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第78話:暴れ川の記憶と、あえて溢れさせる勇気
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「汚い! 臭い! これ以上、泥など触りたくない!」
アースガルド領を流れる大河、蛇竜川の河川敷。
そこで作業を拒否して座り込んでいるのは、囚人服を着た元・大判事バリウスと、元・侯爵ガモンだった。
「私は法律家だぞ! 六法全書ならいくらでもめくれるが、土嚢など積めるか!」
「そうだ! こんな雨の中で堤防を作れだと? 奴隷の仕事だ!」
彼らは泥だらけの手を天に突き上げ、ストライキを決め込んでいた。
降り続く雨が、川の水位を徐々に上げているというのに。
「……困った新人たちだな」
現場監督のジェラルドが、スコップを肩に担いで舌打ちをする。
その横に、私が馬で乗り付けた。
「ごきげんよう、皆様。……泥遊びは楽しいですか?」
「マ、マリアンヌ! 貴様、これはいじめだ! 不当労働行為だ!」
バリウスが食って掛かる。
私は馬上から、増水しつつある濁流を見下ろした。
「いじめではありません。……治水工事です。この川は蛇行が激しく、大雨のたびに氾濫して下流の村を飲み込んできました。それを防ぐために、堤防を強化しているのです」
「なら、もっと高く積めばいいだろう! なぜ我々は、こんな何もない荒地を掘らされているんだ!」
ガモンが指差したのは、川から少し離れた、葦が生い茂るだけの低湿地だった。
堤防を作るなら川岸のはずだが、私たちはあえて離れた場所を掘り返させている。
「高く積むだけが能ではありません。……バリウス様、貴方は法律家でしたね?」
「いかにも! 法の番人だ!」
「では質問です。……抑圧された民衆の怒りを、力ずくで押さえつけるとどうなりますか?」
「な、なんだ急に。……決まっている、いつか爆発して暴動が起きる」
「川も同じです」
私は濁流を指差した。
「川を高い堤防で無理やり閉じ込めれば、水のエネルギーは逃げ場を失い、加速します。……そして、ひとたび決壊すれば、鉄砲水となって壊滅的な被害をもたらす。力による封じ込めは、いつか破綻するのです」
私は地図を広げた。
そこには、現在の川の流れと、かつての川の流れが描かれている。
「だから、私たちはここに遊水地を作ります」
「ゆうすい……、ち?」
「ええ。川が増水した時、あえて水を溢れさせ、一時的に貯めておくための巨大なポケットです」
私は、彼らが掘らされている低湿地を指した。
「地形を見てください。この場所は三日月形に窪んでいますね? ……ここは旧河道。百年前に川が流れていた昔の通り道です」
「昔の……、道?」
「川は覚えているのです。自分がかつて通った道を。……だから、無理に真っ直ぐ流そうとしても、水は記憶に従ってここへ戻ろうとする。ならば、逆らわずにそこへ導いてあげればいい」
私はジェラルドに目配せした。
彼が杭を打ち込んだ場所――堤防の一部を、意図的に低く切り欠いた越流堤を指差す。
「水が増えたら、ここから自然に旧河道へと水を逃がす。……そうすれば、本流の水位は下がり、下流の街は守られる。水が引けば、ポケットの水はまた川に戻せばいい」
「なるほど……。洪水を防ぐのではなく、管理された洪水を作るのですな」
セバスチャンが感心したように頷く。
「ええ。霞堤の応用よ。……自然の猛威とは喧嘩をしてはいけない。相手の力を受け流し、居場所を作ってあげること。それが最強の防災よ」
私はバリウスたちを見下ろした。
「分かりましたか? 貴方たちが掘っているのは、ただの穴ではありません。……数万人の命を守るための安全弁なのです」
「あ、安全弁……」
「貴方たちは王都で、民の怒り(洪水)を無視して高い壁(権威)の中に閉じこもりました。その結果が、あの暴動による決壊です」
私の言葉に、バリウスはハッとして自分の泥だらけの手を見た。
自分が今やっている作業が、かつて自分が失敗した統治のやり直しであることに気づいたのだ。
「……マリアンヌ。お前は、政治の話をしているのか、土木の話をしているのか」
ジェラルドが苦笑する。
「両方よ。……世の中の理は、地層も人間も同じだもの」
私は空を見上げた。雨脚が強くなってきた。
「さあ、働いてください元・高官の皆様! 今夜が山場です。……もしこの遊水地が完成しなければ、下流にある貴方たちの仮設住宅が最初に流されますよ?」
「な、なんだとォォォ!?」
「掘れ! ガモン、手を動かせ! 俺の家が流される!」
バリウスとガモンは、弾かれたようにスコップを握り直し、猛然と掘り始めた。
先ほどまでの文句はどこへやら、生きるための必死の形相だ。
「……現金な奴らだ」
ジェラルドが呆れつつも、彼らに指示を飛ばす。
「そこだ! 土を盛れ! 水の気持ちになれ!」
その夜、アースガルド領は大雨に見舞われた。
蛇竜川の水位は危険域に達したが、濁流は完成したばかりの越流堤を乗り越え、どうどうと遊水地へと流れ込んだ。
巨大な三日月湖が出現し、本流の水位は安定した。
「……止まりましたな」
屋敷の窓から、セバスチャンが安堵の息をつく。
「ええ。水は記憶の場所へ帰ったわ」
暴れ川を手なずけ、囚人たちの意識も物理的な危機感で改革した。
国土強靭化計画は、着々と進行している。
「さて、次は道路ね。……この国は道が悪すぎて、物流が遅いのよ」
