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第10話:定義された関係
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イザベラの気絶偽装を暴き、迎賓館を後にした帰りの馬車。
車内は、行きとは違って穏やかな空気に包まれていた。
「……それにしても、素晴らしい瞬発力だったな」
アルヴィスが手帳に何かを書き込みながら呟いた。
「意識回復から逃走までのタイムは0.5秒。火事場の馬鹿力と言うが、あのアドレナリンの分泌量は研究に値する。彼女は令嬢よりも、短距離走のアスリートを目指すべきだ」
「ふふ、そうですね。あんなに元気なイザベラ様、初めて見ました」
リリアは思わず笑ってしまった。
かつては恐怖の対象でしかなかった悪役令嬢が、今ではただの観察対象にしか見えない。
それは全て、隣に座るこの人が、恐怖を論理で解体してくれたおかげだ。
(でも……)
リリアの笑顔がふと曇る。
イザベラを撃退したとはいえ、根本的な問題は解決していない。
リリアは依然として婚約破棄された傷物であり、実家からは勘当同然。
今はアルヴィスの好意で置いてもらっているが、いつか検体としての価値がなくなれば、放り出されるかもしれない。
社会的な立場は、あまりに不安定だ。
「……リリア。脈拍が乱れているぞ」
不意に、アルヴィスの視線が刺さる。
彼は本を閉じ、真剣な眼差しを向けてきた。
「勝負には勝ったが、何が不満だ? 脳内シミュレーションに誤差でもあったか?」
「い、いえ。不満なんて……、ただ、これからのことを考えてしまって」
リリアは膝の上で手を握りしめた。
「イザベラ様がああなってしまった以上、王家や私の実家が黙っていないかもしれません。アルヴィス様にこれ以上ご迷惑をかけるわけには……」
「迷惑? その定義は間違っている」
アルヴィスは即座に否定した。
「君が来てから、私の生活水準は劇的に向上した。食事は美味い、部屋は片付いている、何より君がいると私の精神衛生が保たれる。君を失うことこそが、私にとって最大の迷惑(リスク)だ」
「アルヴィス様……」
「だが、君の懸念も論理的に正しい。今の君は、法的にはただの居候だ。外部からの干渉――例えば実家からの連れ戻しや、王家からの圧力に対して、防御力が低すぎる」
アルヴィスは少しの間、沈黙した。
眼鏡の奥の瞳が、高速で思考を巡らせているのがわかる。
やがて、彼は一つの結論を導き出したように、深く頷いた。
「……よし。契約内容を更新しよう」
「契約、ですか?」
「ああ。君を恒久的にこの屋敷に留め置き、外部の干渉を遮断するための、最も強固な法的バリアを構築する」
アルヴィスは居住まいを正すと、リリアの目を見据えて宣言した。
「リリア・アシュベリー。私と結婚を前提とした婚約を結んでくれ」
「――はい?」
あまりに唐突で、事務的な提案。
リリアの思考が停止した。
「け、結婚……!? わ、私と、ですか!?」
「そうだ。辺境伯である私の正式な婚約者となれば、君の実家も手出しできない。王家であっても、正当な理由なく私の所有権を侵害することは国際法上も困難になる」
彼は淡々とメリットを並べ立てる。
「それに、君が私の妻になれば、私は君という優秀な生命維持管理責任者兼オキシトシン供給源を独占できる。君にとっても、生活の安定と安全が保障される。これは双方にとって利益が最大化される、極めて合理的なナッシュ均衡(最適解)だ」
色気もへったくれもない、利益と効率だけのプロポーズ。
けれど、リリアにはわかっていた。
彼が不器用に視線を泳がせていることも、耳が赤くなっていることも。
そして何より、君を守りたいという単純な感情を、必死に理屈で武装して伝えてくれていることも。
じわり、と視界が滲む。
「……ずるいです、アルヴィス様」
「む? 計算ミスがあったか?」
「いいえ。……嬉しいです。私なんかで、本当にいいのですか?」
「君でいいのではない。君が必要十分条件なんだ」
アルヴィスはリリアの手を取り、その甲にぎこちなく口付けた。
「君という不確定要素が、私の世界には必要なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
王宮で流した悲しい涙とは違う。
温かくて、胸がいっぱいになる涙。
「う、ううっ……、はい……! 謹んで、お受けいたします……!」
ボロボロと泣きじゃくるリリアを見て、アルヴィスは慌ててハンカチを取り出した。
「お、おい、泣くな。水分と塩分の損失だぞ。君の涙は……、その、オキシトシンの無駄遣いだ」
「ふふ……、はい……」
二人は揺れる馬車の中で、契約成立の握手――ではなく、温かな抱擁を交わした。
その時、一羽の伝書鳩が窓から飛び込んできた。
アルヴィスが眉をひそめて脚につけられた手紙を開く。
『――王命により、アルヴィス・グレンデル辺境伯およびリリア・アシュベリー嬢は、直ちに王都へ帰還せよ。王立学園にて発生している不穏な事態の収拾を命じる』
手紙を読み終えたアルヴィスは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「やれやれ。どうやら、次の実験場が用意されたようだぞ、リリア」
「……はい、アルヴィス様。どこへでもお供します」
リリアは涙を拭い、力強く頷いた。
