TOKOSHIE

一条咲穂(花宮守から改名)

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第1章 幽霊探偵

第3話*

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 緑の多い場所に新興住宅地を出現させたものの、後ろめたくて、時々ポツポツと植物を増やしている。大小の公園と高層マンションは、計画通り。店は駅前に集中しているから、駅から少し歩くと、寂しい場所もそれなりにある。葉桜はこの町に対して、どうも批判的になる。
「バレてるんじゃない?」
 耳に届く声は、ほかの者には聞こえない。だから、人前で迂闊に返事はできない。
「警部さん、鋭いものね。用心した方がいいわ」
 お前が言うか、と反論したい。だが、ここではまずい。人目につかない場所へ行ってからだ。
「そろそろ尾行がつくかもね。今のところは、まだいないようだけど」
 だからそれは誰のせいだと思ってる、と言いたい。辺りを見回す振りをして視線を合わせると、妻はクスッと笑った。
「怖い目。その目、好きよ」
 生前よりは、やや青白い頬。その下は、毎日服が変わる。何となく幽霊は、いつも同じ格好で、髪を振り乱して現れるものだという思い込みがあった。なのに彼女は、髪をきちんとセットして、メイクを施し、流行を敏感に取り入れたファッションでついてくる。人生楽しそうだな、とうっかり言いそうになる。
 はぁ、とため息をつくと、耳がひんやりとした。続いて、こめかみ。冷え切った唇を寄せながら、肩に腕をまわして絡み付いてくる。自在に浮遊してやりたい放題だ。ちょっと、寒い。あんなに温かい体だったのに。
「あら、来たわ」
 彼女は後ろを見てから、共犯者の目で夫の顔を覗き込んだ。ここで振り向くような馬鹿な真似はしない。一切の反応を悟らせず、歩いていくだけだ。気配と状況からみて、東雲の部下の大崎おおさきだろう。尾行の練習台にされたようだ。
(あいつなら、まける。警部の酔狂に付き合ってやるか)
 べったりとくっついている妻はそのままに、何食わぬ顔で歩き続ける。二駅分歩いて、向こうが諦めたのを確信してから、目的地へ戻った。
「あの子は?」
「純ちゃんなら、冥界への一本道の途中よ」
「そうか……」
 自分に憑りついている妻と二人三脚で探偵業を始めて、五年になる。霊である妻の力によるところが大きいから、おんぶに抱っこと言った方がいいかもしれない。なにしろ琴絵ことえは、祓った霊を冥界へ案内する役までこなしてくれるのだ。
「ところで。私、おばさんじゃないから」
「途中で言い直しただろ」
「あなたはあの頃からおじさんだけどね」
「二十代と三十代の壁は厚いな」
 念願の刑事になれて、仕事に励んだ。天職だと思った。事件続きでも苦にならなかった。家を出る時に見る琴絵の顔が、だんだん寂しそうになっていくのは気付いていたが、「そのうちまとめて休み取るから。そしたら旅行でもしような」と言って我慢させた。
(もっとほかに言うべきことがあったはずだ。何かひと言……空約束なんかよりましな言葉が。それを惜しんだばかりに……)
「駄目よ、そっちは」
「……っと」
 過去に入り込んでいて、現在の足元が危うくなった。一歩先は深淵だ。口をぱっくりと開け、葉桜が足を踏み外して落ちてくるのを待っている。底なしの、巨大な落とし穴。当然これも、通常の人間には見えない。穴が広がるその先には、どす黒い靄が渦巻く一角がある。葉桜を誘い、拒む。
 妻は、同じ方を黙って見つめている。黙っているのは口だけだ。指先は、かつての閨を思い出させる動きで、葉桜の熱を呼び覚まそうとしている。精神を集中させれば、その部分の感触を伝えることができる彼女は、唇や舌も巧みに使い、男の欲を煽ってくる。情事に特有の熱さではなく、冷感をもって官能に引き込もうとする仕草は、愛らしくも恐ろしい。それに慣れていくこともまた、恐ろしく……たまらなく甘美なことだった。抜け出せない日常。自分がおかしくなっていくことは承知の上で、まとわりつく、この世のものならぬ手を振り払うことはしない。
(今日はまた、執拗だな……無理もないか。場所が場所だ)
 コートのポケットに手を突っ込み、昂る体を微塵も感じさせない涼しい顔で、ある一点を見つめ続ける。
「まだそんな顔していられるのね。憎らしい……」
 幽霊妻は、拗ねて首筋に吸い付いてきた。無論、痕はつかない。寂しそうに吐息を漏らし(呼吸はしていないわけだが)、地に下りてコートの下から潜り込んできた。さすがにギクッとする。
「……こら」
 いたずらをする猫を甘やかすようにたしなめると、またクスッと笑った。生きていた頃に何度も自分を貫いたモノを、服の上から愛撫してくる。
(勘弁してくれ……ほんっと、場所を考えろよ……)
 無生物を直接動かすことは叶わないが、念動力で脱がせることは可能だ。ベルトが外され、ファスナーが下ろされた。いくら何でもまずい。
「……ふぅ」
 幸い、ここは公園だ。疲れたふりをして、脇にあったベンチに腰を下ろした。「今日はこれを着て。風邪を引いてほしくないから」とコートを勧めてきたのは、こういうことか。
(公衆の面前で俺を辱めるため……じゃないんだよな。俺が何をされてるかは、誰にも見え、ない……あー……やばい、な。駄目だ、堪えてみせる……)
 体を明け渡すことはしない、と線引きしている。まとわりつくのはいい。話しかけてくるのもいい。だが、彼女の誘惑に乗って魂を溶け合わせてはならない。その時、自分の存在は性質を変えてしまうだろう。
(でも……この状態で、出すだけ、なら……セーフな気がする……)
 水音が聞こえる。局部が激しく脈打ち、脳が痺れるような快感に支配されかけている。境界線を越えつつあることは明白だ。一生懸命な妻はかわいい、これでイかなかったらがっかりするだろう……。
(琴絵……、そこ、あ、ぁっ―――)
「くっ……」
 じゅるっと一際大きな水音と共に強く吸われ、搾り取られていく。コートが中からぼんやり光っているのは、精を取り込んだ――つまりは飲み込んだ――彼女が、エネルギーを得た証だ。コートを汚さずに済んだのは、ありがたいといえばありがたいが……。
 口を手で覆い、荒い息と頬の紅潮を隠す。道行く人には何とか悟られずに済んだようだが、うめき声は聞かれたかもしれない。突然気分が悪くなり、うずくまっているようにでも見えるだろうか。
 革靴がアスファルトを引っ掻く音に顔を上げると、立ち尽くしている若い女と目があった。木の陰から、出るに出られずにいたらしい。ベージュのコートに身を包んでいる。ハッとして駆け出した女のしなやかな背に、妙に惹かれた。
「通報されないといいがなあ」
 空に向かってぼやく。妻はけろりとした顔で隣に座り、女が駆けていった方をじっと見ている。足音が聞こえなくなると、いつものように葉桜の背に張り付き、例のどす黒い一角を感情のない目で見据えた。
「私が死んだ場所……」

