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第97話:老執事の回顧録と、白き紙の図書館
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私の名はセバスチャン。
アースガルド辺境伯家に仕える、しがない執事でございます。
……いえ、今は王立アースガルド・アカデミー付属図書館長という、分不相応な肩書きを頂いておりますが。
窓の外からは、生徒たちの賑やかな声が聞こえてきます。
かつて死の荒野と呼ばれ、風の音しか聞こえなかったこの場所が、今や知識の殿堂となっている。
淹れたての紅茶(もちろん、お嬢様が水質にこだわった軟水で淹れたもの)の香りを楽しみながら、私はペンを執りました。
この目の前に積まれた、真っ白なアース・ペーパーに、あの嵐のような日々の記録を残すために。
思い返せば、あの日。
王都の華やかなパーティー会場で、ジェラルド殿下(当時はただの愚かな王子でしたが)から婚約破棄を言い渡された時。
私は正直、「終わった」と思いました。
泥だらけの辺境へ追放。
お嬢様の人生も、私のアースガルド家への奉公も、そこで幕を閉じるのだと。
絶望で目の前が真っ暗になりました。
ですが、お嬢様は違いました。
『ありがとうございます!』と満面の笑みで叫び、ドレスの裾を翻して荒野へ爆走し始めたのです。
……あの方の目には、私たち凡人には見えない世界地図が見えていたのでしょう。
到着した日のことを、今でも鮮明に覚えています。
廃墟のような屋敷。
赤茶けた不気味な沼。
私が「地獄だ」と嘆いたその場所で、お嬢様は「宝の山だ」と笑い、ドレスのまま泥の中に手を突っ込みました。
『これは鉄バクテリアよ、セバス!』
あの時の衝撃といったら。
……お嬢様の頭がおかしくなったのかと、本気で心配したものです。
それからの日々は、まさに天変地異の連続でした。
泥をこねて鉄を作り、石を砕いて宝石を見つけ、カビたパンから毒を抜き、腐ったブドウを美酒に変える。
お嬢様の手にかかれば、ゴミは資源に、災いは幸運に、敵は味方に変わってしまう。
まるで、触れるものすべてを黄金に変える王のよう……、いえ、お嬢様の場合は黄金よりも価値ある泥に変えるのでしたが。
私の仕事も、執事の枠を大きく逸脱しました。
ある時はふいごで火を吹き、ある時は顕微鏡を覗き、またある時は詐欺師の靴底の泥を採取する。
「セバス、スコップを!」という言葉を、一体何度聞いたことでしょう。
私の燕尾服は、紅茶のシミよりも、泥と煤と薬品のシミで汚れることの方が多かった。
ですが……、不思議なことに。
「辛い」と思ったことは一度もありませんでした。
いえ、正確には、退屈する暇がなかったと言うべきでしょうか。
お嬢様が見せてくれる世界は、いつも驚きと発見に満ちていました。
ただの石ころが、数億年の歴史を語り出す。
ただの雑草が、虫を撃退する騎士になる。
知ることの喜び。学ぶことの楽しさ。
それを、還暦を過ぎたこの身に教えてくださったのは、あのお転婆な主でした。
「……館長。セバスチャン館長」
ふと、声をかけられて我に返りました。
目の前には、若い司書の女性が立っています。
かつてモルトン伯爵の屋敷から内部告発をし、今はここで働いているアンナさんです。
「お茶が冷めてしまいますよ。……また、昔を思い出していらしたのですか?」
「ああ……、申し訳ない。……年寄りの冷や水、ならぬ、年寄りの回顧録ですよ」
私は書きかけの原稿を閉じました。
この図書館には、お嬢様が発明した活版印刷機で刷られた、数万冊の本が収められています。
農業、地質学、化学、医学……。
かつては王族や聖職者しか知らなかった知識が、ここでは誰でも手に取ることができる。
お嬢様が一番作りたかった宝物は、ダイヤモンドでも黄金でもなく、この知の共有だったのかもしれません。
「……そういえば、館長。先ほど、お嬢様……、いえ、奥様がいらっしゃいましたよ」
「おや、マリアンヌ様が? 何か探し物でも?」
「はい。『最近、裏山で見たことのない地層のズレを見つけたの。古い文献と照らし合わせたい』と仰って、ハンマー片手に書庫の奥へ……」
「……やれやれ」
私は苦笑して立ち上がりました。
結婚して母となっても、あの方の好奇心は衰えるどころか、マントルのように熱く煮えたぎっているようです。
クラウス大公殿下も、そんな妻を止めるどころか、「私も行こう」と嬉々としてついて行かれたことでしょう。
本当に似たもの夫婦です。
私は窓を開け、アースガルドの風を吸い込みました。
かつては寂しい風音しかしなかったこの地に、今は子供たちの笑い声と、工場の蒸気の音、そしてページをめくる音が響いています。
私は執事としての第一線を退き、今は本の番人となりました。
ですが、私の忠誠心は変わりません。
あの方が掘り起こした知識という種が、枯れることなく次の世代へ受け継がれるよう、この場所を守り続けること。
それが、私なりの地層作りなのです。
「……さて。お嬢様が本を泥だらけにする前に、おしぼりを持って行かねば」
私はワゴンを押しました。
そこには、最高の茶葉と、真っ白な磁器のカップ。
私の人生は、泥だらけで、騒がしくて、そして最高に豊かなものでした。
