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第13話:自己中心的な夫
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かつてのクロエなら、この香水の匂いを嗅ぐだけで胸が締め付けられ、悲しみに暮れていただろう。
しかし今の彼女は、心拍数一つ変えることなく、完璧な微笑みで彼を迎え入れた。
「おはようございます、旦那様。ご心配をおかけいたしましたが、もうすっかり良くなりました。サンプルも、ご用意できております」
クロエは淀みのない丁寧な口調で答え、三つの小瓶が並んだトレイを差し出した。
アーサーは少し驚いたように目を丸くした。
昨日は高熱で倒れ、「傍にいてほしい」と泣き言を言っていた妻が、一夜明けてこれほどまでに従順で、隙のない笑顔を向けてくるとは思っていなかったのだろう。
「おお、さすがだな。……無理してないか?」
「ええ、全く問題ございません。旦那様の事業の成功のためですから、この程度のことは妻として当然の務めです」
クロエの言葉に、アーサーは露骨に安堵の表情を浮かべた。
彼の頭の中では、妻が自分のために働くのは当然という都合の良い方程式が成り立っている。
クロエが反抗せず、素直に仕事をしてくれるのであれば、それで万事解決なのだ。
「よかった。やっぱり君はよくできた妻だよ。僕がイザベラと仲良くしてるのも、君なら大人の対応で理解してくれると思ってたんだ」
悪びれもせず、息をするように飛び出す無神経な言葉。
クロエは、その言葉の端々から漂う傲慢さと自己中心性に、内心で冷ややかな感嘆すら覚えた。
(この人は、本当に、自分のことしか見えていないのね)
「イザベラが言ってた『強い甘さ』と『きらきらした感じ』、ちゃんと表現できてる? 彼女、すごく期待してるんだ」
「はい。イザベラ様の素晴らしい感性を損なわぬよう、トップノートに甘みの強いイランイランとオレンジスイートを配置し、ミドルでジャスミンの華やかさを強調いたしました。……どうぞ、お試しください」
クロエは淡々と説明し、試香紙に香りを染み込ませて差し出した。
アーサーはそれを鼻に近づけ、満足げに頷いた。
「うん、いい匂いだ! これならイザベラも絶対に喜ぶよ。さすが僕のプロデュースだな。この調子で、残りの量産も頼むよ」
「承知いたしました。納期には必ず間に合わせます」
「ああ、頼りにしてるよ。……そうだ、今夜はイザベラを招いて、ささやかなお祝いのディナーをするんだ。君も来るだろ? 新作の完成を一緒に祝おう」
クロエは、その甘ったるい誘いに、ほんの一瞬だけ思考を停止させた。
妻が命を削って作った香水を、浮気相手の感性の賜物として発表し、その女を家に招いて祝いの席を設ける。
その席に、実の妻を同席させようというのか。
彼の神経の太さ、他者の痛みに対する想像力の欠如は、もはや恐怖すら感じるレベルだった。
「お誘いいただき光栄ですが、私は工房での作業が立て込んでおりますので、遠慮させていただきます。どうぞ、イザベラ様とごゆっくりお楽しみくださいませ」
クロエは、完璧な微笑みを崩さずに答えた。
その声には、微かな棘も、嫌味も含まれていない。
ただただ、従順で、感情の一切抜け落ちた無機質な声だった。
「そっか、残念だな。まあ、仕事が忙しいなら仕方ないか。無理するなよ」
アーサーは特に気にする様子もなく、軽い足取りで工房を出て行った。
彼にとって、クロエが同席しようがしまいが、どうでもいいことなのだ。
彼が欲しいのは、自分を称賛してくれるイザベラと、自分のために香水を作ってくれる便利な妻だけなのだから。
バタン、と扉が閉まる。
工房に一人残されたクロエは、完璧な微笑みの仮面を顔に貼り付けたまま、冷たい蒸留器の表面を撫でた。
「……ええ。存分にお楽しみください」
もう、怒る気すら起きない。
波風を立てるために声を荒げるエネルギーすら惜しい。
彼女の心は、ただひたすらに、自分がこの鳥籠から飛び立つ瞬間のためだけに、計算を続けていた。
