「妻ならわかってよ」浮気夫が、私の成果を愛人の手柄にしました。〜私なしでも事業が回ると思っているようなので、現実を見せて差し上げましょう~

水上

文字の大きさ
14 / 31

第14話:水面下での準備

しおりを挟む
 その日の夜、ヴァレンティン伯爵邸の豪華なダイニングルームは、甘やかなざわめきと俗悪な香水の匂いで満たされていた。

 アーサーとイザベラが、祝宴と称して、二人きりのディナーを楽しんでいるのだ。

「アーサー様! このキャビア、とっても美味しいですわ~」

「ははっ、イザベラが喜んでくれて嬉しいよ。君の素晴らしい感性のおかげで、今度の生誕祭も大成功間違いなしだからね」

 イザベラの甲高い笑い声と、アーサーの甘ったるい声が、廊下にまで漏れ聞こえてくる。

 クロエは、ダイニングルームから少し離れた廊下の影で、その様子を静かに見つめていた。
 彼女が身につけているのは、工房での作業着である実用的なエプロンドレス。

 徹夜の疲労と微熱が完全に抜けきったわけではないが、彼女の足取りは驚くほど軽く、姿勢は一本の芯が通ったように凛としていた。

「奥様……」

 背後から、執事のトーマスが声をかけた。

「本当に、よろしいのですか? 旦那様は、あの女を堂々とこの家に……」

 トーマスの声には、抑えきれない怒りと、女主に対する深い同情が滲んでいた。
 しかし、クロエの表情は凪いだ水面のように静まり返っている。

「構いませんよ、トーマス。彼らが楽しんでいるのなら、それで良いのです。……それよりも」

 クロエは振り返り、完璧な微笑みを崩さずにトーマスを見た。
 その翡翠の瞳は、一切の感情を排した、冷徹な理性の光を宿していた。

「父からの返書は、届きましたか?」

 トーマスはハッとして、周囲を警戒するように声を潜めた。

「はい、奥様。先ほど、アルベール男爵様からの使者が裏門へ。お手紙を預かっております」

 トーマスは懐から、アルベール家の紋章である百合と月の封蝋が押された手紙を取り出した。
 クロエはそれを受け取り、封を切った。

 手紙の内容は短く、心強いものだった。

『クロエ。お前の決断を支持する。我が娘を道具として扱うような愚か者の元に、これ以上留まる必要はない。指定の日時に、裏門に信頼できる御者を遣わす。安全第一で戻ってきなさい』

 手紙を読み終えたクロエの唇に、安堵の息が漏れた。
 生家のアルベール男爵家は、決して裕福な貴族ではない。

 しかし、クロエの並外れた才能を誰よりも理解し、誇りに思ってくれている両親だ。
 彼らなら、必ず自分を受け入れてくれると信じていた。

「……トーマス、ありがとうございます。父は、私の帰還を了承してくれました」

 クロエは手紙をエプロンのポケットに深くしまい込み、トーマスに向かって深く頭を下げた。

「奥様……! 良かった、本当に良かったです。私とメアリーで、荷造りはほぼ終わらせております。奥様の研究データと重要な抽出記録は、実家へ送る手配を進めております」

 トーマスもまた、涙ぐみながら深く頭を下げた。
 ヴァレンティン邸の古参たちは、皆クロエの献身と、アーサーの傲慢さを目の当たりにしてきた。

 彼らは皆、クロエの脱出を密かに支援する同志となっていたのだ。

「決行は、三日後の夜。アーサー様とイザベラ様が、王太后様の生誕祭のプレパーティーに出席される間です」

 クロエは静かに、確固たる声で告げた。
 その日、アーサーは確実に家を空ける。

 そして、新作香水の量産に追われているはずのクロエが、工房にこもりきりであると信じ切っているだろう。

「承知いたしました。手筈通りに」

 トーマスが頷いたその時、ダイニングルームの扉が勢いよく開いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたの絶望のカウントダウン

nanahi
恋愛
親同士の密約によりローラン王国の王太子に嫁いだクラウディア。 王太子は密約の内容を知らされないまま、妃のクラウディアを冷遇する。 しかも男爵令嬢ダイアナをそばに置き、面倒な公務はいつもクラウディアに押しつけていた。 ついにダイアナにそそのかされた王太子は、ある日クラウディアに離縁を突きつける。 「本当にいいのですね?」 クラウディアは暗い目で王太子に告げる。 「これからあなたの絶望のカウントダウンが始まりますわ」

