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第5章 嵐
第1話
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台風がいくつも生まれては、日本近辺をうろうろする時期。久しぶりに、榊さんと一緒に出かける仕事があった。秋の色を取り入れた新しいスーツは、彼を少し若く見せている。
「素敵ですね」
「気に入ったかい?」
「はい、とっても」
「よかった。君に久しぶりに会うのに、おじさんくさい格好をするわけにはいかないからね」
見知らぬ人たちに囲まれた電車の中、ここだけ親密な空気が流れる。彼は今夜から出張という都合もあって、車は置いてきている。大人の魅力と若々しい装いは、あからさまではなくても、大勢の人の目を惹きつけていた。
午後の予定をこなし、最後に一件、会食があった。そこで私は、自分が直面している現実を叩きつけられた。
会場はお座敷。先方はうちの会社と古くからお付き合いがあり、私も何度か訪問している。けれど今日のメンバーには、私が初めて顔を合わせる人物がいた。顔立ちや髪型のせいもあるかもしれないけど、全体的に鋭い……少し怖い印象を与える男性。年は榊さんと同じくらい。私のことを、上から下までじろりと眺め、険悪な空気を醸し出していた。
そのことを除けば、会食自体は穏やかに進行していった。榊さんが出張を理由にアルコールを断ったので、私も断りやすかった。
波乱が起きたのは、その男性がだいぶお酒が進み、顔が赤くなってきた頃。言葉も姿勢も崩れてきたので、榊さんがちらりと時計を見た時だった。絡まれる前に、私を連れ出そうと考えてくれたのだろうけど……時すでに遅し。彼は榊さんに嘲りの目を向け、吐き捨てるように言った。
「鬼の榊も堕ちたもんだ」
……え? 今、「鬼」って。どういうこと?
「お前の微笑は阿修羅より怖いって、業界じゃ有名な話だ。恨みも山ほど買ってるんだろうなぁ。それで殊勝なことに独身貴族で来たらしいが、その女に陥落したってわけか」
場が凍り付いた。同行の人たちがたしなめても、彼は止まらない。私にも嘲笑を浴びせてきた。
「あんた、カリーダのCEOとも懇意なんだって? はっ、新入社員が聞いて呆れる。次は誰を狙ってるんだ?」
狙ってる?
……何を言われているの? 私は今、一体何を――。
「誰って……」
「答える必要はない」
榊さんの大きな声が、場を制圧した。
「君がそんな人間ではないことを、僕もほかの人間も百も承知だ。そうですよね?」
先方のメンバーが、一人を除き、はっきりと頷いてくれた。榊さんは、男を厳しい目で見据えた。
「あなたの立場なら当然ご存じのことと思いますが、取引先で部下がセクハラを受けた場合、会社はその取引先に是正を求めることができる。ほかの部下にも聴き取りを行います。香原さん、帰ろう」
「は、はい」
立ち上がりながら、めまいを覚えた。駄目、ここで倒れるわけにはいかない……。足が震える。部屋を出るには、あの男のそばを通らないといけない。
「こっちだ」
榊さんが、スッと立ってすぐ脇の暖簾を上げ、隠れていた襖を示した。細い通路に続いているみたい。皆さんに一礼し、慎重に歩いた。
「帰れ、帰れ! 汚れた女の顔なんざ見たくねぇ」
――汚れた女。
私のこと……?
