアースガルドの果実は、王都の最後の甘みとして、人々の記憶に刻まれることになった。
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