婚約破棄と追放ですか? 辺境が王都すら越える経済圏になってしまいますが、よろしいのですね?

水上

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第82話:泥の騎士団と、凍てつくプライド

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「う、動かん! 足が抜けない! 誰か手を貸してくれ!」

「寒い……! 泥が凍り始めて、足が締め付けられる!」

 アースガルド領の北、かつて氷結平原だった泥の海。
 そこには、大陸最強と謳われたガリア帝国の魔導戦車隊と、誇り高き重装歩兵たちが、首まで泥に浸かって情けなく助けを求めていた。

「……壮観な眺めですな」

 安全な岩場の上で、セバスチャンがポットから温かい紅茶を注ぐ。
 外気はマイナス20度。
 彼らが放出した熱で溶けた永久凍土は、熱源(戦車の魔導炉)が泥で停止した今、再び急速に冷やされ、シャーベット状に固まり始めていた。

「ええ。物理現象の実験場としては最高ね」

 私は湯気の立つカップを手に、泥沼の真ん中で震えているボルグ将軍に声をかけた。

「ごきげんよう、将軍閣下。……チキソトロピー現象の逆、つまり再凍結による凝固の具合はいかがですか?」

「き、貴様ぁ……! 女狐め! 卑怯だぞ! 正々堂々と戦え!」

 ボルグ将軍が吠えるが、その声はガチガチと震えている。

「卑怯? 私は『熱を使うな』と警告しましたよ。……自ら床暖房を入れて、自分で床を抜いたのは貴方たちです」

 私は冷徹に告げた。

「あと一時間もすれば、その泥は完全に凍りつき、貴方たちは氷の中の化石になります。……降伏しますか? それとも、未来の地質学者のための標本になりますか?」

「ぐ、ぐぬぬ……!」

 将軍はプライドと命の天秤に揺れたが、部下たちの「助けてくれ!」「死にたくない!」という悲鳴に、ついに頭を垂れた。

「……分かった。降伏する。……だから、部下たちを助けてやってくれ」

「賢明な判断です。……セバス、救助隊を!」

「オーイ! ロープを投げるぞ! しっかり掴まれ!」

「腰に力を入れるな! 泥に身を任せて、引っ張り上げられるのを待て!」

 救助活動の指揮を執っていたのは、意外な人物だった。

 ジェラルドだ。
 彼は鉱山で鍛えた筋肉を活かし、泥だらけになりながら、かつての敵兵たちを次々と引き上げていく。

「……ふん。重い鎧だ。こんな鉄屑を着て歩くなんて、ご苦労なことだな」

 引き上げられたボルグ将軍に、ジェラルドが毛布を投げ渡す。

「き、貴公は……? ただの作業員には見えないが」

「俺か? 俺はジェラルド。……ここの炭鉱夫だ」

 ジェラルドはニカッと笑った。

「あんたらの気持ちはよく分かるぜ。俺も昔、似たようなマヌケな失敗をして、ここ(底辺)に落ちてきた口だからな」

「……?」

 ボルグ将軍は狐につままれたような顔をしていたが、温かい毛布と、差し出されたジャガイモのポタージュの温もりに、涙を流して感謝した。

 捕虜となった三千人の兵士たちは、武装解除され、アースガルド領の収容施設(急造したテント村)に入れられた。
 暖房には、我らが誇る泥炭が惜しげもなく使われている。

「……マリアンヌ殿。一つ聞きたい」

 尋問の席で、スープを飲み干したボルグ将軍が、沈痛な面持ちで口を開いた。

「なぜ、我々を殺さなかった? 食料も燃料も貴重なこの冬に、三千人の捕虜を抱えるなど、兵站の自殺行為だぞ」

「あら、勘違いしないでください」

 私は書類にサインしながら答えた。

「タダ飯を食わせるつもりはありません。……貴方たちには、食べた分だけ働いていただきます」

「働く……?」

「ええ。アースガルド領は慢性的な人手不足です。鉱山、土木、運搬……、力仕事は山ほどある。貴方たちのような屈強な男たちは、最高の労働資源です」

 私は窓の外、雪かきをさせられている帝国兵たちを見た。
 彼らは文句も言わず、黙々と働いている。
 温かい食事と寝床が保証されているからだ。

「それに……、ガリア帝国が侵攻してきた理由。それは食料不足でしょう?」

 私が指摘すると、将軍は押し黙り、そして小さく頷いた。

「……そうだ。火山の冬の影響で、我が国の作物は全滅した。民が飢え、暴動が起きかけている。……皇帝陛下は、豊かなアースガルドを奪って食料を確保しろと命じられたのだ」

「奪う必要なんてありませんでしたのに」

 私は一枚の契約書を差し出した。

「我が領には、腐るほどのジャガイモと、燃やしきれないほどの泥炭があります。……これらをガリア帝国へ輸出しましょう」

「なっ……!? 敵国にか!?」

「商売相手に敵も味方もありません。……その代わり、代金は鉱物資源と魔導技術で支払っていただきます。貴国の魔導戦車のエンジン、あれはなかなか興味深い構造でしたから」

 ボルグ将軍は、信じられないものを見る目で私を見た。
 侵略者を撃退し、労働力として使い、さらにその国を顧客に変える。
 この女は、戦争すらもビジネスに変えてしまうのか、と。

「……完敗だ。武力でも、知力でも、そして器の大きさでも」

 将軍は深々と頭を下げた。

「マリアンヌ殿。……我が軍は、貴女のシャベルとスープに敗北した」

 その日から、アースガルド領の風景に、新たな色が加わった。
 元・貴族の囚人服と、ガリア帝国の軍服。
 彼らが混じり合って、雪かきをし、岩を運び、道路を直している。

「おい新入り! 腰が高いぞ!」

 ジェラルドが、ボルグ将軍にツルハシの使い方を指導している。

「将軍だか何だか知らねぇが、ここでは俺が先輩だ! ……いいか、石の目を見ろ。力任せじゃ割れねぇぞ」

「は、はいッ!」

 かつての王太子と、敵国の将軍。
 身分も国境も超えて、彼らは労働という共通言語で汗を流している。

「……平和ですな」

 セバスチャンが目を細める。

「ええ。人は、共通の敵(寒さと空腹)と戦っている時が、一番仲良くなれるものよ」

 私は雪原を見渡した。
 地面の下には泥の罠があったが、その上には今、確かな道ができつつある。

 私の国作りは、外敵すらも飲み込んで、さらに強固なものへと進化していた。
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