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第4話:疲労困憊の妻
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朝靄が王都の石畳を濡らす頃、オリヴィアはようやく最後の一枚のレースを仕上げた。
「……終わった」
小さな呟きとともに、震える手から銀のボビンが転がり落ちた。
机の上には、一晩中命を削って編み上げた三十枚の最高級ボビンレースが、朝日を浴びて繊細な輝きを放っている。
極細の絹糸が描く幾何学模様は、熟練の職人でさえ舌を巻くほどの精巧さだった。
背もたれに深くもたれかかったオリヴィアは、鉛のように重い瞼をゆっくりと閉じた。
肩甲骨の奥から首筋にかけて、鋭い痛みが走る。
硬くこわばった指先を擦り合わせても、感覚は鈍く麻痺したままだった。
(これで、領民のための事業資金が確保できる……)
昨夜、夫のセドリックから冷たい言葉を浴びせられ、心に重い鉛を飲まされたような感覚は残っていた。
しかし、オリヴィアはそれを無理やり飲み下した。
今回の依頼主は、隣国との貿易で莫大な富を築いた大商会の会頭夫人だ。
彼女のサロンでこのレースが披露されれば、破格の報酬が支払われる契約になっていた。
オリヴィアが徹夜で仕上げたのも、その報酬を元手に、セドリックが安請け合いしてきた領民の雇用創出事業のための材料費や、滞っている職人たちへの賃金を支払うためだった。
つまり、このレースは単なる装飾品ではなく、ウィンザー伯爵家と領民の生活を繋ぐ命綱なのだ。
重い体を引きずるようにして立ち上がり、オリヴィアは鏡の前に立った。
そこに映るのは、生気のない青白い顔をした女だった。
目の下の隈は昨夜よりもさらに濃くなり、隠しきれそうにない。
「……奥様、お疲れ様でございます。お召し替えの手伝いを……」
部屋に入ってきた古参のメイド、マーサが、オリヴィアの顔を見るなり悲痛な表情を浮かべた。
「ええ、ありがとう。すぐに出かける準備をしないと。商会の方々がお待ちだから」
「奥様、どうか少しお休みになってくださいませ。お倒れになってしまいます」
「大丈夫よ。これを納品して、報酬を受け取ったら……、少しだけ休むわ」
オリヴィアはマーサを安心させるように、引きつった頬に無理やり微笑みを浮かべた。
彼女は自分の身なりを整えるのもそこそこに、大切なレースを上質なベルベットの箱に丁寧に収めた。
正午少し前。
オリヴィアは、商会との取引に立ち会うため、応接室へと向かった。
重厚な扉の向こうからは、すでにセドリックの朗らかな声と、商会の会頭夫人の弾んだ笑い声が聞こえてくる。
「まあ、ウィンザー伯爵。こんなにも素晴らしい品を、本当に予定通りの納期で仕上げてくださるとは……。うちの専属職人たちでさえ、半年はかかるとさじを投げた図案ですのに」
「ははは、もったいないお言葉です。我が家には、少々手先が器用な者がおりましてね。皆様に喜んでいただけるなら、徹夜など造作もないことです」
セドリックの声は、まるで自分が作り上げたかのように誇らしげだった。
オリヴィアは小さく深呼吸をして、扉を開けた。
「失礼いたします。会頭夫人、本日はお越しいただき……」
「おお、オリヴィア! ちょうどよかった」
セドリックは、疲労で青ざめたオリヴィアを見るなり、爽やかな笑顔で手招きをした。
「夫人も、君が徹夜で仕上げてくれたレースの仕上がりを大層気に入ってくださってね」
会頭夫人は、ベルベットの箱に収められたレースをうっとりと見つめていた。
「奥様、素晴らしい腕前ですわ。この緻密な編み込み、これほど薄く繊細でありながら、全く型崩れしていない。約束通り、金貨五百枚。……いえ、これほどの芸術品ならば、七百枚はお支払いいたしましょう」
金貨七百枚。
その言葉を聞いた瞬間、オリヴィアの胸に安堵が広がった。
それだけあれば、領民の雇用事業の赤字を埋め、さらに次の冬を越すための備蓄もできる。
徹夜の苦労が報われた瞬間だった。
「身に余る光栄でございます。これで、領地の者たちも……」
