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第5話:妻の決意
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(……そうですか)
クロエは、自らの唇に完璧な微笑みを貼り付けた。
怒り狂って会場に乱入し、「それは私が作ったものです!」と叫ぶこともできただろう。
しかし、彼女の心はすでに、あの朝の時点で凍りついていた。
アーサーのシャツから漂ってきた、俗悪な香水の匂い。
そして「君がやりたがってたんだろ?」という責任転嫁の言葉。
あの瞬間、彼女の中で何かが完全に折れ、そして冷え切ってしまったのだ。
「奥様、よろしいのですか?」
背後から、心配そうな声がかけられた。
ヴァレンティン家に長く仕える初老の執事、トーマスだった。
彼はクロエの徹夜の苦労を知っている数少ない人物だ。
「……何がでしょう、トーマス」
クロエは振り返り、完璧な微笑みのまま答えた。
「あのような……、イザベラ様が、奥様の成果を横取りするような真似を……。旦那様も、なぜあのような嘘を……」
トーマスの顔には、明確な怒りと同情が浮かんでいた。
しかし、クロエの心は凪いだ水面のように静まり返っている。
「構いませんよ。事業が成功し、商会の名声が高まるのであれば、誰が作ったことになろうと同じことです」
「しかし、奥様の努力が……!」
「私の努力など、旦那様にとっては最初から、妻として当然の義務に過ぎないのです。それに……」
クロエは視線を再び、華やかな中心にいる二人へと戻した。
イザベラは得意げに新作の小瓶を掲げ、貴族たちから惜しみない拍手を浴びている。
アーサーはそれを満足げに見守り、彼女の腰に手を回していた。
公認の愛人。
社交界でそう囁かれていることは、クロエもとうに知っている。
「あの香りの真の価値を理解できない者たちに、何を言っても無駄でしょう」
彼女の静かな声には、怒りも悲しみも含まれていない。
ただの事実を述べる、無機質な響きしかなかった。
クロエは、もう彼らに何も期待していない。
自分のアイデアや努力を横取りされ、都合のいい時だけ便利な道具として使われる。
この不毛な搾取のループに、まともに取り合って心をすり減らすことすら、ばかばかしくなっていた。
「……奥様」
トーマスは痛ましそうに目を伏せた。
彼はクロエがヒステリックに怒らないことに、かえって深い絶望を感じ取っていた。
愛が憎しみに変わるのではなく、愛が完全に無関心へと変わってしまったことを、その静かな微笑みから察したのだ。
「私は少し、夜風に当たってまいります。何かあれば呼んでください」
クロエは優雅に会釈をし、喧騒から離れるようにテラスへと向かった。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。
彼女の頭の中は、今この瞬間も、アーサーへの復讐やイザベラへの恨み言ではなく、極めて冷静な計算で満たされていた。
(この事業の基盤は、私の精油抽出技術と化学的知識によって成り立っている。……彼らは、私がいつまでも黙って、彼らの足元で花を咲かせ続けると信じているのね)
クロエはテラスの手すりに寄りかかり、星のない夜空を見上げた。
自分の価値を不当に貶められ、都合よく消費されるだけの場所。
そんな鳥籠には、もう何の未練もなかった。
確固たる決意が、クロエの胸の奥で形を作り始めていた。
クロエは、自らの唇に完璧な微笑みを貼り付けた。
怒り狂って会場に乱入し、「それは私が作ったものです!」と叫ぶこともできただろう。
しかし、彼女の心はすでに、あの朝の時点で凍りついていた。
アーサーのシャツから漂ってきた、俗悪な香水の匂い。
そして「君がやりたがってたんだろ?」という責任転嫁の言葉。
あの瞬間、彼女の中で何かが完全に折れ、そして冷え切ってしまったのだ。
「奥様、よろしいのですか?」
背後から、心配そうな声がかけられた。
ヴァレンティン家に長く仕える初老の執事、トーマスだった。
彼はクロエの徹夜の苦労を知っている数少ない人物だ。
「……何がでしょう、トーマス」
クロエは振り返り、完璧な微笑みのまま答えた。
「あのような……、イザベラ様が、奥様の成果を横取りするような真似を……。旦那様も、なぜあのような嘘を……」
トーマスの顔には、明確な怒りと同情が浮かんでいた。
しかし、クロエの心は凪いだ水面のように静まり返っている。
「構いませんよ。事業が成功し、商会の名声が高まるのであれば、誰が作ったことになろうと同じことです」
「しかし、奥様の努力が……!」
「私の努力など、旦那様にとっては最初から、妻として当然の義務に過ぎないのです。それに……」
クロエは視線を再び、華やかな中心にいる二人へと戻した。
イザベラは得意げに新作の小瓶を掲げ、貴族たちから惜しみない拍手を浴びている。
アーサーはそれを満足げに見守り、彼女の腰に手を回していた。
公認の愛人。
社交界でそう囁かれていることは、クロエもとうに知っている。
「あの香りの真の価値を理解できない者たちに、何を言っても無駄でしょう」
彼女の静かな声には、怒りも悲しみも含まれていない。
ただの事実を述べる、無機質な響きしかなかった。
クロエは、もう彼らに何も期待していない。
自分のアイデアや努力を横取りされ、都合のいい時だけ便利な道具として使われる。
この不毛な搾取のループに、まともに取り合って心をすり減らすことすら、ばかばかしくなっていた。
「……奥様」
トーマスは痛ましそうに目を伏せた。
彼はクロエがヒステリックに怒らないことに、かえって深い絶望を感じ取っていた。
愛が憎しみに変わるのではなく、愛が完全に無関心へと変わってしまったことを、その静かな微笑みから察したのだ。
「私は少し、夜風に当たってまいります。何かあれば呼んでください」
クロエは優雅に会釈をし、喧騒から離れるようにテラスへと向かった。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。
彼女の頭の中は、今この瞬間も、アーサーへの復讐やイザベラへの恨み言ではなく、極めて冷静な計算で満たされていた。
(この事業の基盤は、私の精油抽出技術と化学的知識によって成り立っている。……彼らは、私がいつまでも黙って、彼らの足元で花を咲かせ続けると信じているのね)
クロエはテラスの手すりに寄りかかり、星のない夜空を見上げた。
自分の価値を不当に貶められ、都合よく消費されるだけの場所。
そんな鳥籠には、もう何の未練もなかった。
確固たる決意が、クロエの胸の奥で形を作り始めていた。
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