しかし今の彼女は、心拍数一つ変えることなく、完璧な微笑みで彼を迎え入れた。
「おはようございます、旦那様。ご心配をおかけいたしましたが、もうすっかり良くなりました。サンプルも、ご用意できております」
クロエは淀みのない丁寧な口調で答え、三つの小瓶が並んだトレイを差し出した。
アーサーは少し驚いたように目を丸くした。
昨日は高熱で倒れ、「傍にいてほしい」と泣き言を言っていた妻が、一夜明けてこれほどまでに従順で、隙のない笑顔を向けてくるとは思っていなかったのだろう。
「おお、さすがだな。……無理してないか?」
「ええ、全く問題ございません。旦那様の事業の成功のためですから、この程度のことは妻として当然の務めです」
クロエの言葉に、アーサーは露骨に安堵の表情を浮かべた。
彼の頭の中では、妻が自分のために働くのは当然という都合の良い方程式が成り立っている。
クロエが反抗せず、素直に仕事をしてくれるのであれば、それで万事解決なのだ。
「よかった。やっぱり君はよくできた妻だよ。僕がイザベラと仲良くしてるのも、君なら大人の対応で理解してくれると思ってたんだ」
悪びれもせず、息をするように飛び出す無神経な言葉。
クロエは、その言葉の端々から漂う傲慢さと自己中心性に、内心で冷ややかな感嘆すら覚えた。
(この人は、本当に、自分のことしか見えていないのね)
「イザベラが言ってた『強い甘さ』と『きらきらした感じ』、ちゃんと表現できてる? 彼女、すごく期待してるんだ」
「はい。イザベラ様の素晴らしい感性を損なわぬよう、トップノートに甘みの強いイランイランとオレンジスイートを配置し、ミドルでジャスミンの華やかさを強調いたしました。……どうぞ、お試しください」
クロエは淡々と説明し、試香紙に香りを染み込ませて差し出した。
アーサーはそれを鼻に近づけ、満足げに頷いた。
「うん、いい匂いだ! これならイザベラも絶対に喜ぶよ。さすが僕のプロデュースだな。この調子で、残りの量産も頼むよ」
「承知いたしました。納期には必ず間に合わせます」
「ああ、頼りにしてるよ。……そうだ、今夜はイザベラを招いて、ささやかなお祝いのディナーをするんだ。君も来るだろ? 新作の完成を一緒に祝おう」
クロエは、その甘ったるい誘いに、ほんの一瞬だけ思考を停止させた。
妻が命を削って作った香水を、浮気相手の感性の賜物として発表し、その女を家に招いて祝いの席を設ける。
その席に、実の妻を同席させようというのか。
彼の神経の太さ、他者の痛みに対する想像力の欠如は、もはや恐怖すら感じるレベルだった。
「お誘いいただき光栄ですが、私は工房での作業が立て込んでおりますので、遠慮させていただきます。どうぞ、イザベラ様とごゆっくりお楽しみくださいませ」
クロエは、完璧な微笑みを崩さずに答えた。
その声には、微かな棘も、嫌味も含まれていない。
ただただ、従順で、感情の一切抜け落ちた無機質な声だった。
「そっか、残念だな。まあ、仕事が忙しいなら仕方ないか。無理するなよ」
アーサーは特に気にする様子もなく、軽い足取りで工房を出て行った。
彼にとって、クロエが同席しようがしまいが、どうでもいいことなのだ。
彼が欲しいのは、自分を称賛してくれるイザベラと、自分のために香水を作ってくれる便利な妻だけなのだから。
バタン、と扉が閉まる。
工房に一人残されたクロエは、完璧な微笑みの仮面を顔に貼り付けたまま、冷たい蒸留器の表面を撫でた。
「……ええ。存分にお楽しみください」
もう、怒る気すら起きない。
波風を立てるために声を荒げるエネルギーすら惜しい。
彼女の心は、ただひたすらに、自分がこの鳥籠から飛び立つ瞬間のためだけに、計算を続けていた。
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全8話。完結まで執筆済みです。
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