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第1章 新生活
第1章 新生活 第2話
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「お母さん、これどういうこと!?」
もう時差なんか構っていられなかった。玄関を入るなり、電話した。
『あー、今日引っ越しだったよね。お疲れ様』
「私の知らない間に終わってるっておかしいでしょっ。しかも、しかも……空き家状態じゃないしっ」
今日の午後いっぱいかける覚悟をしていた段ボールの山は、庭にも玄関にもなかった。「自分の部屋」「物置」「押し入れ」など、行き先をサインペンで書き殴っておいたから、それぞれの場所へ業者さんが運んでくれていた。先生――恭一郎の指示で。
『メールに書いたでしょ、彼も一緒だって』
「いやいやいや、それでこの状況分かる人はいないからっ。大体あれは、帰ってきた時に食事にでも行こうって、それに対するお母さんの返事じゃないっ。ここに住んでる説明にはなってないよ!」
再婚のことも問い詰めたいのに、ブレーキがかかって言えない。怖い。先生は、そばで腕組みして、うんうんって頷いてる。お母さんのマイペースぶりをよく知っているみたい。こんな状況なのに笑いそうになって、同時に、胸がチクッと痛んだ。
『ごめんね、びっくりさせて。でもあんたの高校の時の先生で、人柄も分かってたから、話がトントン拍子で進んでね。じゃあ、お母さんもうちょっと寝たいから。またね~』
電話は一方的に切れた。我が親ながら自由すぎる。長身の先生を見上げて、言葉を探した。
「荷物の整理、俺も手伝うから」
「そうじゃなくてさ……先生、いつからここに住んでるの?」
「去年の四月からだ。春休みに引っ越してきた」
「そんなに……」
お母さんが海外勤務に変わったのは、一昨年の末。私が最後にここに帰ってきたのは大学三年の春休みだった。親戚のお姉ちゃんに、たまにはお茶でもしようよって誘われて。あの時は、こんな話、全然……。
「どうした?」
「ん……何でもない」
「何でもないって顔じゃない。俺をごまかせるわけないだろ」
だって、こんなの言えないよ。言えない……。
「いーずーみ。ほら、俺相手になに遠慮してんだ。言っちまえよ」
腰を屈めて目を合わせてくる。ん?って優しい顔で促されたら、我慢できなかった。
「お母さん、アメリカ行くちょっと前に言ってたの……『いい人が見つかったから心配しないで』って」
「うん」
『若くて素敵な人よ』って……すごく楽しそうな声で」
「うん」
「だから、彼氏できたんだな、って嬉しかった。お父さんが死んでからそういう人いないみたいで、私のこと一生懸命っ……だから、だから……」
でもそれが恭一郎だなんて、しかもこんな関係になってるなんて、どうしたらいいのか分かんないよ……。
「なるほど」
彼は、私の頭をポンポンって手のひらで軽く叩いた。
「補足説明してやるから、よく聞け。俺たちの結婚はただの契約だ。お前のお母さんとの間に、お前としてたようなあんなことやこんなことは、一切ない。今後もない。お互い何の感情もない」
「え……意味分かんない」
契約? っていうか、あんなことやこんなことって。頬が熱くなってくる。先生は私の唇を親指でなぞった。
「具体的に思い出させた方がいいか?」
クラっときた自分に呆れる。この人は元カレでしょ、元カレ! それ以上でもそれ以下でもないのっ。義父だなんて聞いちゃったら、なおさらだよ……。
スッと体を引くと、苦笑して髪を撫でてきた。変わらない手つきに胸が苦しくなる。
「先生、言ってること矛盾してるよ。だって、うちのお母さんの性格はよく知ってるって顔で、さっき頷いてたじゃない……」
私も、言ってること無茶苦茶。どうだっていいじゃない、こんなこと。
「衣純がよく言ってたんだよ。うちの母親、超マイペースで!ってな。それをさっき思い出して、確かになあって思ったんだ」
「それだけ?」
「それだけ」
「……そっか」
喉に詰まった変な塊みたいなものが、小さくなっていく。
「機嫌直せ。オムライス作ってやるから」
「……端っこが焦げたやつ? 少しは上達した?」
「するわけないだろ。あれから誰にも作ってない」
「そ、そうなんだ。じゃあ私、部屋の片付けあるからっ」
これ以上会話を続けていたらやばい気がして、その場を逃げ出した。
「はーっ……」
懐かしい部屋でベッドに寝転ぶと、頭も心臓も落ち着いてきた。
「もしかして今も……」
私、先生のことが好き? ほかの人とうまくいかなかったのは、引きずってたから?