もう、あの弱虫な令嬢はいない。
ここからは、アルヴィスのパートナーとして、彼女自身の戦いが始まるのだった。
車内は、行きとは違って穏やかな空気に包まれていた。
「……それにしても、素晴らしい瞬発力だったな」
アルヴィスが手帳に何かを書き込みながら呟いた。
「意識回復から逃走までのタイムは0.5秒。火事場の馬鹿力と言うが、あのアドレナリンの分泌量は研究に値する。彼女は令嬢よりも、短距離走のアスリートを目指すべきだ」
「ふふ、そうですね。あんなに元気なイザベラ様、初めて見ました」
リリアは思わず笑ってしまった。
かつては恐怖の対象でしかなかった悪役令嬢が、今ではただの観察対象にしか見えない。
それは全て、隣に座るこの人が、恐怖を論理で解体してくれたおかげだ。
(でも……)
リリアの笑顔がふと曇る。
イザベラを撃退したとはいえ、根本的な問題は解決していない。
リリアは依然として婚約破棄された傷物であり、実家からは勘当同然。
今はアルヴィスの好意で置いてもらっているが、いつか検体としての価値がなくなれば、放り出されるかもしれない。
社会的な立場は、あまりに不安定だ。
「……リリア。脈拍が乱れているぞ」
不意に、アルヴィスの視線が刺さる。
彼は本を閉じ、真剣な眼差しを向けてきた。
「勝負には勝ったが、何が不満だ? 脳内シミュレーションに誤差でもあったか?」
「い、いえ。不満なんて……、ただ、これからのことを考えてしまって」
リリアは膝の上で手を握りしめた。
「イザベラ様がああなってしまった以上、王家や私の実家が黙っていないかもしれません。アルヴィス様にこれ以上ご迷惑をかけるわけには……」
「迷惑? その定義は間違っている」
アルヴィスは即座に否定した。
「君が来てから、私の生活水準は劇的に向上した。食事は美味い、部屋は片付いている、何より君がいると私の精神衛生が保たれる。君を失うことこそが、私にとって最大の迷惑(リスク)だ」
「アルヴィス様……」
「だが、君の懸念も論理的に正しい。今の君は、法的にはただの居候だ。外部からの干渉――例えば実家からの連れ戻しや、王家からの圧力に対して、防御力が低すぎる」
アルヴィスは少しの間、沈黙した。
眼鏡の奥の瞳が、高速で思考を巡らせているのがわかる。
やがて、彼は一つの結論を導き出したように、深く頷いた。
「……よし。契約内容を更新しよう」
「契約、ですか?」
「ああ。君を恒久的にこの屋敷に留め置き、外部の干渉を遮断するための、最も強固な法的バリアを構築する」
アルヴィスは居住まいを正すと、リリアの目を見据えて宣言した。
「リリア・アシュベリー。私と結婚を前提とした婚約を結んでくれ」
「――はい?」
あまりに唐突で、事務的な提案。
リリアの思考が停止した。
「け、結婚……!? わ、私と、ですか!?」
「そうだ。辺境伯である私の正式な婚約者となれば、君の実家も手出しできない。王家であっても、正当な理由なく私の所有権を侵害することは国際法上も困難になる」
彼は淡々とメリットを並べ立てる。
「それに、君が私の妻になれば、私は君という優秀な生命維持管理責任者兼オキシトシン供給源を独占できる。君にとっても、生活の安定と安全が保障される。これは双方にとって利益が最大化される、極めて合理的なナッシュ均衡(最適解)だ」
色気もへったくれもない、利益と効率だけのプロポーズ。
けれど、リリアにはわかっていた。
彼が不器用に視線を泳がせていることも、耳が赤くなっていることも。
そして何より、君を守りたいという単純な感情を、必死に理屈で武装して伝えてくれていることも。
じわり、と視界が滲む。
「……ずるいです、アルヴィス様」
「む? 計算ミスがあったか?」
「いいえ。……嬉しいです。私なんかで、本当にいいのですか?」
「君でいいのではない。君が必要十分条件なんだ」
アルヴィスはリリアの手を取り、その甲にぎこちなく口付けた。
「君という不確定要素が、私の世界には必要なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
王宮で流した悲しい涙とは違う。
温かくて、胸がいっぱいになる涙。
「う、ううっ……、はい……! 謹んで、お受けいたします……!」
ボロボロと泣きじゃくるリリアを見て、アルヴィスは慌ててハンカチを取り出した。
「お、おい、泣くな。水分と塩分の損失だぞ。君の涙は……、その、オキシトシンの無駄遣いだ」
「ふふ……、はい……」
二人は揺れる馬車の中で、契約成立の握手――ではなく、温かな抱擁を交わした。
その時、一羽の伝書鳩が窓から飛び込んできた。
アルヴィスが眉をひそめて脚につけられた手紙を開く。
『――王命により、アルヴィス・グレンデル辺境伯およびリリア・アシュベリー嬢は、直ちに王都へ帰還せよ。王立学園にて発生している不穏な事態の収拾を命じる』
手紙を読み終えたアルヴィスは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「やれやれ。どうやら、次の実験場が用意されたようだぞ、リリア」
「……はい、アルヴィス様。どこへでもお供します」
リリアは涙を拭い、力強く頷いた。
もう、あの弱虫な令嬢はいない。
ここからは、アルヴィスのパートナーとして、彼女自身の戦いが始まるのだった。
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