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第2話:夫の嘘の言葉と、事実を語る香り
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「……お帰りなさいませ」
クロエは立ち上がり、静かに頭を下げた。
酷使した足が微かに震えたが、表情には一切出さない。
「ああ、ただいま。いやあ、疲れたよ」
アーサーは大きく欠伸をしながら、工房の中へと足を踏み入れた。
彼からは、徹夜で火の番をしていた妻を労う言葉は、ただの一言も出なかった。
彼の視線はクロエの疲労しきった顔ではなく、机の上に置かれた精油の小瓶へと直行した。
「それ、頼んでた新作のサンプル? さすがクロエだね、間に合わせてくれるって信じてたよ。午後の会議で僕が発表するから、綺麗に包装しておいてよ」
さも自分の手柄であるかのように、当然の顔で命じる夫を見て、クロエの胸の奥で何かが鈍く軋む音がした。
「ええ、完成しております。……ですが少しご確認いただきたいことが」
クロエがサンプルの小瓶を手に取り、アーサーへと歩み寄った、その瞬間だった。
クロエの鋭敏な嗅覚が、強烈な異物感を捉えた。
(……これは、何?)
アーサーのシャツの胸元から立ち上ってきたのは、工房に満ちていた高貴なネロリの香りを暴力的に塗り潰すような、むせ返るほど甘く、俗悪な匂いだった。
イランイランの重すぎる甘さに、粗悪な合成ムスクを無秩序に混ぜ合わせたような、下品なまでに強烈な香り。
クロエからすれば、香りの階層の計算など微塵もされていない、ただ異性の欲望を煽るためだけに作られたような素人の香水だ。
クロエが作ったものではない。
ヴァレンティン商会の商品ですらない。
それは明らかに、彼と夜を共にし、濃厚に肌を擦り合わせた別の女性の匂いだった。
視線を落とせば、開いたシャツの襟元に、微かに赤い口紅が擦れた跡が残っているのが見えた。
「ん? どうかした?」
立ち止まったクロエを不思議そうに見下ろし、アーサーは首を傾げる。
その端正な顔には、後ろめたさや罪悪感など微塵も浮かんでいない。
「……昨夜は、どちらにいらっしゃったのですか?」
押し殺した声で、クロエは問うた。
感情を波立たせてはいけない。
理性で押さえつけろと自分に言い聞かせながら。
「ああ、言っただろ? 同業の商会長たちとの付き合いだよ。事業を広げるためには、こういう夜の付き合いも必要なんだ。酒も入ったし、遅くなったからサロンの上の客室で仮眠をとってきたんだよ。僕だって好きで家を空けてるわけじゃないんだから、妻ならわかってよ」
アーサーは悪びれる様子もなく、スラスラと軽い嘘を吐いた。
疲れた、忙しい。
それはこちらの台詞だ。
三日間、寝る間も惜しんで蒸留器の前に立ち、秒単位で温度を管理し、彼のために一滴一滴の精油を絞り出していたのに。
(あなたは私にすべてを押し付け、別の女とシーツの波に溺れていたというの?)
クロエの心の中で、怒りの炎が燻り始めていた。
クロエは立ち上がり、静かに頭を下げた。
酷使した足が微かに震えたが、表情には一切出さない。
「ああ、ただいま。いやあ、疲れたよ」
アーサーは大きく欠伸をしながら、工房の中へと足を踏み入れた。
彼からは、徹夜で火の番をしていた妻を労う言葉は、ただの一言も出なかった。
彼の視線はクロエの疲労しきった顔ではなく、机の上に置かれた精油の小瓶へと直行した。
「それ、頼んでた新作のサンプル? さすがクロエだね、間に合わせてくれるって信じてたよ。午後の会議で僕が発表するから、綺麗に包装しておいてよ」
さも自分の手柄であるかのように、当然の顔で命じる夫を見て、クロエの胸の奥で何かが鈍く軋む音がした。
「ええ、完成しております。……ですが少しご確認いただきたいことが」
クロエがサンプルの小瓶を手に取り、アーサーへと歩み寄った、その瞬間だった。
クロエの鋭敏な嗅覚が、強烈な異物感を捉えた。
(……これは、何?)
アーサーのシャツの胸元から立ち上ってきたのは、工房に満ちていた高貴なネロリの香りを暴力的に塗り潰すような、むせ返るほど甘く、俗悪な匂いだった。
イランイランの重すぎる甘さに、粗悪な合成ムスクを無秩序に混ぜ合わせたような、下品なまでに強烈な香り。
クロエからすれば、香りの階層の計算など微塵もされていない、ただ異性の欲望を煽るためだけに作られたような素人の香水だ。
クロエが作ったものではない。
ヴァレンティン商会の商品ですらない。
それは明らかに、彼と夜を共にし、濃厚に肌を擦り合わせた別の女性の匂いだった。
視線を落とせば、開いたシャツの襟元に、微かに赤い口紅が擦れた跡が残っているのが見えた。
「ん? どうかした?」
立ち止まったクロエを不思議そうに見下ろし、アーサーは首を傾げる。
その端正な顔には、後ろめたさや罪悪感など微塵も浮かんでいない。
「……昨夜は、どちらにいらっしゃったのですか?」
押し殺した声で、クロエは問うた。
感情を波立たせてはいけない。
理性で押さえつけろと自分に言い聞かせながら。
「ああ、言っただろ? 同業の商会長たちとの付き合いだよ。事業を広げるためには、こういう夜の付き合いも必要なんだ。酒も入ったし、遅くなったからサロンの上の客室で仮眠をとってきたんだよ。僕だって好きで家を空けてるわけじゃないんだから、妻ならわかってよ」
アーサーは悪びれる様子もなく、スラスラと軽い嘘を吐いた。
疲れた、忙しい。
それはこちらの台詞だ。
三日間、寝る間も惜しんで蒸留器の前に立ち、秒単位で温度を管理し、彼のために一滴一滴の精油を絞り出していたのに。
(あなたは私にすべてを押し付け、別の女とシーツの波に溺れていたというの?)
クロエの心の中で、怒りの炎が燻り始めていた。
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