ありがとうございます、お嬢様。
貴女の執事でいられたことは、私にとって何よりの宝物でございます。
アースガルド辺境伯家に仕える、しがない執事でございます。
……いえ、今は王立アースガルド・アカデミー付属図書館長という、分不相応な肩書きを頂いておりますが。
窓の外からは、生徒たちの賑やかな声が聞こえてきます。
かつて死の荒野と呼ばれ、風の音しか聞こえなかったこの場所が、今や知識の殿堂となっている。
淹れたての紅茶(もちろん、お嬢様が水質にこだわった軟水で淹れたもの)の香りを楽しみながら、私はペンを執りました。
この目の前に積まれた、真っ白なアース・ペーパーに、あの嵐のような日々の記録を残すために。
思い返せば、あの日。
王都の華やかなパーティー会場で、ジェラルド殿下(当時はただの愚かな王子でしたが)から婚約破棄を言い渡された時。
私は正直、「終わった」と思いました。
泥だらけの辺境へ追放。
お嬢様の人生も、私のアースガルド家への奉公も、そこで幕を閉じるのだと。
絶望で目の前が真っ暗になりました。
ですが、お嬢様は違いました。
『ありがとうございます!』と満面の笑みで叫び、ドレスの裾を翻して荒野へ爆走し始めたのです。
……あの方の目には、私たち凡人には見えない世界地図が見えていたのでしょう。
到着した日のことを、今でも鮮明に覚えています。
廃墟のような屋敷。
赤茶けた不気味な沼。
私が「地獄だ」と嘆いたその場所で、お嬢様は「宝の山だ」と笑い、ドレスのまま泥の中に手を突っ込みました。
『これは鉄バクテリアよ、セバス!』
あの時の衝撃といったら。
……お嬢様の頭がおかしくなったのかと、本気で心配したものです。
それからの日々は、まさに天変地異の連続でした。
泥をこねて鉄を作り、石を砕いて宝石を見つけ、カビたパンから毒を抜き、腐ったブドウを美酒に変える。
お嬢様の手にかかれば、ゴミは資源に、災いは幸運に、敵は味方に変わってしまう。
まるで、触れるものすべてを黄金に変える王のよう……、いえ、お嬢様の場合は黄金よりも価値ある泥に変えるのでしたが。
私の仕事も、執事の枠を大きく逸脱しました。
ある時はふいごで火を吹き、ある時は顕微鏡を覗き、またある時は詐欺師の靴底の泥を採取する。
「セバス、スコップを!」という言葉を、一体何度聞いたことでしょう。
私の燕尾服は、紅茶のシミよりも、泥と煤と薬品のシミで汚れることの方が多かった。
ですが……、不思議なことに。
「辛い」と思ったことは一度もありませんでした。
いえ、正確には、退屈する暇がなかったと言うべきでしょうか。
お嬢様が見せてくれる世界は、いつも驚きと発見に満ちていました。
ただの石ころが、数億年の歴史を語り出す。
ただの雑草が、虫を撃退する騎士になる。
知ることの喜び。学ぶことの楽しさ。
それを、還暦を過ぎたこの身に教えてくださったのは、あのお転婆な主でした。
「……館長。セバスチャン館長」
ふと、声をかけられて我に返りました。
目の前には、若い司書の女性が立っています。
かつてモルトン伯爵の屋敷から内部告発をし、今はここで働いているアンナさんです。
「お茶が冷めてしまいますよ。……また、昔を思い出していらしたのですか?」
「ああ……、申し訳ない。……年寄りの冷や水、ならぬ、年寄りの回顧録ですよ」
私は書きかけの原稿を閉じました。
この図書館には、お嬢様が発明した活版印刷機で刷られた、数万冊の本が収められています。
農業、地質学、化学、医学……。
かつては王族や聖職者しか知らなかった知識が、ここでは誰でも手に取ることができる。
お嬢様が一番作りたかった宝物は、ダイヤモンドでも黄金でもなく、この知の共有だったのかもしれません。
「……そういえば、館長。先ほど、お嬢様……、いえ、奥様がいらっしゃいましたよ」
「おや、マリアンヌ様が? 何か探し物でも?」
「はい。『最近、裏山で見たことのない地層のズレを見つけたの。古い文献と照らし合わせたい』と仰って、ハンマー片手に書庫の奥へ……」
「……やれやれ」
私は苦笑して立ち上がりました。
結婚して母となっても、あの方の好奇心は衰えるどころか、マントルのように熱く煮えたぎっているようです。
クラウス大公殿下も、そんな妻を止めるどころか、「私も行こう」と嬉々としてついて行かれたことでしょう。
本当に似たもの夫婦です。
私は窓を開け、アースガルドの風を吸い込みました。
かつては寂しい風音しかしなかったこの地に、今は子供たちの笑い声と、工場の蒸気の音、そしてページをめくる音が響いています。
私は執事としての第一線を退き、今は本の番人となりました。
ですが、私の忠誠心は変わりません。
あの方が掘り起こした知識という種が、枯れることなく次の世代へ受け継がれるよう、この場所を守り続けること。
それが、私なりの地層作りなのです。
「……さて。お嬢様が本を泥だらけにする前に、おしぼりを持って行かねば」
私はワゴンを押しました。
そこには、最高の茶葉と、真っ白な磁器のカップ。
私の人生は、泥だらけで、騒がしくて、そして最高に豊かなものでした。
ありがとうございます、お嬢様。
貴女の執事でいられたことは、私にとって何よりの宝物でございます。
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