妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上

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第32話:涙と塩分

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 燃えないカーテンによる防火活動が成功し、王都の誰もがクロード公爵家を称賛していた夜。
 タウンハウスの喧騒がようやく静まり返った頃、ソフィアは一人、月明かりが差し込むサンルームのソファに沈み込んでいた。

 勝利した。
 それは間違いない。

 自分を虐げてきたマリアンヌは牢獄へ入り、ベルベット商会は崩壊寸前。
 かつて自分を捨てたギルバート王子も、世論の批判を浴びて謹慎処分となったと聞く。
 すべては、アレックスの完璧な計算と、ソフィア自身の努力がもたらした結果だ。

 けれど――。

「……ふぅ」

 胸の奥に広がるのは、達成感よりも、鉛を飲み込んだような重苦しさだった。

 かつて家族だった人々を、自分の手で追い詰め、破滅させた。
 その事実が、優しいソフィアの心に小さな棘として刺さっていたのだ。
 マリアンヌが連行される際の絶叫や、ガストン伯爵の惨めな姿が脳裏から離れない。

「……私、ひどいことをしているのかしら」

 自問しても答えは出ない。
 ただ、止めどなく涙が溢れてきた。
 頬を伝う熱い雫が、着ているシルクのナイトガウンにポツリ、ポツリと染みを作っていく。

 その時、ふわりと温かい布が肩にかけられた。

 アレックスだった。
 彼が愛用しているブランケットだ。

「……アレックス様」

「探したぞ。寝室にいないと思ったら、こんなところで吸水実験か?」

 アレックスはいつものように軽口を叩きながら、ソフィアの隣に腰を下ろした。
 だが、その声色は驚くほど柔らかかった。

「……泣いているのか」

「ご、ごめんなさい。嬉しいはずなのに、なんでしょう……、変ですね」

 ソフィアは慌てて涙を拭おうとしたが、アレックスの手がそれを制した。
 彼はソフィアの濡れた頬に、そっと自分の指を添えた。

「変ではない。君は優しすぎるんだ。敵対者に対してすら、拒絶反応を起こしきれずに心を痛めてしまう」

「……彼らは、私を殺そうとしました。だから、当然の報いです。分かっています。でも……、かつては、同じ家で暮らした人たちでしたから」

 ソフィアの声が震える。
 アレックスは何も言わず、ただ静かに彼女の話を聞いていた。
 そして、彼女が落ち着くのを待ってから、ハンカチを取り出し、目元を優しく拭った。

「ソフィア。泣かないでくれ」

 彼は真剣な眼差しで、少し困ったように眉を下げた。

「涙に含まれる塩分濃度は約0.9%。……その塩分は、君が着ている繊細なシルクの組織を傷め、黄ばみの原因になってしまう」

 相変わらずの、繊維学的な理屈。
 けれど、それに続く言葉は、どんな甘い言葉よりも切実だった。

「……そして、もちろん、僕の心も痛んでしまう」

 ソフィアは目を見開いた。
 アレックスの胸元に耳を寄せると、彼の心臓がいつもより速く、強く打っているのが分かった。

 彼は痛んでいたのだ。
 ソフィアが泣いていることに、彼自身が傷ついていたのだ。

「アレックス様……」

「君を笑顔にするために、あらゆる論理を構築してきたつもりだ。富も名声も、君を守るための壁として用意した。……だが、君の涙ひとつで、私の計算はすべてエラーを起こしてしまう」

 アレックスは、ソフィアの手を自分の唇に押し当てた。

「教えてくれ、ソフィア。どうすればこのエラーを修正できる? 君の心についたシミを抜くには、どんな薬品が必要なんだ?」

 不器用で、愛おしい人。
 ソフィアは涙で潤んだ瞳で微笑み、首を横に振った。

「薬品なんていりません。……ただ、アレックス様がそばにいてくだされば、それだけで十分です」

「そんなことでいいのか? コストがかからなすぎて不安になるが」

「はい。それが一番、効き目がありますから」

 ソフィアは背伸びをして、アレックスの首に腕を回した。

 二人の距離がゼロになる。

 月明かりの下、重なる唇。

 それは、激しい情熱のキスというよりは、互いの存在を確認し合うような、深く、優しい口づけだった。

 唇が離れた時、ソフィアの涙はもう止まっていた。
 代わりに、心の中は温かい灯火で満たされていた。

「……しょっぱいな」

 アレックスが唇を舐め、小さく呟く。

「やはり、塩分濃度が高い。これでは君の肌が脱水症状を起こしてしまう。……水分補給が必要だ」

 彼はまた訳のわからない理屈をつけて、今度はもっと深く、甘いキスを落とした。
 
 戦いはまだ終わっていない。
 けれど、この夜、二人の魂は完全に混ざり合い、どんな試練にもほどけない永久の結合を果たしたのだった。
 
 窓の外では、夜明けの光が王都を青く染め始めている。

 すべての決着をつける断罪の法廷が幕を開けるまで、残り僅かとなっていた。
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