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第68話:縮まない金属と、鉛の兵隊たち
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アース・ペーパーの発明により、アースガルド領は空前の紙ブームに沸いていた。
安価で高品質な紙は、商人や役人たちに飛ぶように売れている。
だが、私の執務室には、また別の難題が持ち込まれていた。
「お嬢様……。紙はあっても、肝心の本が足りません」
商人のガストンが、困り果てた顔で報告する。
「教科書を作ろうにも、書き写す写字生が足りないのです。手書きで一冊作るのに数日はかかりますし、彼らの人件費が高すぎて、結局、本の値段は高いままです」
「ボトルネックは筆というわけね」
私は溜息をついた。
紙が安くなっても、文字を書く速度が人間頼みでは、知識の爆発的な普及は望めない。
そこへ、招かれざる客が現れた。
王都から視察に来た、王立図書館長であり写本ギルドの長老、グローム司教だ。
「嘆かわしい! 実に嘆かわしい!」
グローム司教は、私が作った真っ白な紙を汚らわしげに指先で摘み上げた。
「このような安っぽい紙に、神聖な知識を記すなど言語道断! 本とは、羊皮紙に一文字ずつ祈りを込めて記すからこそ尊いのだ。貴女がやろうとしている知識の安売りは、学問への冒涜ですぞ!」
典型的な知識独占派だ。
本が高価で希少であるほど、それを管理する彼らの権威は守られる。
彼らにとって、誰もが本を読める世界など悪夢でしかない。
「グローム様。……祈りを込めるのも結構ですが、民は祈りよりも読み書きを求めていますわ」
「ふん! 下々の者に学問など不要! それに、貴女がいくら紙を作ろうと無駄だ。我々写本ギルドは協力しない。……字を書ける人間は我々が独占しているのだからな!」
司教は勝ち誇ったように笑った。
字書きをボイコットすれば、私の紙はただの白いゴミになると踏んでいるのだ。
「……なるほど。人間が書かないなら、結構です」
私は立ち上がり、壁の地質図(鉱山エリア)を見た。
「人間より正確に、人間より速く、そして疲れを知らない鉛の兵隊に書いてもらいますから」
私は直ちに、領内の金属工房へと向かった。
そこには、ハイランド大公国から輸入した様々な金属インゴットが並んでいる。
「ガンツさん。……ハンコを作りたいの。それも、とびきり小さくて、精密なやつを数万個」
「ハンコだぁ? 鉄で作るか?」
「いいえ。鉄じゃ硬すぎて加工が大変だし、溶かすのに温度が高すぎる。……もっと低温で溶けて、鋳造しやすい金属がいいわ」
私は鉛の延べ棒を手に取った。
鉛は融点が低く、加工しやすい。
「だがお嬢ちゃん、鉛は柔らかすぎるぞ。すぐにすり減っちまうし、何より冷えると縮むだろ?」
ガンツが鋭い指摘をする。
そう、金属は液体から固体になる時、体積が収縮する。
細かい文字の型に鉛を流し込んでも、冷えると縮んで型から離れてしまい、文字の角が丸くなってしまうのだ。
これではボケた文字しか印刷できない。
「だから、混ぜるのよ。……魔法のスパイスをね」
私はポケットから、銀白色に輝く鉱石を取り出した。
それは、ハイランドの鉱山で見つけた輝安鉱。
「これはアンチモンという金属の原料よ。……この金属には、世にも珍しい性質があるの」
私はアンチモンを鉛の鍋に放り込んだ。
「普通の物質は液体から固体になるときに体積が減るけれど、アンチモンは逆に膨張する性質を持っている。……つまり、縮もうとする鉛に、膨らもうとするアンチモンを混ぜれば?」
「……! プラスマイナスゼロで、型通りの形になるってか!」
「ご名答。さらに錫を加えて流動性を良くし、粘り気を出せば……」
私たちは、鉛、アンチモン、錫を絶妙な配合(鉛85%、アンチモン10%、錫5%など)で溶かし、文字の彫られた母型に流し込んだ。
数秒で冷え固まる。
型から取り出すと、そこには――
「おお……! くっきりしてる!」
小さな金属の柱の先端に、「A」という文字が、カミソリのように鋭いエッジで浮き上がっていた。
これが活字合金だ。
「これなら何千回スタンプしてもすり減らないし、溶かせば何度でもリサイクルできるわ。……さあ、量産よ! 鉛の兵隊を整列させなさい!」
数日後。
アースガルドの広場にて、グローム司教や貴族たちを招いての公開実験が行われた。