通路に踏み出しかけていた足が止まる。
「振り向かないで。先に出ていなさい。すぐ行くから」
榊さんに促され、部屋の外へ出た。背中で戸が閉まり、しゃがみ込んでしまった。何で? 私……そんなつもりじゃ。王子と会ったのは、彼がカリーダに来るよりずっと前。榊さんとだって、ただ、好きなだけで……。鬼って、何……。
吐き気を堪えながら、榊さんを待った。私には聞かせたことのない、ゾクッと来る声で話している。内容は、頭に入ってこない。
寒い。残暑の時期だから冷房が効いてる。それだけじゃなくて、体の中が凍えていく感覚。
「うっ……うぅ」
嗚咽の声を抑えきれない。涙が滲む。駄目、まだ仕事中……。
背後の襖がさらりと開き、閉まった。
「待たせたね。行こうか。立てるかい?」
「はい……」
榊さんの腕につかまって、立ち上がった。この通路は、お客が急な電話などで席を外す時のため、設けられた空間らしい。壁の案内図は、ここから、お店の入口の脇へ出られることを示していた。
彼は数歩歩いて立ち止まり、私を抱きしめた。頭を、背中を撫でてくれる。どっと溢れそうな感情を、唇を噛んで押しとどめた。
「泣いていいんだよ。当然のことだ。あんな侮辱は許せない」
「だい、じょうぶ……です」
新しいスーツ、汚しちゃう――泣くのは悔しい――榊さんは出張なんだから足留めしちゃいけない――。
「本当に……頑張り屋さんだ」
私の呼吸が整うまで、髪を撫でていてくれた。
「素敵ですね」
「気に入ったかい?」
「はい、とっても」
「よかった。君に久しぶりに会うのに、おじさんくさい格好をするわけにはいかないからね」
見知らぬ人たちに囲まれた電車の中、ここだけ親密な空気が流れる。彼は今夜から出張という都合もあって、車は置いてきている。大人の魅力と若々しい装いは、あからさまではなくても、大勢の人の目を惹きつけていた。
午後の予定をこなし、最後に一件、会食があった。そこで私は、自分が直面している現実を叩きつけられた。
会場はお座敷。先方はうちの会社と古くからお付き合いがあり、私も何度か訪問している。けれど今日のメンバーには、私が初めて顔を合わせる人物がいた。顔立ちや髪型のせいもあるかもしれないけど、全体的に鋭い……少し怖い印象を与える男性。年は榊さんと同じくらい。私のことを、上から下までじろりと眺め、険悪な空気を醸し出していた。
そのことを除けば、会食自体は穏やかに進行していった。榊さんが出張を理由にアルコールを断ったので、私も断りやすかった。
波乱が起きたのは、その男性がだいぶお酒が進み、顔が赤くなってきた頃。言葉も姿勢も崩れてきたので、榊さんがちらりと時計を見た時だった。絡まれる前に、私を連れ出そうと考えてくれたのだろうけど……時すでに遅し。彼は榊さんに嘲りの目を向け、吐き捨てるように言った。
「鬼の榊も堕ちたもんだ」
……え? 今、「鬼」って。どういうこと?
「お前の微笑は阿修羅より怖いって、業界じゃ有名な話だ。恨みも山ほど買ってるんだろうなぁ。それで殊勝なことに独身貴族で来たらしいが、その女に陥落したってわけか」
場が凍り付いた。同行の人たちがたしなめても、彼は止まらない。私にも嘲笑を浴びせてきた。
「あんた、カリーダのCEOとも懇意なんだって? はっ、新入社員が聞いて呆れる。次は誰を狙ってるんだ?」
狙ってる?
……何を言われているの? 私は今、一体何を――。
「誰って……」
「答える必要はない」
榊さんの大きな声が、場を制圧した。
「君がそんな人間ではないことを、僕もほかの人間も百も承知だ。そうですよね?」
先方のメンバーが、一人を除き、はっきりと頷いてくれた。榊さんは、男を厳しい目で見据えた。
「あなたの立場なら当然ご存じのことと思いますが、取引先で部下がセクハラを受けた場合、会社はその取引先に是正を求めることができる。ほかの部下にも聴き取りを行います。香原さん、帰ろう」
「は、はい」
立ち上がりながら、めまいを覚えた。駄目、ここで倒れるわけにはいかない……。足が震える。部屋を出るには、あの男のそばを通らないといけない。
「こっちだ」
榊さんが、スッと立ってすぐ脇の暖簾を上げ、隠れていた襖を示した。細い通路に続いているみたい。皆さんに一礼し、慎重に歩いた。
「帰れ、帰れ! 汚れた女の顔なんざ見たくねぇ」
――汚れた女。
私のこと……?
通路に踏み出しかけていた足が止まる。
「振り向かないで。先に出ていなさい。すぐ行くから」
榊さんに促され、部屋の外へ出た。背中で戸が閉まり、しゃがみ込んでしまった。何で? 私……そんなつもりじゃ。王子と会ったのは、彼がカリーダに来るよりずっと前。榊さんとだって、ただ、好きなだけで……。鬼って、何……。
吐き気を堪えながら、榊さんを待った。私には聞かせたことのない、ゾクッと来る声で話している。内容は、頭に入ってこない。
寒い。残暑の時期だから冷房が効いてる。それだけじゃなくて、体の中が凍えていく感覚。
「うっ……うぅ」
嗚咽の声を抑えきれない。涙が滲む。駄目、まだ仕事中……。
背後の襖がさらりと開き、閉まった。
「待たせたね。行こうか。立てるかい?」
「はい……」
榊さんの腕につかまって、立ち上がった。この通路は、お客が急な電話などで席を外す時のため、設けられた空間らしい。壁の案内図は、ここから、お店の入口の脇へ出られることを示していた。
彼は数歩歩いて立ち止まり、私を抱きしめた。頭を、背中を撫でてくれる。どっと溢れそうな感情を、唇を噛んで押しとどめた。
「泣いていいんだよ。当然のことだ。あんな侮辱は許せない」
「だい、じょうぶ……です」
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