私は次の図面を広げた。
泥の次は、石畳。
私の辞書に休息という文字はない。
アースガルド領を流れる大河、蛇竜川の河川敷。
そこで作業を拒否して座り込んでいるのは、囚人服を着た元・大判事バリウスと、元・侯爵ガモンだった。
「私は法律家だぞ! 六法全書ならいくらでもめくれるが、土嚢など積めるか!」
「そうだ! こんな雨の中で堤防を作れだと? 奴隷の仕事だ!」
彼らは泥だらけの手を天に突き上げ、ストライキを決め込んでいた。
降り続く雨が、川の水位を徐々に上げているというのに。
「……困った新人たちだな」
現場監督のジェラルドが、スコップを肩に担いで舌打ちをする。
その横に、私が馬で乗り付けた。
「ごきげんよう、皆様。……泥遊びは楽しいですか?」
「マ、マリアンヌ! 貴様、これはいじめだ! 不当労働行為だ!」
バリウスが食って掛かる。
私は馬上から、増水しつつある濁流を見下ろした。
「いじめではありません。……治水工事です。この川は蛇行が激しく、大雨のたびに氾濫して下流の村を飲み込んできました。それを防ぐために、堤防を強化しているのです」
「なら、もっと高く積めばいいだろう! なぜ我々は、こんな何もない荒地を掘らされているんだ!」
ガモンが指差したのは、川から少し離れた、葦が生い茂るだけの低湿地だった。
堤防を作るなら川岸のはずだが、私たちはあえて離れた場所を掘り返させている。
「高く積むだけが能ではありません。……バリウス様、貴方は法律家でしたね?」
「いかにも! 法の番人だ!」
「では質問です。……抑圧された民衆の怒りを、力ずくで押さえつけるとどうなりますか?」
「な、なんだ急に。……決まっている、いつか爆発して暴動が起きる」
「川も同じです」
私は濁流を指差した。
「川を高い堤防で無理やり閉じ込めれば、水のエネルギーは逃げ場を失い、加速します。……そして、ひとたび決壊すれば、鉄砲水となって壊滅的な被害をもたらす。力による封じ込めは、いつか破綻するのです」
私は地図を広げた。
そこには、現在の川の流れと、かつての川の流れが描かれている。
「だから、私たちはここに遊水地を作ります」
「ゆうすい……、ち?」
「ええ。川が増水した時、あえて水を溢れさせ、一時的に貯めておくための巨大なポケットです」
私は、彼らが掘らされている低湿地を指した。
「地形を見てください。この場所は三日月形に窪んでいますね? ……ここは旧河道。百年前に川が流れていた昔の通り道です」
「昔の……、道?」
「川は覚えているのです。自分がかつて通った道を。……だから、無理に真っ直ぐ流そうとしても、水は記憶に従ってここへ戻ろうとする。ならば、逆らわずにそこへ導いてあげればいい」
私はジェラルドに目配せした。
彼が杭を打ち込んだ場所――堤防の一部を、意図的に低く切り欠いた越流堤を指差す。
「水が増えたら、ここから自然に旧河道へと水を逃がす。……そうすれば、本流の水位は下がり、下流の街は守られる。水が引けば、ポケットの水はまた川に戻せばいい」
「なるほど……。洪水を防ぐのではなく、管理された洪水を作るのですな」
セバスチャンが感心したように頷く。
「ええ。霞堤の応用よ。……自然の猛威とは喧嘩をしてはいけない。相手の力を受け流し、居場所を作ってあげること。それが最強の防災よ」
私はバリウスたちを見下ろした。
「分かりましたか? 貴方たちが掘っているのは、ただの穴ではありません。……数万人の命を守るための安全弁なのです」
「あ、安全弁……」
「貴方たちは王都で、民の怒り(洪水)を無視して高い壁(権威)の中に閉じこもりました。その結果が、あの暴動による決壊です」
私の言葉に、バリウスはハッとして自分の泥だらけの手を見た。
自分が今やっている作業が、かつて自分が失敗した統治のやり直しであることに気づいたのだ。
「……マリアンヌ。お前は、政治の話をしているのか、土木の話をしているのか」
ジェラルドが苦笑する。
「両方よ。……世の中の理は、地層も人間も同じだもの」
私は空を見上げた。雨脚が強くなってきた。
「さあ、働いてください元・高官の皆様! 今夜が山場です。……もしこの遊水地が完成しなければ、下流にある貴方たちの仮設住宅が最初に流されますよ?」
「な、なんだとォォォ!?」
「掘れ! ガモン、手を動かせ! 俺の家が流される!」
バリウスとガモンは、弾かれたようにスコップを握り直し、猛然と掘り始めた。
先ほどまでの文句はどこへやら、生きるための必死の形相だ。
「……現金な奴らだ」
ジェラルドが呆れつつも、彼らに指示を飛ばす。
「そこだ! 土を盛れ! 水の気持ちになれ!」
その夜、アースガルド領は大雨に見舞われた。
蛇竜川の水位は危険域に達したが、濁流は完成したばかりの越流堤を乗り越え、どうどうと遊水地へと流れ込んだ。
巨大な三日月湖が出現し、本流の水位は安定した。
「……止まりましたな」
屋敷の窓から、セバスチャンが安堵の息をつく。
「ええ。水は記憶の場所へ帰ったわ」
暴れ川を手なずけ、囚人たちの意識も物理的な危機感で改革した。
国土強靭化計画は、着々と進行している。
「さて、次は道路ね。……この国は道が悪すぎて、物流が遅いのよ」
私は次の図面を広げた。
泥の次は、石畳。
私の辞書に休息という文字はない。
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