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第5章 嵐
第5章 嵐 第8話
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ホッとした様子で、でも注意深く私を観察しながら手や肩を撫でてくれる彼は、あの頃の時間に戻ったように錯覚させる。
そうだ、私は彼に別れを告げられて、驚いて悲しくて……二度と会えない覚悟で、あの部屋を出た。「それぞれの道が再び交差した時」なんて、実現する保証はなかった。それでも……「君と僕とはいい仕事ができる」と断言してくれたことが、その後に何度も私の支えになった。恋は戻らなくても、彼に恥ずかしくない仕事がしたい、って。なのに、やっと交差した道を私は自分で壊してしまったのかと、衝撃を受けたんだ。彼は、まだ何も言っていないのに。昨日のことがあって、過敏になりすぎてる。紫のリボンは気になるけど……。
「衣純……」
「ありがと。もう大丈夫」
小さいけど笑みを返すことができた。
「ごめんね。コーヒーが冷めちゃう……」
立ち上がろうとした私を制して、彼は隣に座った。
「これならいいだろう?」
お客様をお迎えする側としては全然よくないんだけど、情けないことに、無理ができる状態じゃない。「いただくよ」とカップを手にした彼に感謝して、この状況を受け入れることにした。
「驚かせてすまない」
急な訪問のことを言っているのか、それともリボンのことなのか。両方だと思う。私は首を小さく横に振った。
「このあと、行くところがあってね。そのことを考えていたんだ。君は安心していていい」
「……うん」
柔らかな声。付き合っていた頃、隣で聞いていたのと同じ。……そういえば彼は、再会の日に言ってたっけ。
――僕の妻になるはずだった、今もその可能性が十分にある君だ。
四月の初めだった。突然始まった恭一郎さんとの同居(しかも義父と娘として)、真との再会に続いて、王子が現れた。驚いて、呆れて、脳内でいっぱい叫んで――あれから半年、私は元カレたちに囲まれて生きている。桜の花びらがいたずらに連れてきたような偶然。
……ううん、偶然なんかじゃないよね。私が社会に出るまでには一人前になっておきたかった、と言った王子。実家から会社に通うことになったのをお母さんから聞いて、出迎えてくれた恭一郎さん。私の教育係として待っててくれた真。
五月の緑、六月の紫陽花、真夏の陽光……みんなと、新しい季節を過ごしてきた。それはまるで、空に大きな虹を描くような日々。人生に対する希望と期待を漠然と抱きながら、元カレたちの生き方に教えられている。彼らはもう、写真を見ては切なく思い出すだけの存在じゃない。私の目の前で生きて、笑って、輝いている。みんな、一生懸命に生きている。別れの記憶の苦さは、少しずつ別のものへと変わってきていた。
それぞれのふとした仕草や言葉にドキッとすることがあっても、四つ目の恋に踏み出した私は、後戻りすることはないと思ってた……昨日、雨に濡れる前までは。
今の私の悩みとして、あの男に投げつけられた言葉の痛みと、榊さんに申し訳ない事態を招いてしまったことと、どちらがより大きいのか、自分でも判然としない。王子は私の様子を気遣いながら、仕事の話はせず共通の知人の話題で和ませてくれた。
「『博士』も相変わらずだ」
「そうなんだ。今はどんな発明してるのかな」
学生時代、二人で何度か会いに行った発明家の話は、乾いた地面に染み込む水のように、私の沈みがちな意識を元気づけてくれた。
「この間は、『タイムマシンでも作るか』と言っていた」
「え、すごい!」
「そのあとがいいんだ。『形あるものを作ろうとするから壊れるんだよな。形のないものを相手にすればいい。つまり時間だ』」
「それって、すごく深い、いいこと言ってるように聞こえるけど……つまり」
「ああ。完成間近で壊れてしまったんだ。料理の機械だった」
想像すると、博士には悪いけど微笑が浮かんでしまう。王子の顔にも苦笑がある。博士に対する親しみの情を、久しぶりに共有した。
