婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第83話:生け贄の羊と、沈黙する石

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 冬の寒さが緩み始めた頃。
 アースガルド領の労働者用食堂は、一触即発の空気に包まれていた。

「……おい、ジェラルド! 貴様のせいだぞ!」

 テーブルを叩いたのは、元・侯爵のガモンだ。
 彼は配給されたシチューのスプーンを握りしめ、同じテーブルで食事をしていたジェラルドに喰ってかかった。

「貴様がもっとしっかりしていれば、我々はこんな泥まみれの生活をせずに済んだのだ! 王族としての責任を取れ! 俺の分のパンも寄越せ!」

「そうだ! 全部ジェラルドが悪い!」

「我々は被害者だ! こいつ一人を差し出せば、マリアンヌ様も許してくれるはずだ!」

 バリウス元判事や他の元貴族たちも同調し、ジェラルドを吊るし上げ始めた。
 自分たちの不幸の原因を、すべて一人の人間に押し付ける。
 典型的なスケープゴートの心理だ。

 一方、隣のテーブルでは、ガリア帝国の捕虜たちが冷ややかな視線を送っている。

「はんっ。負け犬同士で内輪揉めか。見苦しいな」

 ボルグ将軍が鼻で笑うと、ガモンが顔を真っ赤にして振り返った。

「なんだと!? 野蛮な侵略者が! 貴様らが攻めてこなければ、我々の労働ノルマも増えなかったんだ!」

「ああん? 俺たちを助けたのはあの女領主だ。テメェら軟弱な貴族に文句を言われる筋合いはねぇ!」

 椅子が倒れ、元貴族グループと帝国軍人グループが掴み合いの喧嘩を始めた。
 ジェラルドは、無言でその罵倒を浴び続けている。

「……見苦しいですな」

 食堂の二階、監視室からその様子を見下ろしながら、セバスチャンが眉をひそめた。

「共通の敵がいなくなった途端、今度は内部で敵を探し始めました。……人間の性とはいえ、生産性が下がります」

「ええ。集団はストレスが溜まると、誰か一人を悪者に仕立て上げて、自分たちの正当性を保とうとする。……スケープゴートのメカニズムね」

 私はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。

「行きましょう。……彼らに、責任転嫁をしても腹は膨れないことを教えてあげないと」

「――お静かに」

 私が食堂に入ると、喧騒はピタリと止んだ。
 アースガルドの絶対支配者(雇用主)の登場に、全員が直立不動になる。

「元気があってよろしいですわね。……ですが、エネルギーの使い方が間違っています」

 私はガモン元侯爵の前に立った。

「ガモンさん。ジェラルドさんを責めれば、貴方の掘るべき土の量が減るのですか?」

「そ、それは……! ですが、こいつが元凶なのは事実です! こいつさえいなければ!」

「そしてボルグ将軍。貴方たちも、貴族を罵れば故郷に帰れるのですか?」

「……フン」

 将軍はバツが悪そうに顔を背けた。

「貴方たちは今、不安と不満を解消するために生け贄を探しているだけです。……ですが、アースガルド領において、罪を償う方法は一つしかありません」

 私は食堂の窓を開け放ち、外の作業場を指差した。
 そこには、大雨で崩落しかけた崖と、道を塞ぐ巨大な岩があった。

「あそこを見てください。……昨夜の雨で、鉱山への道が塞がれました。あの巨岩をどかさない限り、今日のトロッコは動きません」

 私は全員を見渡した。

「あの岩を動かせたグループには、今夜の夕食に極上のリブロースステーキと貴腐ワインを振る舞いましょう。……動かせなかったグループは、明日まで岩の前で反省会です」

「ス、ステーキだと!?」

「ワイン付きか!」

 色めき立つ男たち。
 久しく嗅いでいないご馳走の匂いに、彼らの目の色が変わった。