「ふん、金属のハンコだと? そんなもので、我々熟練の写字生に勝てるものか」
グローム司教は、十人の最高峰の写字生を連れてきていた。
「よーい、始め!」の合図で、彼らは羊皮紙に向かい、必死に聖書の一節を書き写し始める。
対する私は、巨大な木製の機械――印刷機(プレス機)の前に立っていた。
すでに、ガンツたちが並べた活字の版がセットされ、特製の油性インク(煤と亜麻仁油を混ぜたもの)が塗られている。
「セバス、回して!」
「はい、お嬢様!」
セバスチャンがレバーを引く。
ガシャン、という重厚な音が響き、紙が版に押し付けられる。
レバーを戻し、紙を取り出す。
そこには、整然と並んだ美しい文字が、くっきりと印字されていた。
その速度は、圧倒的だった。
写字生が一文を書く間に、印刷機は一枚(数百文字)を刷り上げる。
「な、なんだあの速さは……!?」
司教が目を剥く。
一時間後。
写字生たちが痛む手首をさすりながら、ようやく数枚を書き終えた頃。
私の隣には、数百枚の本が山積みになっていた。
「勝負あり、ですね」
私は刷りたての一枚を、司教に手渡した。
インクの匂いがするその紙には、一文字の乱れもなく、知識が刻まれている。
「これが活版印刷です。……鉛とアンチモンの合金が、貴方たちの独占していた知識を、誰にでも手の届くものに変えました」
私は積み上がった本を、見物していた領民たちに配り始めた。
「さあ、持ってお行きなさい! これが教科書よ! 今日から貴方たちは、聖職者を通さずに、自分で世界を学ぶことができるの!」
「ありがとうございます!」
「俺にも読めるかな?」
「読めるようになるさ!」
歓喜の渦。
グローム司教は、震える手で活字の版を見つめ、やがて力なく崩れ落ちた。
「……知識が、溢れ出してしまう。我々の特権が……」
「特権などありません。知識は水と同じ。……高いところから低いところへ、あまねく流れるべきものです」
私はインクで汚れた手を拭った。
この黒い汚れは、泥汚れと同じくらい誇らしい。
「お嬢様。……これで、世界が変わりますな」
セバスチャンが感慨深げに言う。
「ええ。剣よりも、魔法よりも強い力。……情報の力が解き放たれたわ」
アースガルド領から始まった印刷革命は、やがて国中へ、そして世界へと広がり、歴史を大きく動かすことになる。
かつて泥まみれだった私の手は今、文明のページをめくっている。
安価で高品質な紙は、商人や役人たちに飛ぶように売れている。
だが、私の執務室には、また別の難題が持ち込まれていた。
「お嬢様……。紙はあっても、肝心の本が足りません」
商人のガストンが、困り果てた顔で報告する。
「教科書を作ろうにも、書き写す写字生が足りないのです。手書きで一冊作るのに数日はかかりますし、彼らの人件費が高すぎて、結局、本の値段は高いままです」
「ボトルネックは筆というわけね」
私は溜息をついた。
紙が安くなっても、文字を書く速度が人間頼みでは、知識の爆発的な普及は望めない。
そこへ、招かれざる客が現れた。
王都から視察に来た、王立図書館長であり写本ギルドの長老、グローム司教だ。
「嘆かわしい! 実に嘆かわしい!」
グローム司教は、私が作った真っ白な紙を汚らわしげに指先で摘み上げた。
「このような安っぽい紙に、神聖な知識を記すなど言語道断! 本とは、羊皮紙に一文字ずつ祈りを込めて記すからこそ尊いのだ。貴女がやろうとしている知識の安売りは、学問への冒涜ですぞ!」
典型的な知識独占派だ。
本が高価で希少であるほど、それを管理する彼らの権威は守られる。
彼らにとって、誰もが本を読める世界など悪夢でしかない。
「グローム様。……祈りを込めるのも結構ですが、民は祈りよりも読み書きを求めていますわ」
「ふん! 下々の者に学問など不要! それに、貴女がいくら紙を作ろうと無駄だ。我々写本ギルドは協力しない。……字を書ける人間は我々が独占しているのだからな!」
司教は勝ち誇ったように笑った。
字書きをボイコットすれば、私の紙はただの白いゴミになると踏んでいるのだ。
「……なるほど。人間が書かないなら、結構です」
私は立ち上がり、壁の地質図(鉱山エリア)を見た。
「人間より正確に、人間より速く、そして疲れを知らない鉛の兵隊に書いてもらいますから」
私は直ちに、領内の金属工房へと向かった。