懐かしさだけではなく、博士の言葉には胸を衝かれる思いもあった。私は今まさに、形のないものを壊してしまっている最中だから。けれど、王子の気遣いは嬉しかった。唇を噛みたい気持ちは、胸の奥に隠した。
「ありがとう、王子」
そうだ、私は彼に別れを告げられて、驚いて悲しくて……二度と会えない覚悟で、あの部屋を出た。「それぞれの道が再び交差した時」なんて、実現する保証はなかった。それでも……「君と僕とはいい仕事ができる」と断言してくれたことが、その後に何度も私の支えになった。恋は戻らなくても、彼に恥ずかしくない仕事がしたい、って。なのに、やっと交差した道を私は自分で壊してしまったのかと、衝撃を受けたんだ。彼は、まだ何も言っていないのに。昨日のことがあって、過敏になりすぎてる。紫のリボンは気になるけど……。
「衣純……」
「ありがと。もう大丈夫」
小さいけど笑みを返すことができた。
「ごめんね。コーヒーが冷めちゃう……」
立ち上がろうとした私を制して、彼は隣に座った。
「これならいいだろう?」
お客様をお迎えする側としては全然よくないんだけど、情けないことに、無理ができる状態じゃない。「いただくよ」とカップを手にした彼に感謝して、この状況を受け入れることにした。
「驚かせてすまない」
急な訪問のことを言っているのか、それともリボンのことなのか。両方だと思う。私は首を小さく横に振った。
「このあと、行くところがあってね。そのことを考えていたんだ。君は安心していていい」
「……うん」
柔らかな声。付き合っていた頃、隣で聞いていたのと同じ。……そういえば彼は、再会の日に言ってたっけ。
――僕の妻になるはずだった、今もその可能性が十分にある君だ。
四月の初めだった。突然始まった恭一郎さんとの同居(しかも義父と娘として)、真との再会に続いて、王子が現れた。驚いて、呆れて、脳内でいっぱい叫んで――あれから半年、私は元カレたちに囲まれて生きている。桜の花びらがいたずらに連れてきたような偶然。
……ううん、偶然なんかじゃないよね。私が社会に出るまでには一人前になっておきたかった、と言った王子。実家から会社に通うことになったのをお母さんから聞いて、出迎えてくれた恭一郎さん。私の教育係として待っててくれた真。
五月の緑、六月の紫陽花、真夏の陽光……みんなと、新しい季節を過ごしてきた。それはまるで、空に大きな虹を描くような日々。人生に対する希望と期待を漠然と抱きながら、元カレたちの生き方に教えられている。彼らはもう、写真を見ては切なく思い出すだけの存在じゃない。私の目の前で生きて、笑って、輝いている。みんな、一生懸命に生きている。別れの記憶の苦さは、少しずつ別のものへと変わってきていた。
それぞれのふとした仕草や言葉にドキッとすることがあっても、四つ目の恋に踏み出した私は、後戻りすることはないと思ってた……昨日、雨に濡れる前までは。
今の私の悩みとして、あの男に投げつけられた言葉の痛みと、榊さんに申し訳ない事態を招いてしまったことと、どちらがより大きいのか、自分でも判然としない。王子は私の様子を気遣いながら、仕事の話はせず共通の知人の話題で和ませてくれた。
「『博士』も相変わらずだ」
「そうなんだ。今はどんな発明してるのかな」
学生時代、二人で何度か会いに行った発明家の話は、乾いた地面に染み込む水のように、私の沈みがちな意識を元気づけてくれた。
「この間は、『タイムマシンでも作るか』と言っていた」
「え、すごい!」
「そのあとがいいんだ。『形あるものを作ろうとするから壊れるんだよな。形のないものを相手にすればいい。つまり時間だ』」
「それって、すごく深い、いいこと言ってるように聞こえるけど……つまり」
「ああ。完成間近で壊れてしまったんだ。料理の機械だった」
想像すると、博士には悪いけど微笑が浮かんでしまう。王子の顔にも苦笑がある。博士に対する親しみの情を、久しぶりに共有した。
懐かしさだけではなく、博士の言葉には胸を衝かれる思いもあった。私は今まさに、形のないものを壊してしまっている最中だから。けれど、王子の気遣いは嬉しかった。唇を噛みたい気持ちは、胸の奥に隠した。
「ありがとう、王子」
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