【完結】離婚しましょうね。だって貴方は貴族ですから

すだもみぢ
恋愛
伯爵のトーマスは「貴族なのだから」が口癖の夫。 伯爵家に嫁いできた、子爵家の娘のローデリアは結婚してから彼から貴族の心得なるものをみっちりと教わった。 「貴族の妻として夫を支えて、家のために働きなさい」 「貴族の妻として慎みある行動をとりなさい」 しかし俺は男だから何をしても許されると、彼自身は趣味に明け暮れ、いつしか滅多に帰ってこなくなる。 微笑んで、全てを受け入れて従ってきたローデリア。 ある日帰ってきた夫に、貞淑な妻はいつもの笑顔で切りだした。 「貴族ですから離婚しましょう。貴族ですから受け入れますよね?」 彼の望み通りに動いているはずの妻の無意識で無邪気な逆襲が始まる。 ※意図的なスカッはありません。あくまでも本人は無意識でやってます。

君を幸せにする、そんな言葉を信じた私が馬鹿だった

白羽天使
恋愛
学園生活も残りわずかとなったある日、アリスは婚約者のフロイドに中庭へと呼び出される。そこで彼が告げたのは、「君に愛はないんだ」という残酷な一言だった。幼いころから将来を約束されていた二人。家同士の結びつきの中で育まれたその関係は、アリスにとって大切な生きる希望だった。フロイドもまた、「君を幸せにする」と繰り返し口にしてくれていたはずだったのに――。

王族の言葉は鉛より重い

Vitch
恋愛
 フォークライン公爵の娘であるミルシェ。  彼女は間違い無く公爵の血を引く娘だった。  あの日までは……。

私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません

藤原遊
恋愛
政略結婚として、公爵家に嫁いだ私は 愛のない夫婦関係を「仕事」だと思い、正妻の役目を果たしてきた。 夫が愛人を持つことも、 その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。 けれど―― 跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。 その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。 私は悟ったのだ。 この家では、息子を守れないと。 元々、実家との間には 「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。 ならば話は簡単だ。 役目を終えた私は、離縁を選ぶ。 息子と共に、この家を去るだけ。 後悔しているようですが―― もう、私の知るところではありません。

あなたの幸せを、心からお祈りしています

たくわん
恋愛
「平民の娘ごときが、騎士の妻になれると思ったのか」 宮廷音楽家の娘リディアは、愛を誓い合った騎士エドゥアルトから、一方的に婚約破棄を告げられる。理由は「身分違い」。彼が選んだのは、爵位と持参金を持つ貴族令嬢だった。 傷ついた心を抱えながらも、リディアは決意する。 「音楽の道で、誰にも見下されない存在になってみせる」 革新的な合奏曲の創作、宮廷初の「音楽会」の開催、そして若き隣国王子との出会い——。 才能と努力だけを武器に、リディアは宮廷音楽界の頂点へと駆け上がっていく。 一方、妻の浪費と実家の圧力に苦しむエドゥアルトは、次第に転落の道を辿り始める。そして彼は気づくのだ。自分が何を失ったのかを。

夫は運命の相手ではありませんでした…もう関わりたくないので、私は喜んで離縁します─。

coco
恋愛
夫は、私の運命の相手ではなかった。 彼の本当の相手は…別に居るのだ。 もう夫に関わりたくないので、私は喜んで離縁します─。

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い

処理中です...