「妻ならわかってよ」浮気夫が、私の成果を愛人の手柄にしました。〜私なしでも事業が回ると思っているようなので、現実を見せて差し上げましょう~

水上

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第16話:妻の計画

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 王太后の生誕祭に向けたネロリの夜明けの量産作業は、過酷を極めた。
 しかし、クロエの胸中にはかつてのような徒労感も、アーサーへの恨み言も存在しない。

 あるのはただ、三日後に迫った決行の日に向けた、冷徹な計算と静かな高揚感だけだった。

 深夜の工房。
 蒸留器の火を落とし、最後の一滴まで精油を絞り終えたクロエは、重い木の扉に鍵をかけた。

 そして、壁際の目立たない棚の奥から、革張りの分厚いノートを数冊取り出した。

 それは、彼女がアルベール男爵邸にいた少女の頃から書き溜めてきた、精油抽出の温度勾配データと、香りの分子構造を体系化した独自の化学式ノートだった。

 これこそが彼女の最大の武器であり、ヴァレンティン商会に莫大な富をもたらした錬金術の書そのものだ。

(これを置いていくわけにはいかない)

 クロエは手早く、慎重にノートを革の鞄に収めた。

 傍らには、すでにメイドのメアリーが用意してくれた、衣服と当面の資金が入った小さなトランクが置かれている。

 彼女がこの家から持ち出すのは、たったこれだけだ。

 アーサーから贈られた高価な宝石も、彼との結婚を象徴する豪奢なドレスも、すべて寝室のクローゼットに放置していく。

 それらは彼女にとって、もはや自分を縛り付けていた鎖の残骸でしかなかった。

「……奥様」

 工房の裏口から、執事のトーマスが音もなく姿を現した。
 彼の手には、見覚えのない古いトランクが提げられている。

「手筈通り、ダミーのトランクをご用意いたしました。中には紙の束と、奥様の古い私物を詰めております。本物の研究記録と証拠書類は、明日の朝、業者の荷馬車に紛れさせて一足先に王都の監査機関へと送ります」

 トーマスの声は微かに震えていた。
 
 長年仕えたヴァレンティン家を裏切る行為だが、彼の目に迷いはない。
 クロエがどれほど不当に搾取されてきたかを、誰よりも近くで見てきたからだ。

「ありがとう、トーマス。……本当に、あなたたちには苦労をかけるわね」

「とんでもございません。奥様がこれ以上、あの男の道具として消費されるのを見過ごすわけにはまいりません。メアリーも私も、奥様が自由になる日を心から願っております」

 クロエは、完璧な微笑みの裏側で、彼らの忠誠に深く感謝した。
 この屋敷で唯一、自分を人間として見てくれた人たちだ。

「決行は明後日の夜。アーサー様とイザベラ様がプレパーティーに出発された後、ですね」

「ええ。父からの迎えの馬車は、夜の十時に裏門の樫の木の陰に到着する手筈よ。私はそこから実家へ戻り、すぐに王都の監査機関へ身柄の保護を求めるわ」

 クロエの計画は完璧だった。

 アーサーの不正——妻の成果の横取りや、事業資金の私的流用(イザベラへの貢ぎ物など)——の証拠は、すでにトーマスの手によってまとめられ、監査機関へと送られる準備が整っている。

 そして、クロエ自身が姿を消せば、ヴァレンティン商会は新しい香水はおろか、既存の商品の品質を維持することすら不可能になる。

 技術の根幹が失われるのだから当然だ。

「奥様がいなくなれば、旦那様はすぐに気づくでしょう。あの男は、奥様を逃げるはずのない便利な手駒としか思っておりませんから」

「そうね。彼はきっと、私が自分の意思で家を出たなどとは微塵も想像しないでしょうね」

 クロエの唇に、冷ややかな弧が描かれる。
 アーサーは、クロエの沈黙と従順さを愛と服従だと信じ切っている。

 自分がどれほど酷い扱いをしても、妻は決して自分から離れていかないと、致命的な勘違いをしているのだ。

 クロエは、自分の内に冷たい炎が燃え上がるのを感じた。
 それは復讐の炎ではない。

 自分を不当に扱った者たちが、自らの無能さに気づき、勝手に自滅していく様を俯瞰で見下ろすための、極めて理知的な炎だった。

「では、私はこれで。明日の朝、荷物の手配を済ませておきます」

「頼んだわ、トーマス。くれぐれも、気をつけて」

 トーマスが裏口から去った後、クロエは再び一人になった工房を見渡した。
 冷たくなった蒸留器、整然と並べられたガラスのビーカー、そして数え切れないほどの精油の瓶。

 ここは彼女の戦場であり、同時に、アーサーの富を生み出す魔法の泉だった。

(さようなら、私の牢獄)

 クロエは、ダミーのトランクを足元に引き寄せ、ふと窓の外を見た。
 雲の切れ間から、一筋の月光が差し込んでいる。

 それは、長年暗闇の中で耐え忍んできた彼女の目に映る、自由への確かな道標のようだった。

 あと二日。
 あと二日で、この鳥籠から飛び立てる。

 彼女の深い翡翠の瞳には、一切の迷いも、未練もなかった。

 ただ、自らの足で新しい人生を歩み出すための、力強い光だけが宿っていた。
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