オリヴィアが深く頭を下げ、感謝の言葉を述べようとした、その時だった。
セドリックが、とんでもないことを言い始めたのだった。
「……終わった」
小さな呟きとともに、震える手から銀のボビンが転がり落ちた。
机の上には、一晩中命を削って編み上げた三十枚の最高級ボビンレースが、朝日を浴びて繊細な輝きを放っている。
極細の絹糸が描く幾何学模様は、熟練の職人でさえ舌を巻くほどの精巧さだった。
背もたれに深くもたれかかったオリヴィアは、鉛のように重い瞼をゆっくりと閉じた。
肩甲骨の奥から首筋にかけて、鋭い痛みが走る。
硬くこわばった指先を擦り合わせても、感覚は鈍く麻痺したままだった。
(これで、領民のための事業資金が確保できる……)
昨夜、夫のセドリックから冷たい言葉を浴びせられ、心に重い鉛を飲まされたような感覚は残っていた。
しかし、オリヴィアはそれを無理やり飲み下した。
今回の依頼主は、隣国との貿易で莫大な富を築いた大商会の会頭夫人だ。
彼女のサロンでこのレースが披露されれば、破格の報酬が支払われる契約になっていた。
オリヴィアが徹夜で仕上げたのも、その報酬を元手に、セドリックが安請け合いしてきた領民の雇用創出事業のための材料費や、滞っている職人たちへの賃金を支払うためだった。
つまり、このレースは単なる装飾品ではなく、ウィンザー伯爵家と領民の生活を繋ぐ命綱なのだ。
重い体を引きずるようにして立ち上がり、オリヴィアは鏡の前に立った。
そこに映るのは、生気のない青白い顔をした女だった。
目の下の隈は昨夜よりもさらに濃くなり、隠しきれそうにない。
「……奥様、お疲れ様でございます。お召し替えの手伝いを……」
部屋に入ってきた古参のメイド、マーサが、オリヴィアの顔を見るなり悲痛な表情を浮かべた。
「ええ、ありがとう。すぐに出かける準備をしないと。商会の方々がお待ちだから」
「奥様、どうか少しお休みになってくださいませ。お倒れになってしまいます」
「大丈夫よ。これを納品して、報酬を受け取ったら……、少しだけ休むわ」
オリヴィアはマーサを安心させるように、引きつった頬に無理やり微笑みを浮かべた。
彼女は自分の身なりを整えるのもそこそこに、大切なレースを上質なベルベットの箱に丁寧に収めた。
正午少し前。
オリヴィアは、商会との取引に立ち会うため、応接室へと向かった。
重厚な扉の向こうからは、すでにセドリックの朗らかな声と、商会の会頭夫人の弾んだ笑い声が聞こえてくる。
「まあ、ウィンザー伯爵。こんなにも素晴らしい品を、本当に予定通りの納期で仕上げてくださるとは……。うちの専属職人たちでさえ、半年はかかるとさじを投げた図案ですのに」
「ははは、もったいないお言葉です。我が家には、少々手先が器用な者がおりましてね。皆様に喜んでいただけるなら、徹夜など造作もないことです」
セドリックの声は、まるで自分が作り上げたかのように誇らしげだった。
オリヴィアは小さく深呼吸をして、扉を開けた。
「失礼いたします。会頭夫人、本日はお越しいただき……」
「おお、オリヴィア! ちょうどよかった」
セドリックは、疲労で青ざめたオリヴィアを見るなり、爽やかな笑顔で手招きをした。
「夫人も、君が徹夜で仕上げてくれたレースの仕上がりを大層気に入ってくださってね」
会頭夫人は、ベルベットの箱に収められたレースをうっとりと見つめていた。
「奥様、素晴らしい腕前ですわ。この緻密な編み込み、これほど薄く繊細でありながら、全く型崩れしていない。約束通り、金貨五百枚。……いえ、これほどの芸術品ならば、七百枚はお支払いいたしましょう」
金貨七百枚。
その言葉を聞いた瞬間、オリヴィアの胸に安堵が広がった。
それだけあれば、領民の雇用事業の赤字を埋め、さらに次の冬を越すための備蓄もできる。
徹夜の苦労が報われた瞬間だった。
「身に余る光栄でございます。これで、領地の者たちも……」
オリヴィアが深く頭を下げ、感謝の言葉を述べようとした、その時だった。
セドリックが、とんでもないことを言い始めたのだった。
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