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第14話:水面下での準備
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その日の夜、ヴァレンティン伯爵邸の豪華なダイニングルームは、甘やかなざわめきと俗悪な香水の匂いで満たされていた。
アーサーとイザベラが、祝宴と称して、二人きりのディナーを楽しんでいるのだ。
「アーサー様! このキャビア、とっても美味しいですわ~」
「ははっ、イザベラが喜んでくれて嬉しいよ。君の素晴らしい感性のおかげで、今度の生誕祭も大成功間違いなしだからね」
イザベラの甲高い笑い声と、アーサーの甘ったるい声が、廊下にまで漏れ聞こえてくる。
クロエは、ダイニングルームから少し離れた廊下の影で、その様子を静かに見つめていた。
彼女が身につけているのは、工房での作業着である実用的なエプロンドレス。
徹夜の疲労と微熱が完全に抜けきったわけではないが、彼女の足取りは驚くほど軽く、姿勢は一本の芯が通ったように凛としていた。
「奥様……」
背後から、執事のトーマスが声をかけた。
「本当に、よろしいのですか? 旦那様は、あの女を堂々とこの家に……」
トーマスの声には、抑えきれない怒りと、女主に対する深い同情が滲んでいた。
しかし、クロエの表情は凪いだ水面のように静まり返っている。
「構いませんよ、トーマス。彼らが楽しんでいるのなら、それで良いのです。……それよりも」
クロエは振り返り、完璧な微笑みを崩さずにトーマスを見た。
その翡翠の瞳は、一切の感情を排した、冷徹な理性の光を宿していた。
「父からの返書は、届きましたか?」
トーマスはハッとして、周囲を警戒するように声を潜めた。
「はい、奥様。先ほど、アルベール男爵様からの使者が裏門へ。お手紙を預かっております」
トーマスは懐から、アルベール家の紋章である百合と月の封蝋が押された手紙を取り出した。
クロエはそれを受け取り、封を切った。
手紙の内容は短く、心強いものだった。
『クロエ。お前の決断を支持する。我が娘を道具として扱うような愚か者の元に、これ以上留まる必要はない。指定の日時に、裏門に信頼できる御者を遣わす。安全第一で戻ってきなさい』
手紙を読み終えたクロエの唇に、安堵の息が漏れた。
生家のアルベール男爵家は、決して裕福な貴族ではない。
しかし、クロエの並外れた才能を誰よりも理解し、誇りに思ってくれている両親だ。
彼らなら、必ず自分を受け入れてくれると信じていた。
「……トーマス、ありがとうございます。父は、私の帰還を了承してくれました」
クロエは手紙をエプロンのポケットに深くしまい込み、トーマスに向かって深く頭を下げた。
「奥様……! 良かった、本当に良かったです。私とメアリーで、荷造りはほぼ終わらせております。奥様の研究データと重要な抽出記録は、実家へ送る手配を進めております」
トーマスもまた、涙ぐみながら深く頭を下げた。
ヴァレンティン邸の古参たちは、皆クロエの献身と、アーサーの傲慢さを目の当たりにしてきた。
彼らは皆、クロエの脱出を密かに支援する同志となっていたのだ。
「決行は、三日後の夜。アーサー様とイザベラ様が、王太后様の生誕祭のプレパーティーに出席される間です」
クロエは静かに、確固たる声で告げた。
その日、アーサーは確実に家を空ける。
そして、新作香水の量産に追われているはずのクロエが、工房にこもりきりであると信じ切っているだろう。
「承知いたしました。手筈通りに」
トーマスが頷いたその時、ダイニングルームの扉が勢いよく開いた。
アーサーとイザベラが、祝宴と称して、二人きりのディナーを楽しんでいるのだ。
「アーサー様! このキャビア、とっても美味しいですわ~」
「ははっ、イザベラが喜んでくれて嬉しいよ。君の素晴らしい感性のおかげで、今度の生誕祭も大成功間違いなしだからね」
イザベラの甲高い笑い声と、アーサーの甘ったるい声が、廊下にまで漏れ聞こえてくる。
クロエは、ダイニングルームから少し離れた廊下の影で、その様子を静かに見つめていた。
彼女が身につけているのは、工房での作業着である実用的なエプロンドレス。
徹夜の疲労と微熱が完全に抜けきったわけではないが、彼女の足取りは驚くほど軽く、姿勢は一本の芯が通ったように凛としていた。
「奥様……」
背後から、執事のトーマスが声をかけた。
「本当に、よろしいのですか? 旦那様は、あの女を堂々とこの家に……」
トーマスの声には、抑えきれない怒りと、女主に対する深い同情が滲んでいた。
しかし、クロエの表情は凪いだ水面のように静まり返っている。
「構いませんよ、トーマス。彼らが楽しんでいるのなら、それで良いのです。……それよりも」
クロエは振り返り、完璧な微笑みを崩さずにトーマスを見た。
その翡翠の瞳は、一切の感情を排した、冷徹な理性の光を宿していた。
「父からの返書は、届きましたか?」
トーマスはハッとして、周囲を警戒するように声を潜めた。
「はい、奥様。先ほど、アルベール男爵様からの使者が裏門へ。お手紙を預かっております」
トーマスは懐から、アルベール家の紋章である百合と月の封蝋が押された手紙を取り出した。
クロエはそれを受け取り、封を切った。
手紙の内容は短く、心強いものだった。
『クロエ。お前の決断を支持する。我が娘を道具として扱うような愚か者の元に、これ以上留まる必要はない。指定の日時に、裏門に信頼できる御者を遣わす。安全第一で戻ってきなさい』
手紙を読み終えたクロエの唇に、安堵の息が漏れた。
生家のアルベール男爵家は、決して裕福な貴族ではない。
しかし、クロエの並外れた才能を誰よりも理解し、誇りに思ってくれている両親だ。
彼らなら、必ず自分を受け入れてくれると信じていた。
「……トーマス、ありがとうございます。父は、私の帰還を了承してくれました」
クロエは手紙をエプロンのポケットに深くしまい込み、トーマスに向かって深く頭を下げた。
「奥様……! 良かった、本当に良かったです。私とメアリーで、荷造りはほぼ終わらせております。奥様の研究データと重要な抽出記録は、実家へ送る手配を進めております」
トーマスもまた、涙ぐみながら深く頭を下げた。
ヴァレンティン邸の古参たちは、皆クロエの献身と、アーサーの傲慢さを目の当たりにしてきた。
彼らは皆、クロエの脱出を密かに支援する同志となっていたのだ。
「決行は、三日後の夜。アーサー様とイザベラ様が、王太后様の生誕祭のプレパーティーに出席される間です」
クロエは静かに、確固たる声で告げた。
その日、アーサーは確実に家を空ける。
そして、新作香水の量産に追われているはずのクロエが、工房にこもりきりであると信じ切っているだろう。
「承知いたしました。手筈通りに」
トーマスが頷いたその時、ダイニングルームの扉が勢いよく開いた。
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