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第31話:逃げた悪役令嬢と正常性バイアス
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王都から北へ馬車で三日。
ローズ伯爵領は、どんよりとした曇り空の下にあった。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、イザベラ・ローズは窓の外を睨みつけていた。
王都を追放され、身一つで逃げ帰ってきた彼女にとって、ここだけが残された最後の楽園のはずだった。
「……何よ、これ」
イザベラが低く呟く。
窓の外に広がるのは、彼女の記憶にある豊かで美しい領地ではなかった。
畑はひび割れ、作物は枯れ果てている。
道端に座り込む領民たちは、泥のように汚れ、虚ろな目で馬車を見上げていた。
「汚らしい……! 領主の娘が帰ってきたというのに、歓声の一つもないなんて!」
イザベラはハンカチで鼻を覆った。
現実(荒廃)を目の当たりにしながら、彼女の脳はそれを直視することを拒否していた。
「きっと、みんな疲れているだけよ。父様が少し倹約されているのかしら。でも屋敷に着けば、暖かいお風呂と豪華な食事が待っているはずだわ」
これは正常性バイアスの一種だ。
異常事態に直面しても、まだ大丈夫、大したことないと心を麻痺させ、日常の延長として処理しようとする心理的防衛機能。
彼女は崩壊寸前の領地を見てもなお、自分はお嬢様だという幻想にしがみついていた。
*
その数日後。
イザベラの後を追うように、一台の漆黒の馬車がローズ領に入った。
王命による領地視察の名目で派遣された、アルヴィスとリリアだ。
「……酷い有様ですね」
リリアは窓の外を見て絶句した。
痩せこけた牛が枯れ草を食み、子供たちが裸足で歩いている。
王都の華やかさとは別世界だった。
「土壌が死んでいるな」
アルヴィスは馬車を止めさせ、道端の畑の土を手に取った。
パサパサと指の間から砂のように零れ落ちる。
「リービッヒの最小律を知っているか、リリア」
「いえ、初めて聞きます」
「植物の成長は、最も少ない栄養素(因子)によって制限されるという法則だ。たとえ他の条件が良くても、水や窒素が欠乏していれば、作物は育たない」
彼は土の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「この土からは窒素固定菌の気配がしない。過度な連作と、略奪的な収穫によって地力が枯渇している。……典型的な人災(ヒューマン・エラー)だ」
「人災……、ローズ伯爵の失政ということですか?」
「ああ。土地の回復力を無視して搾取し続けた結果、生態系が崩壊したんだ。だが、問題はそれだけではない」
アルヴィスは遠くの村を指差した。
そこには、異様な光景が広がっていた。
飢えた民衆が集まり、何やら熱狂的に祈りを捧げているのだ。
その中心には、イザベラの姿が描かれた旗が掲げられていた。
「……飢餓状態の人間は、パンよりも希望という名の麻薬を求める」
アルヴィスの予感は的中していた。
村の広場に近づくと、イザベラの金切り声が聞こえてきた。
「お聞きなさい、領民たちよ! この不作は天罰ではありません! 我が領地に災いをもたらす邪悪な魔女のせいなのです!」
壇上のイザベラは、王都から持ち帰った派手なドレス(今は薄汚れている)を纏い、演説をぶっていた。
「その魔女の名は、リリア・アシュベリー! 彼女が王都で私を陥れ、その呪いがこの土地まで波及しているのです! 私たちが苦しいのは、すべてあの女のせいよ!」
領民たちが「おおお……!」「憎き魔女め!」「イザベラ様万歳!」と叫ぶ。
彼らは飢えの苦しみをぶつける対象(敵)を与えられ、一種のトランス状態に陥っていた。
「……!」
リリアは血の気が引いた。
自分の名前が、飢饉の原因として叫ばれている。
「アルヴィス様、あれは……」
「予想通りだ。彼女は自分の失政(あるいは父親の失政)から目を逸らさせるために、外部に敵を作った」
アルヴィスは冷静に馬車のカーテンを閉めた。
「自分たちの不幸を他人のせいにするのは、精神衛生上最も楽な解決策だからな。……だが、許容範囲を超えている」
彼の瞳に、冷たい怒りの炎が灯った。
「科学的な土壌改良よりも、魔女狩りを優先するとは。この領地は今、暗黒時代に逆戻りしている」
「どうしましょう……。このままでは、私たちがここに来たことがバレたら……」
「襲われるだろうな。理性を失った集団は猛獣よりタチが悪い」
アルヴィスはリリアの手を強く握った。
「だが安心していい。私は猛獣使いの資格も持っている(自称だが)。……まずは、この狂ったエコシステムを正常化するための解毒剤を準備する」