「よし! 俺たち貴族の底力を見せてやる! ジェラルド、お前は邪魔だ! 隅っこで見てろ!」

 ガモンたちはジェラルドを突き飛ばし、意気揚々と外へ飛び出した。
 帝国軍人たちも、「力仕事なら俺たちの専門だ!」と鼻息荒く後に続く。

 現場にて。
 ガモンたち元貴族グループが、巨岩に取り付いた。

「せーの! ふんぬぅぅぅ!」

 ……岩はピクリとも動かない。
 彼らは普段ペンしか持っていなかった人間だ。
 数人がかりで押したところで、数トンの岩が動くはずもない。

「くそっ、重すぎる! ……おいジェラルド! 手伝え! お前の責任だぞ!」

 結局、彼らはすぐにジェラルドに頼ろうとした。
 しかし、ジェラルドは無言で腕組みをして見ているだけだ。

「どけ! ヒョロガリども!」

 次はボルグ将軍率いる帝国軍人たちだ。
 彼らは流石に力持ちだが、岩の形状が悪く、手が滑って力が伝わらない。

「ぬおおお! ……だめだ、地面が泥濘るんでて足が滑る!」

 力自慢たちも、物理法則の前には無力だった。
 夕暮れが迫る。
 ステーキが遠のいていく。

 焦り始めた両グループが、また互いに罵り合いを始めようとした時。

「……てこの原理だ」

 静かな声が響いた。
 ジェラルドだ。
 彼は一人で、長い鉄の棒と、支点となる石を持ってきた。

「ガモン、お前たちは向こう側からロープで引け。ボルグ、あんたたちはこっち側から棒で持ち上げろ。……俺が合図を出す」

「な、なんだと? 敗軍の将が指図するな!」

 ボルグが噛み付くが、ジェラルドは鋭い眼光で彼を射抜いた。

「肉が食いたいなら従え! ……敵だの味方だの、責任だの言ってる場合か! この岩は、誰の言い訳も聞いてくれないぞ!」

 その迫力に、全員が押し黙った。

 かつては無能な王子だった男が、泥と汗の中で身につけた現場のリーダーシップ。
 それが今、発揮されていた。

「……チッ。分かったよ。一度だけだ」

 ボルグが棒を握る。
 ガモンたちも渋々ロープを持つ。

「いくぞ! せーの……、はいッ!!」

 ジェラルドの掛け声に合わせて、全員が同時に力を込めた。
 物理学(てこ)と、組織論(ベクトルの一致)。
 異なる力が一つにまとまった瞬間――

 巨大な岩が、重々しい音を立てて転がり、道が開けた。

「……動いた!」

「やった! やったぞぉぉぉ!」

 ガモンとボルグが、思わずハイタッチをしかけて、ハッとして手を止める。
 だが、その顔には、先ほどまでの険悪な空気はなく、達成感の笑みが浮かんでいた。

「……悪くねぇ指揮だったぜ、元・王子様」

 ボルグがジェラルドの肩を叩く。
 ガモンも、バツが悪そうにしながらも、ジェラルドに頭を下げた。

「……すまなかった。お前一人に押し付けて。……肉のためだ、感謝してやる」

「ふん。礼ならマリアンヌに言え」

 ジェラルドは照れくさそうに鼻をこすった。

 その夜の食堂は、ステーキの焼ける匂いと、陽気な笑い声に包まれていた。
 元貴族と帝国軍人が入り混じって座り、ワインを酌み交わしている。

「お嬢様。……これでノーサイドですな」

 セバスチャンが満足げに頷く。

「ええ。スケープゴートなんて必要ないの。必要なのは、共通の課題(岩)と、それを解決するための協力(てこ)だけ」

 私はジェラルドを見た。
 彼はもう、誰かのせいにしたり、誰かに責任を押し付けたりしない。
 自ら泥を被り、先頭に立つ強さを手に入れた。

「……いい顔になったわね」

 私は小さく呟き、彼らの更生プログラムが最終段階に入ったことを確信した。
 これで、アースガルドの人材は盤石だ。

 さあ、国内は固まった。
 いよいよ、外の世界――まだ見ぬ海の向こうへ目を向ける時が来たようだ。
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