「わかんないよ……」
その時、メッセージが届いた音がした。
「榊さん……」
『お疲れ様です。いよいよだね。緊張しすぎず、香原さんらしい笑顔で会えるのを楽しみにしています』
とくん、とくん、と。明るい音がする。過去のときめきじゃなくて、未来の音。優しくて、あったかい人。別に私に特別優しいわけじゃないと思うけど、明日から毎日会えるのが嬉しい。
「好き、かも」
先生に攫われそうな心を避難させるかのように、私は意識して榊さんで頭の中をいっぱいにしようとしていた。
「衣純ー、メシできたぞー」
階段の下から、先生が呼んだ。駄目、そっちにはときめいちゃ駄目なんだから……。
もう時差なんか構っていられなかった。玄関を入るなり、電話した。
『あー、今日引っ越しだったよね。お疲れ様』
「私の知らない間に終わってるっておかしいでしょっ。しかも、しかも……空き家状態じゃないしっ」
今日の午後いっぱいかける覚悟をしていた段ボールの山は、庭にも玄関にもなかった。「自分の部屋」「物置」「押し入れ」など、行き先をサインペンで書き殴っておいたから、それぞれの場所へ業者さんが運んでくれていた。先生――恭一郎の指示で。
『メールに書いたでしょ、彼も一緒だって』
「いやいやいや、それでこの状況分かる人はいないからっ。大体あれは、帰ってきた時に食事にでも行こうって、それに対するお母さんの返事じゃないっ。ここに住んでる説明にはなってないよ!」
再婚のことも問い詰めたいのに、ブレーキがかかって言えない。怖い。先生は、そばで腕組みして、うんうんって頷いてる。お母さんのマイペースぶりをよく知っているみたい。こんな状況なのに笑いそうになって、同時に、胸がチクッと痛んだ。
『ごめんね、びっくりさせて。でもあんたの高校の時の先生で、人柄も分かってたから、話がトントン拍子で進んでね。じゃあ、お母さんもうちょっと寝たいから。またね~』
電話は一方的に切れた。我が親ながら自由すぎる。長身の先生を見上げて、言葉を探した。
「荷物の整理、俺も手伝うから」
「そうじゃなくてさ……先生、いつからここに住んでるの?」
「去年の四月からだ。春休みに引っ越してきた」
「そんなに……」
お母さんが海外勤務に変わったのは、一昨年の末。私が最後にここに帰ってきたのは大学三年の春休みだった。親戚のお姉ちゃんに、たまにはお茶でもしようよって誘われて。あの時は、こんな話、全然……。
「どうした?」
「ん……何でもない」
「何でもないって顔じゃない。俺をごまかせるわけないだろ」
だって、こんなの言えないよ。言えない……。
「いーずーみ。ほら、俺相手になに遠慮してんだ。言っちまえよ」
腰を屈めて目を合わせてくる。ん?って優しい顔で促されたら、我慢できなかった。
「お母さん、アメリカ行くちょっと前に言ってたの……『いい人が見つかったから心配しないで』って」
「うん」
『若くて素敵な人よ』って……すごく楽しそうな声で」
「うん」
「だから、彼氏できたんだな、って嬉しかった。お父さんが死んでからそういう人いないみたいで、私のこと一生懸命っ……だから、だから……」
でもそれが恭一郎だなんて、しかもこんな関係になってるなんて、どうしたらいいのか分かんないよ……。
「なるほど」
彼は、私の頭をポンポンって手のひらで軽く叩いた。
「補足説明してやるから、よく聞け。俺たちの結婚はただの契約だ。お前のお母さんとの間に、お前としてたようなあんなことやこんなことは、一切ない。今後もない。お互い何の感情もない」
「え……意味分かんない」
契約? っていうか、あんなことやこんなことって。頬が熱くなってくる。先生は私の唇を親指でなぞった。
「具体的に思い出させた方がいいか?」
クラっときた自分に呆れる。この人は元カレでしょ、元カレ! それ以上でもそれ以下でもないのっ。義父だなんて聞いちゃったら、なおさらだよ……。
スッと体を引くと、苦笑して髪を撫でてきた。変わらない手つきに胸が苦しくなる。
「先生、言ってること矛盾してるよ。だって、うちのお母さんの性格はよく知ってるって顔で、さっき頷いてたじゃない……」
私も、言ってること無茶苦茶。どうだっていいじゃない、こんなこと。
「衣純がよく言ってたんだよ。うちの母親、超マイペースで!ってな。それをさっき思い出して、確かになあって思ったんだ」
「それだけ?」
「それだけ」
「……そっか」
喉に詰まった変な塊みたいなものが、小さくなっていく。
「機嫌直せ。オムライス作ってやるから」
「……端っこが焦げたやつ? 少しは上達した?」
「するわけないだろ。あれから誰にも作ってない」
「そ、そうなんだ。じゃあ私、部屋の片付けあるからっ」
これ以上会話を続けていたらやばい気がして、その場を逃げ出した。
「はーっ……」
懐かしい部屋でベッドに寝転ぶと、頭も心臓も落ち着いてきた。
「もしかして今も……」
私、先生のことが好き? ほかの人とうまくいかなかったのは、引きずってたから?
「わかんないよ……」
その時、メッセージが届いた音がした。
「榊さん……」
『お疲れ様です。いよいよだね。緊張しすぎず、香原さんらしい笑顔で会えるのを楽しみにしています』
とくん、とくん、と。明るい音がする。過去のときめきじゃなくて、未来の音。優しくて、あったかい人。別に私に特別優しいわけじゃないと思うけど、明日から毎日会えるのが嬉しい。
「好き、かも」
先生に攫われそうな心を避難させるかのように、私は意識して榊さんで頭の中をいっぱいにしようとしていた。
「衣純ー、メシできたぞー」
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