ローズ領に渦巻くのは、飢餓と狂気、そしてイザベラが撒き散らすデマゴーグ。
アルヴィスとリリアは、科学と論理を武器に、この汚染された土地の浄化へと乗り出すのだった。
ローズ伯爵領は、どんよりとした曇り空の下にあった。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、イザベラ・ローズは窓の外を睨みつけていた。
王都を追放され、身一つで逃げ帰ってきた彼女にとって、ここだけが残された最後の楽園のはずだった。
「……何よ、これ」
イザベラが低く呟く。
窓の外に広がるのは、彼女の記憶にある豊かで美しい領地ではなかった。
畑はひび割れ、作物は枯れ果てている。
道端に座り込む領民たちは、泥のように汚れ、虚ろな目で馬車を見上げていた。
「汚らしい……! 領主の娘が帰ってきたというのに、歓声の一つもないなんて!」
イザベラはハンカチで鼻を覆った。
現実(荒廃)を目の当たりにしながら、彼女の脳はそれを直視することを拒否していた。
「きっと、みんな疲れているだけよ。父様が少し倹約されているのかしら。でも屋敷に着けば、暖かいお風呂と豪華な食事が待っているはずだわ」
これは正常性バイアスの一種だ。
異常事態に直面しても、まだ大丈夫、大したことないと心を麻痺させ、日常の延長として処理しようとする心理的防衛機能。
彼女は崩壊寸前の領地を見てもなお、自分はお嬢様だという幻想にしがみついていた。
*
その数日後。
イザベラの後を追うように、一台の漆黒の馬車がローズ領に入った。
王命による領地視察の名目で派遣された、アルヴィスとリリアだ。
「……酷い有様ですね」
リリアは窓の外を見て絶句した。
痩せこけた牛が枯れ草を食み、子供たちが裸足で歩いている。
王都の華やかさとは別世界だった。
「土壌が死んでいるな」
アルヴィスは馬車を止めさせ、道端の畑の土を手に取った。
パサパサと指の間から砂のように零れ落ちる。
「リービッヒの最小律を知っているか、リリア」
「いえ、初めて聞きます」
「植物の成長は、最も少ない栄養素(因子)によって制限されるという法則だ。たとえ他の条件が良くても、水や窒素が欠乏していれば、作物は育たない」
彼は土の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「この土からは窒素固定菌の気配がしない。過度な連作と、略奪的な収穫によって地力が枯渇している。……典型的な人災(ヒューマン・エラー)だ」
「人災……、ローズ伯爵の失政ということですか?」
「ああ。土地の回復力を無視して搾取し続けた結果、生態系が崩壊したんだ。だが、問題はそれだけではない」
アルヴィスは遠くの村を指差した。
そこには、異様な光景が広がっていた。
飢えた民衆が集まり、何やら熱狂的に祈りを捧げているのだ。
その中心には、イザベラの姿が描かれた旗が掲げられていた。
「……飢餓状態の人間は、パンよりも希望という名の麻薬を求める」
アルヴィスの予感は的中していた。
村の広場に近づくと、イザベラの金切り声が聞こえてきた。
「お聞きなさい、領民たちよ! この不作は天罰ではありません! 我が領地に災いをもたらす邪悪な魔女のせいなのです!」
壇上のイザベラは、王都から持ち帰った派手なドレス(今は薄汚れている)を纏い、演説をぶっていた。
「その魔女の名は、リリア・アシュベリー! 彼女が王都で私を陥れ、その呪いがこの土地まで波及しているのです! 私たちが苦しいのは、すべてあの女のせいよ!」
領民たちが「おおお……!」「憎き魔女め!」「イザベラ様万歳!」と叫ぶ。
彼らは飢えの苦しみをぶつける対象(敵)を与えられ、一種のトランス状態に陥っていた。
「……!」
リリアは血の気が引いた。
自分の名前が、飢饉の原因として叫ばれている。
「アルヴィス様、あれは……」
「予想通りだ。彼女は自分の失政(あるいは父親の失政)から目を逸らさせるために、外部に敵を作った」
アルヴィスは冷静に馬車のカーテンを閉めた。
「自分たちの不幸を他人のせいにするのは、精神衛生上最も楽な解決策だからな。……だが、許容範囲を超えている」
彼の瞳に、冷たい怒りの炎が灯った。
「科学的な土壌改良よりも、魔女狩りを優先するとは。この領地は今、暗黒時代に逆戻りしている」
「どうしましょう……。このままでは、私たちがここに来たことがバレたら……」
「襲われるだろうな。理性を失った集団は猛獣よりタチが悪い」
アルヴィスはリリアの手を強く握った。
「だが安心していい。私は猛獣使いの資格も持っている(自称だが)。……まずは、この狂ったエコシステムを正常化するための解毒剤を準備する」
ローズ領に渦巻くのは、飢餓と狂気、そしてイザベラが撒き散らすデマゴーグ。
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