「妻ならわかってよ」浮気夫が、私の成果を愛人の手柄にしました。〜私なしでも事業が回ると思っているようなので、現実を見せて差し上げましょう~

水上

文字の大きさ
2 / 11

第2話:夫の嘘の言葉と、事実を語る香り

しおりを挟む
「……お帰りなさいませ」

 クロエは立ち上がり、静かに頭を下げた。
 酷使した足が微かに震えたが、表情には一切出さない。

「ああ、ただいま。いやあ、疲れたよ」

 アーサーは大きく欠伸をしながら、工房の中へと足を踏み入れた。
 彼からは、徹夜で火の番をしていた妻を労う言葉は、ただの一言も出なかった。

 彼の視線はクロエの疲労しきった顔ではなく、机の上に置かれた精油の小瓶へと直行した。

「それ、頼んでた新作のサンプル? さすがクロエだね、間に合わせてくれるって信じてたよ。午後の会議で僕が発表するから、綺麗に包装しておいてよ」

 さも自分の手柄であるかのように、当然の顔で命じる夫を見て、クロエの胸の奥で何かが鈍く軋む音がした。

「ええ、完成しております。……ですが少しご確認いただきたいことが」

 クロエがサンプルの小瓶を手に取り、アーサーへと歩み寄った、その瞬間だった。

 クロエの鋭敏な嗅覚が、強烈な異物感を捉えた。

(……これは、何?)

 アーサーのシャツの胸元から立ち上ってきたのは、工房に満ちていた高貴なネロリの香りを暴力的に塗り潰すような、むせ返るほど甘く、俗悪な匂いだった。

 イランイランの重すぎる甘さに、粗悪な合成ムスクを無秩序に混ぜ合わせたような、下品なまでに強烈な香り。

 クロエからすれば、香りの階層の計算など微塵もされていない、ただ異性の欲望を煽るためだけに作られたような素人の香水だ。

 クロエが作ったものではない。
 ヴァレンティン商会の商品ですらない。

 それは明らかに、彼と夜を共にし、濃厚に肌を擦り合わせた別の女性の匂いだった。
 視線を落とせば、開いたシャツの襟元に、微かに赤い口紅が擦れた跡が残っているのが見えた。

「ん? どうかした?」

 立ち止まったクロエを不思議そうに見下ろし、アーサーは首を傾げる。
 その端正な顔には、後ろめたさや罪悪感など微塵も浮かんでいない。

「……昨夜は、どちらにいらっしゃったのですか?」

 押し殺した声で、クロエは問うた。

 感情を波立たせてはいけない。
 理性で押さえつけろと自分に言い聞かせながら。

「ああ、言っただろ? 同業の商会長たちとの付き合いだよ。事業を広げるためには、こういう夜の付き合いも必要なんだ。酒も入ったし、遅くなったからサロンの上の客室で仮眠をとってきたんだよ。僕だって好きで家を空けてるわけじゃないんだから、妻ならわかってよ」

 アーサーは悪びれる様子もなく、スラスラと軽い嘘を吐いた。

 疲れた、忙しい。
 それはこちらの台詞だ。

 三日間、寝る間も惜しんで蒸留器の前に立ち、秒単位で温度を管理し、彼のために一滴一滴の精油を絞り出していたのに。

(あなたは私にすべてを押し付け、別の女とシーツの波に溺れていたというの?)

 クロエの心の中で、怒りの炎が燻り始めていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません

藤原遊
恋愛
政略結婚として、公爵家に嫁いだ私は 愛のない夫婦関係を「仕事」だと思い、正妻の役目を果たしてきた。 夫が愛人を持つことも、 その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。 けれど―― 跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。 その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。 私は悟ったのだ。 この家では、息子を守れないと。 元々、実家との間には 「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。 ならば話は簡単だ。 役目を終えた私は、離縁を選ぶ。 息子と共に、この家を去るだけ。 後悔しているようですが―― もう、私の知るところではありません。

【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?

ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。 世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。 ざまぁ必須、微ファンタジーです。

おかしくなったのは、彼女が我が家にやってきてからでした。

ましゅぺちーの
恋愛
公爵家の令嬢であるリリスは家族と婚約者に愛されて幸せの中にいた。 そんな時、リリスの父の弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、その娘を我が家で引き取ることになった。 娘の名前はシルビア。天使のように可愛らしく愛嬌のある彼女はすぐに一家に馴染んでいった。 それに対してリリスは次第に家で孤立していき、シルビアに嫌がらせをしているとの噂までたち始めた。 婚約者もシルビアに奪われ、父からは勘当を言い渡される。 リリスは平民として第二の人生を歩み始める。 全8話。完結まで執筆済みです。 この作品は小説家になろう様にも掲載しています。

婚約者が選んだのは私から魔力を盗んだ妹でした

今川幸乃
恋愛
バートン伯爵家のミアの婚約者、パーシーはいつも「魔法が使える人がいい」とばかり言っていた。 実はミアは幼いころに水の精霊と親しくなり、魔法も得意だった。 妹のリリーが怪我した時に母親に「リリーが可哀想だから魔法ぐらい譲ってあげなさい」と言われ、精霊を譲っていたのだった。 リリーはとっくに怪我が治っているというのにずっと仮病を使っていて一向に精霊を返すつもりはない。 それでもミアはずっと我慢していたが、ある日パーシーとリリーが仲良くしているのを見かける。 パーシーによると「怪我しているのに頑張っていてすごい」ということらしく、リリーも満更ではなさそうだった。 そのためミアはついに彼女から精霊を取り戻すことを決意する。

心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。

しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。 理由は他の女性を好きになってしまったから。 10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。 意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。 ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。 セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。

捨てたのはあなたです。今さら取り戻せません

めめめ
恋愛
婚約破棄?構いませんわ。 ですが国家の崩壊までは責任を負いかねます。 王立舞踏会で公開断罪された公爵令嬢セラフィーナ。 しかし王国を支えていたのは、実は彼女だった。 国庫凍結、交易停止、外交破綻——。 無能な王子が後悔する頃、彼女は隣国皇帝に迎えられる。 これは、断罪から始まる逆転溺愛劇。

【完結】貴方が好きなのはあくまでも私のお姉様

すだもみぢ
恋愛
伯爵令嬢であるカリンは、隣の辺境伯の息子であるデュークが苦手だった。 彼の悪戯にひどく泣かされたことがあったから。 そんな彼が成長し、年の離れたカリンの姉、ヨーランダと付き合い始めてから彼は変わっていく。 ヨーランダは世紀の淑女と呼ばれた女性。 彼女の元でどんどんと洗練され、魅力に満ちていくデュークをカリンは傍らから見ていることしかできなかった。 しかしヨーランダはデュークではなく他の人を選び、結婚してしまう。 それからしばらくして、カリンの元にデュークから結婚の申し込みが届く。 私はお姉さまの代わりでしょうか。 貴方が私に優しくすればするほど悲しくなるし、みじめな気持ちになるのに……。 そう思いつつも、彼を思う気持ちは抑えられなくなっていく。 8/21 MAGI様より表紙イラストを、9/24にはMAGI様の作曲された この小説のイメージソング「意味のない空」をいただきました。 https://www.youtube.com/watch?v=L6C92gMQ_gE MAGI様、ありがとうございます! イメージが広がりますので聞きながらお話を読んでくださると嬉しいです。

側妃の愛

まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。 王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。 力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。 Copyright©︎2025-まるねこ

処理中です...