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第1話:妻の献身と朝帰りの夫
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真鍮製の巨大な蒸留器から、微かに水蒸気が漏れる音が響いている。
夜明け前の薄暗い工房の中、クロエ・ヴァレンティンはただ一人、炎の揺らめきを見つめていた。
室内に立ち込めているのは、ビターオレンジの白い花から抽出される芳香成分——ネロリの清らかでほのかに苦味を帯びた香りだった。
ネロリの抽出は、極めてデリケートな作業を要求される。
希少なオイルを無駄なく抽出するためには、水蒸気の温度を一定に保ち、冷却管の温度勾配を秒単位で見極めなければならない。
純度の高い精油を生み出せるのは、徹底した温度管理と植物の特性に対する深い理解、そして何より、文字通り身を削るような献身だけだった。
「……あと、少し」
クロエは荒れた指先で、疲労に固まった首筋を押さえた。
艶やかな亜麻色の髪は乱れなく結い上げられているものの、深い翡翠の瞳には、徹夜の作業による濃い疲労の影が落ちていた。
昨日から一睡もしていない。
食事すら、使用人が運んできた冷たいスープを数口啜っただけだ。
すべては、三日後に控えた王家主催の式典で発表する、ヴァレンティン伯爵家の新作香水を完成させるためだった。
クロエの夫である若き伯爵、アーサー・ヴァレンティンは、数日前に突然こう言い放ったのだ。
『今度の式典には、他商会を圧倒するような、華やかで品のある新しい香りが欲しいな。クロエなら三日で用意できるだろ? 僕の事業の成功のために、頼んだよ』
その無邪気で残酷な言葉の裏にある労力を、彼は何一つ理解していない。
新しい香りのレシピを一から構築し、それに必要な精油を完璧な状態で抽出し、熟成期間をすっ飛ばして香りを安定させるための化学的処方を組む。
それがどれほどの苦行であるかを。
それでもクロエは、夫の要望に応えるために工房に籠もった。
ヴァレンティン伯爵家は元々、香料や化粧品を扱う交易事業を行っていたが、アーサーの代で莫大な赤字を抱え、破産寸前に追い込まれていた。
そんな折、知識を持つ男爵家の令嬢であったクロエが、事業立て直しのための便利な労働力として見出され、政略結婚という形で嫁いできたのだ。
当初は、愛情など一切存在しない白い結婚だった。
しかし、クロエの並外れた抽出技術と、化学理論に基づいた画期的な商品開発のおかげで、事業は瞬く間に黒字化し、ヴァレンティン家の香水は社交界を席巻した。
莫大な富と名声を手に入れたアーサーは、クロエの手を取り、甘いブルーの瞳で囁いた。
『君のおかげだ、クロエ。君は僕の女神だよ。これからは本当の夫婦として、僕を支えてくれないか』
その言葉を、クロエは信じた。
自分の努力が報われたのだと。
彼が自分の本質を見て、愛してくれているのだと信じて、名実ともに彼の妻となった。
だが——。
ガラスの受け皿に、黄金色に輝く精油の最後の一滴が落ちた。
クロエは慎重に火を落とし、安堵の溜息を深く吐き出した。
これでようやく、新作のベースとなる香りが完成した。
徹夜の苦労が報われる、美しく澄んだ香りだった。
その時、工房の重い木の扉が、遠慮のない音を立てて開かれた。
「クロエ、まだそんなところにいたのか?」
軽やかで、どこか甘ったるい声。
振り返ると、朝の光を背に受けて、夫のアーサーが立っていた。
社交界の華と称される、光を孕んだような美しい金髪。
少し垂れ目がちな甘いブルーの瞳は、女性の母性本能をくすぐるようなやんちゃな魅力を放っている。
しかし、その服装は乱れていた。
上等なシルクのシャツの胸元はだらしなく開き、タイは外され、ジャケットは片手に無造作に引っかけられている。
それは、明らかな朝帰りだった。
夜明け前の薄暗い工房の中、クロエ・ヴァレンティンはただ一人、炎の揺らめきを見つめていた。
室内に立ち込めているのは、ビターオレンジの白い花から抽出される芳香成分——ネロリの清らかでほのかに苦味を帯びた香りだった。
ネロリの抽出は、極めてデリケートな作業を要求される。
希少なオイルを無駄なく抽出するためには、水蒸気の温度を一定に保ち、冷却管の温度勾配を秒単位で見極めなければならない。
純度の高い精油を生み出せるのは、徹底した温度管理と植物の特性に対する深い理解、そして何より、文字通り身を削るような献身だけだった。
「……あと、少し」
クロエは荒れた指先で、疲労に固まった首筋を押さえた。
艶やかな亜麻色の髪は乱れなく結い上げられているものの、深い翡翠の瞳には、徹夜の作業による濃い疲労の影が落ちていた。
昨日から一睡もしていない。
食事すら、使用人が運んできた冷たいスープを数口啜っただけだ。
すべては、三日後に控えた王家主催の式典で発表する、ヴァレンティン伯爵家の新作香水を完成させるためだった。
クロエの夫である若き伯爵、アーサー・ヴァレンティンは、数日前に突然こう言い放ったのだ。
『今度の式典には、他商会を圧倒するような、華やかで品のある新しい香りが欲しいな。クロエなら三日で用意できるだろ? 僕の事業の成功のために、頼んだよ』
その無邪気で残酷な言葉の裏にある労力を、彼は何一つ理解していない。
新しい香りのレシピを一から構築し、それに必要な精油を完璧な状態で抽出し、熟成期間をすっ飛ばして香りを安定させるための化学的処方を組む。
それがどれほどの苦行であるかを。
それでもクロエは、夫の要望に応えるために工房に籠もった。
ヴァレンティン伯爵家は元々、香料や化粧品を扱う交易事業を行っていたが、アーサーの代で莫大な赤字を抱え、破産寸前に追い込まれていた。
そんな折、知識を持つ男爵家の令嬢であったクロエが、事業立て直しのための便利な労働力として見出され、政略結婚という形で嫁いできたのだ。
当初は、愛情など一切存在しない白い結婚だった。
しかし、クロエの並外れた抽出技術と、化学理論に基づいた画期的な商品開発のおかげで、事業は瞬く間に黒字化し、ヴァレンティン家の香水は社交界を席巻した。
莫大な富と名声を手に入れたアーサーは、クロエの手を取り、甘いブルーの瞳で囁いた。
『君のおかげだ、クロエ。君は僕の女神だよ。これからは本当の夫婦として、僕を支えてくれないか』
その言葉を、クロエは信じた。
自分の努力が報われたのだと。
彼が自分の本質を見て、愛してくれているのだと信じて、名実ともに彼の妻となった。
だが——。
ガラスの受け皿に、黄金色に輝く精油の最後の一滴が落ちた。
クロエは慎重に火を落とし、安堵の溜息を深く吐き出した。
これでようやく、新作のベースとなる香りが完成した。
徹夜の苦労が報われる、美しく澄んだ香りだった。
その時、工房の重い木の扉が、遠慮のない音を立てて開かれた。
「クロエ、まだそんなところにいたのか?」
軽やかで、どこか甘ったるい声。
振り返ると、朝の光を背に受けて、夫のアーサーが立っていた。
社交界の華と称される、光を孕んだような美しい金髪。
少し垂れ目がちな甘いブルーの瞳は、女性の母性本能をくすぐるようなやんちゃな魅力を放っている。
しかし、その服装は乱れていた。
上等なシルクのシャツの胸元はだらしなく開き、タイは外され、ジャケットは片手に無造作に引っかけられている。
それは、明らかな朝帰りだった。
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