 妻はそれから毎晩、口から精を取り込み続けた。飲んだものが幽体に馴染んでいく際の輝きは、日増しに強くなっていく。光がおさまると、彼女は甘えるように夫の胸をなで、目で訴えてくる。それを、首を横に振って拒むのも毎晩のことだった。正直、女の中で爆ぜるあの感覚を味わいたくなってはいるが、まだ死にたくはない。泣きそうな表情を微笑みでなだめ、眠りにつく。その繰り返しだ。眠気は、絶頂からくる脱力のせいだけではない。明らかに、命が縮まってきている。それでもまだ、一気に自殺をする気にはなれない。
「琴絵っ……」
 目を閉じ、昇り詰めれば、柔らかな温もりを思い出す。もう一度あの夢を見られるのかと、うっとりと目を開けば、青白い肌が明滅し、震えているだけだ。夫と呼び、妻と呼ばれた愛しい男も、今は幽体を維持するためのエネルギー源に過ぎないのか。
(俺はいつまで、正気を保っていられるだろう。いや、すでに……)
 正気を失っているのかもしれない。
 ならば、いっそのこと。
(まだ、だ……)
 抱きたい。
 妻を抱きたい。
 抱いたら、死ぬ。
 では――妻以外の女なら?
 外は氷点下だ。雪がちらついてもおかしくはない。その冷気よりも冷たい快感に、心身を囚われ、自制を失っていく男。琴絵の姿をとった幽体の、ゾッとするほど赤い唇が弧を描いた。
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