婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第84話 泥濘の宴会と、真の貴族の義務

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 雪解け水と春の長雨が重なり、アースガルド領の山間部で土砂崩れが発生した。
 被害を受けたのは、かつてジェラルド殿下が貧乏くさいと見捨て、私が救済した小さな村だった。

「総員、出動! スコップと土嚢を持て!」

 深夜の緊急招集。
 私が率いるのは、正規の兵士ではない。
 ジェラルド、ガモン、バリウス、そして帝国軍人のボルグたち――「囚人部隊」だ。

「おいおい、勘弁してくれよ! 夜中だぞ! 俺たちは昼間の労働でクタクタなんだ!」

 ガモン元侯爵が、眠い目をこすりながら文句を言う。
 バリウス元判事も、寒さに震えながら同意する。

「そうだ! 我々は囚人だが、休息権があるはずだ! こんな泥雨の中、なぜ他人の家のために働かねばならん!」

「……他人、ですか」

 私は馬上で彼らを見下ろした。
 雨具を着ているが、容赦ない雨が頬を打つ。

「ガモン様。貴方が現役の侯爵だった頃、領地で災害が起きた時、何をしていましたか?」

「え? そ、それは……、部下に任せて、私は安全な城で待機していたが……」

「いいえ。記録によれば、貴方は『恐怖を紛らわせるため』と称して、側近たちと宴会を開いていましたね? ……民が濁流に飲まれているその瞬間に、ワインを開けていた」

 ガモンが言葉に詰まる。
 図星だ。
 旧体制派の貴族にとって、民の命はただの数字であり、自分たちの快適さが最優先だった。

「それが、ノブレス・オブリージュの欠如です」

 私は雷鳴の中で告げた。

「特権とは、美味しいものを食べる権利ではありません。……いざという時、誰よりも先に危険な場所に立ち、民を守るために泥を被る責任のことです」

 私は手綱を引いた。

「行くわよ。……過去の罪滅ぼしをしたいなら、ついて来なさい!」

 現場は惨状を極めていた。
 裏山が崩れ、土石流が数軒の民家を押し流している。
 村人たちは泣き叫び、泥の中に埋もれた家族を素手で掘り返そうとしていた。

「ひどい……」

 リリーナ(彼女も農作業着で連れてきた)が口元を押さえる。

「ぼやっとしている暇はない! 生存者がいるかもしれない! 掘れ!」

 誰よりも早く動いたのは、ジェラルドだった。
 彼は指示されるまでもなく泥沼に飛び込み、崩れた屋根の梁を肩で担ぎ上げた。

「ぐぬゥ……ッ! 重い……! ボルグ、手を貸せ!」

「おうよ! 任せろ!」

 帝国将軍のボルグが駆け寄り、二人掛かりで梁を持ち上げる。
 その隙間から、泥だらけの子供が泣きながら這い出してきた。

「よかった……! 生きてるぞ!」

 ジェラルドが子供を抱きかかえる。
 その顔は泥と雨でぐちゃぐちゃだが、かつて王宮で見たどの笑顔よりも輝いていた。

「……おい、ガモン! お前たちも突っ立ってないで土嚢を積め! 水が来るぞ!」

「わ、わかったよ! やればいいんだろ!」

 ガモンたちも、目の前の命のやり取りに当てられたのか、文句を飲み込んで動き出した。
 普段はペンしか持たなかった彼らが、爪の先から血を滲ませながら、必死に土を掻き出している。

「……変わりましたな」

 セバスチャンが炊き出しの準備をしながら目を細める。

「ええ。……以前の彼らなら、服が汚れるのを嫌がって逃げ出していたでしょうね」

 私は地質学的な視点で現場を見た。
 土石流の第二波が来る可能性がある。

「セバス、上流へ行くわ。……崩落箇所にフトン籠(金網に石を詰めたもの)を沈めて、水の流れを変えるのよ」

「御意!」

 夜明け頃。
 救助活動は一段落した。
 村人たちは全員避難し、温かいスープを啜っている。

 泥のように疲れて座り込む囚人たちの元へ、村の長老がやってきた。

「あ、ありがとうございました……! 皆様のおかげで、村は全滅を免れました。……なんと御礼を言えばいいか」

 長老は、泥だらけのジェラルドの手を握りしめ、涙ながらに感謝した。

「……礼などいらん」

 ジェラルドは照れくさそうに顔を背けた。

「俺たちは……、ただの囚人だ。命令されてやっただけだ」

「いいえ! 貴方様は、私たちの命の恩人です。……その勇敢な背中、まるで物語の英雄のようでした」

「え、英雄……?」

 ジェラルドが呆気にとられる。
 王太子時代、彼は「素晴らしい」「偉大だ」と散々おだてられてきた。
 だが、それは彼の地位に対する賛辞であり、彼自身への言葉ではなかった。

 今、身分を剥奪され、泥にまみれたに向けられた、混じりっ気のない感謝。
 それが、彼の胸の奥にある空虚な穴を埋めていく。

「……悪くない気分だ」

 ジェラルドは自分の手のひらを見つめた。
 マメだらけで、傷だらけの手。
 だが、その手は今、確かに誰かの命を救ったのだ。

「皆様」

 私は彼らの前に立った。

「お疲れ様でした。……今の貴方たちは、どんな着飾った貴族よりも高貴に見えますわ」

 ガモン侯爵が、ふんと鼻を鳴らしながらも、少し誇らしげに胸を張った。

「勘違いするな。……俺は、泥遊びが上手くなっただけだ」

「ふふ、そうですね。……では、ご褒美に今日の朝食は焼きたての白パンとベーコンエッグにしましょうか」

「おおっ! 本当か!?」

「マリアンヌ様万歳!」

 歓声が上がる。
 それは、欲望による叫びではなく、過酷な任務を成し遂げた仲間たちの、明るい笑い声だった。

 ノブレス・オブリージュ。
 その言葉の本当の意味を、彼らは教科書ではなく、泥の中で学んだのだ。
 アースガルドの再建は、こうした人の再生と共に進んでいく。

「さて、セバス。……彼らが一人前になったところで、そろそろ卒業試験を用意しましょうか」

「卒業、ですか?」

「ええ。……王都に置いてきたコンラッド陛下から、SOSが届いているのよ」

 国作りは最終局面へ。
 再生した人材を、再び中央へ送り込む時が近づいていた。
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