元カレに囲まれて

一条咲穂(花宮守から改名)

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第3章 王子

第9話

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 私は今、約二年ぶりに、王子にコーヒーを淹れたところ。今日のリクエストは、ミルクたっぷりにお砂糖ふたつ。CEO専用の応接間で、彼は心地よさそうに香りを吸い込んだ。
「うん、この香りだよ。この味も、何度夢に見たことか」
「大学は?」
「必要な単位は修得済だ」
「ああ、そう……」
「間に合ってよかったよ。君が社会に出るまでには、一人前の男になっておきたかった」
「あの頃から、十分すごかったと思うけど?」
 相変わらずの大仰な言い方も、懐かしい。
 髪は、長いのが気に入っているのか、腰まであるのをひとつにまとめている。……ん? あのリボン。
「ああ、これか。君がくれたのを大事に使っているよ。僕の宝物なんだ」
 うっ。いちいちかわいい。青や金のもあげたのに、ピンク系が好きなんだよね。
「君も座って飲んでくれ。こっちに」
 三人掛けのソファーの隣をポンポンと叩くのもかわいいんだけど、元の、向かい側の席に戻った。
「ふむ。まあ、いいだろう。ああ、そうだ。就職おめでとう」
「ありがと。……あ」
 私が腰を浮かせたのと同時に、彼も扉に目を走らせた。十秒後、扉が開いて榊さんが戻ってきた。一緒に来た橋本さんは、部屋に漂うコーヒーの香りににっこりした。王子を優しく見やり、王子はというと、照れ臭そうに小さく笑った。変わってないなあ、二人のこの感じ。
 榊さんは再び腰を下ろすことなく、鞄を持った。それに倣って、私も帰り支度をする。
「では、今後とも何卒よろしくお願い致します」
 深く礼をする榊さんの隣で、私も頭を下げた。
「よろしくお願い致します」
「こちらこそ」
 未来を――事業のね――信じている王子の、青と緑の瞳。あの頃より強く輝いている。びっくりさせられたけど、それ以上に元気が出た。
 橋本さんが、先に立って扉を開けてくれる。意味ありげに私に頷いたのは……うん、これもあの頃と同じ。「彼を頼みますよ」って言いたいんだよね。だけど、一度すっぱり諦めた恋だから、安易な反応は返せない。もう一度、取引相手として礼をした。「おや」と言いたそうに眉を上げた彼の後ろから、名前を呼ばれた。
「衣純。忘れ物だ」
「え?」
 ソファーを離れる前、きちんと確認したのに。王子は、首を傾げる私に歩み寄り、顔の前で手をちょっと動かした。パッと現れたのは、一輪の真紅の薔薇。榊さんが息を飲んでいる。橋本さんは、とっても温かい眼差し。
「あ、ありがと……」
 反射的に受け取ってしまったけど、いいのかな。フッと微笑んで、洋画の王子様みたいに優雅なお辞儀をして。何も言わないのが、かえって余韻があって。二年前よりますます洗練された。傍らに立つ、現在の憧れの人を見上げると、これがまた……あったかーい眼差し。うぅ、元カレだってバレただろうか。帰りに話した方がいいかな……。
 罪のない薔薇の花は、上品な香りを漂わせている。どこまでもスマートな橋本さんが呼んだエレベーターは、もう扉を開けて待ち構えていた。

「はぁ……」
 下降するエレベーターの中、ため息が漏れる。くるんと茎を回してみる。棘のない、私が好きだと言った種類。よりによってこの色。橋本さんの素振りといい、王子はつまり、そういうつもりなんだろうか。
『君と僕はいい仕事ができる。必ずだ。その時にまた男として見てくれるなら、二度と離しはしない』
 二年前の、別れ際の言葉。
『いい男にならねばな』
 うん、いい男になったよ。世界中の女性が悶え死ぬくらい。でも、今の私は――。
「ん? 疲れたかい?」
 はい、ある意味では。それを上回る嬉しい気持ちもあるけど。……じゃなくて。
「大丈夫です。びっくりしましたけど」
 王子の会社の中のエレベーターでは、これが精一杯。一階に着いてから、薔薇のトンネルを抜けて駐車場に戻るまでの間も、無難なことだけ話した。
「さて」
 車に乗り込み、ハンドルを握った榊さんは、人懐っこい表情で提案した。
「コーヒーを飲みたくなったな。お茶を付き合ってもらえるかい?」
「え、あ、はい」
 そういう顔するんだーと見とれて、返事が遅れた。
「こんなおじさんが相手じゃ申し訳ないけど」
「おじさんじゃないですっ」
「え?」
「あ、えっと」
 勢い込んで否定してしまったー!
 王子と付き合ってたことがバレるだけならまだしも、榊さんに惹かれてるの気付かれたらどうするのよ……。
「ハハッ、そうか。ありがとう。元気があって安心したよ」
 快活な笑いが、うろたえる私まで笑顔にしていく。エンジンがかかり、車が発進した。
「すみません、いきなり大声出して」
 とりあえず、そこは謝る。
「いや。その勢いで、話してみないかい? よかったら……上司としてというよりは友人として、何でも聞くよ」
「……やっぱり、バレてます?」
「香原さんの様子と、真っ赤な薔薇の花、いつになく嬉しそうだった橋本さん、と。推理の材料はこのくらいだけどね」
「推理小説、お好きなんですか?」
 いや、待って私。その質問、今することじゃない。いくら共通点が見つかりそうで嬉しいからって。
「面接の時、話してくれただろう? ちょうど新作が出ていたから、読んでみたんだ。おもしろかったよ」
「私も一晩であれ読みました!」
 そのあとは、ミステリー談義に花が咲いた。榊さんは、駐車場に車を入れながら「あいつもミステリーが好きだったな」と呟いた。お友達のことかな?

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