そこには、ハイランド大公国から輸入した様々な金属インゴットが並んでいる。
「ガンツさん。……ハンコを作りたいの。それも、とびきり小さくて、精密なやつを数万個」
「ハンコだぁ? 鉄で作るか?」
「いいえ。鉄じゃ硬すぎて加工が大変だし、溶かすのに温度が高すぎる。……もっと低温で溶けて、鋳造しやすい金属がいいわ」
私は鉛の延べ棒を手に取った。
鉛は融点が低く、加工しやすい。
「だがお嬢ちゃん、鉛は柔らかすぎるぞ。すぐにすり減っちまうし、何より冷えると縮むだろ?」
ガンツが鋭い指摘をする。
そう、金属は液体から固体になる時、体積が収縮する。
細かい文字の型に鉛を流し込んでも、冷えると縮んで型から離れてしまい、文字の角が丸くなってしまうのだ。
これではボケた文字しか印刷できない。
「だから、混ぜるのよ。……魔法のスパイスをね」
私はポケットから、銀白色に輝く鉱石を取り出した。
それは、ハイランドの鉱山で見つけた輝安鉱。
「これはアンチモンという金属の原料よ。……この金属には、世にも珍しい性質があるの」
私はアンチモンを鉛の鍋に放り込んだ。
「普通の物質は液体から固体になるときに体積が減るけれど、アンチモンは逆に膨張する性質を持っている。……つまり、縮もうとする鉛に、膨らもうとするアンチモンを混ぜれば?」
「……! プラスマイナスゼロで、型通りの形になるってか!」
「ご名答。さらに錫を加えて流動性を良くし、粘り気を出せば……」
私たちは、鉛、アンチモン、錫を絶妙な配合(鉛85%、アンチモン10%、錫5%など)で溶かし、文字の彫られた母型に流し込んだ。
数秒で冷え固まる。
型から取り出すと、そこには――
「おお……! くっきりしてる!」
小さな金属の柱の先端に、「A」という文字が、カミソリのように鋭いエッジで浮き上がっていた。
これが活字合金だ。
「これなら何千回スタンプしてもすり減らないし、溶かせば何度でもリサイクルできるわ。……さあ、量産よ! 鉛の兵隊を整列させなさい!」
数日後。
アースガルドの広場にて、グローム司教や貴族たちを招いての公開実験が行われた。
「ふん、金属のハンコだと? そんなもので、我々熟練の写字生に勝てるものか」
グローム司教は、十人の最高峰の写字生を連れてきていた。
「よーい、始め!」の合図で、彼らは羊皮紙に向かい、必死に聖書の一節を書き写し始める。
対する私は、巨大な木製の機械――印刷機(プレス機)の前に立っていた。
すでに、ガンツたちが並べた活字の版がセットされ、特製の油性インク(煤と亜麻仁油を混ぜたもの)が塗られている。
「セバス、回して!」
「はい、お嬢様!」
セバスチャンがレバーを引く。
ガシャン、という重厚な音が響き、紙が版に押し付けられる。
レバーを戻し、紙を取り出す。
そこには、整然と並んだ美しい文字が、くっきりと印字されていた。
その速度は、圧倒的だった。
写字生が一文を書く間に、印刷機は一枚(数百文字)を刷り上げる。
「な、なんだあの速さは……!?」
司教が目を剥く。
一時間後。
写字生たちが痛む手首をさすりながら、ようやく数枚を書き終えた頃。
私の隣には、数百枚の本が山積みになっていた。
「勝負あり、ですね」
私は刷りたての一枚を、司教に手渡した。
インクの匂いがするその紙には、一文字の乱れもなく、知識が刻まれている。
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私は積み上がった本を、見物していた領民たちに配り始めた。
「さあ、持ってお行きなさい! これが教科書よ! 今日から貴方たちは、聖職者を通さずに、自分で世界を学ぶことができるの!」
「ありがとうございます!」
「俺にも読めるかな?」
「読めるようになるさ!」
歓喜の渦。
グローム司教は、震える手で活字の版を見つめ、やがて力なく崩れ落ちた。
「……知識が、溢れ出してしまう。我々の特権が……」
「特権などありません。知識は水と同じ。……高いところから低いところへ、あまねく流れるべきものです」
私はインクで汚れた手を拭った。
この黒い汚れは、泥汚れと同じくらい誇らしい。
「お嬢様。……これで、世界が変わりますな」
セバスチャンが感慨深げに言う。
「ええ。剣よりも、魔法よりも強い力。……情報の力が解き放たれたわ」
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