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第2章 若き刑事の苦悩
第1話
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大崎孝信は困っていた。
幽霊は苦手だ。何なら、あの世をひっくるめて世界一苦手だ。
「なのに、どうして! よりにもよって僕に憑くんですかぁっ」
あの日、白骨化した葉桜康平を見た。見てしまった。奥さんの幽霊もいた。こう言っちゃなんだが、かなり凶暴だった。「苦手なものは、怖いもの」を公言している大崎には、刺激が強すぎた。そのせいか、K県警のパトカーに乗り込もうとしてから、警視庁に帰り着くまでの記憶がない。「え? さっき乗ったばっかりでもう着いたの? 泊まるんじゃなかったっけ」と心の底から驚いた。松井は「お前、大丈夫か。昨夜、俺のこと散々蹴り飛ばしておいてそりゃあないだろ」と呆れた。東雲警部には、それはそれは気の毒そうに見つめられた。
車を降りて、別件で先を急ぐ松井を見送った。庁舎に入ってからも、どうにもわけがわからなかった。
「君は昨夜、しっかり二人前食べて我々を驚かせたあと、松井君のアパートに泊まったんだよ。本当に覚えていないのか? 朝食もたくさん食べたそうだから、眠くなってさっきまで寝てたんじゃないのかね」
「それで、寝ぼけてるっていうんですか? うーん……」
「まあ今日は簡単な報告でいいから、早く帰って休みなさい」
帰れば、必然的に一人になる。普段は気楽な独身生活だが、昨日の恐怖がまだ体に纏わりついているような……皮一枚増えたというか、変な感じがある。しばらく親のところに泊まった方がいいかもしれない。
顔を合わせる同僚たちのコメントは、まちまちだった。「海辺の町でよっぽどうまいもの食ってきたんだな。顔がつやつやしてるぞ」と笑う者もいれば、しばし絶句してからただひと言、「大丈夫か」と尋ねる者もいた。大丈夫かどうか、こっちが知りたい。
「はぁ……」
帰り支度を済ませ、みんなにも挨拶をして、庁舎を出る前にトイレに寄った。ひんやりして、寒い。
手を洗いながら、ふと鏡を見た。見なければよかった。自分の後ろの方が、何だかぼやけて写っている。鏡のこちら側に目を移すと、白いもやが、ふわふわ、ぽわぽわと腰の周りをうろついていた。
「ひっ……」
悲鳴が喉まで出てきた時、『それ』はヒュッと引っ込んだ。大崎の体内に引っ込んだ……ように見えた。
「いやいやいやいや」
腰をくいっと動かしてみた。異常はなさそうだ。つまり、金縛りとかの。鏡の中も、正常に戻った。
(違うっ。戻ったんじゃない、目の錯覚だったんだ)
手を拭き、鏡に向かってきりっと顔を引き締め、「よし」と気合を入れた。
――おっと、やばいやばい。はみ出しちまった。
「ん……? 今、何か……」
――なかなか難しいもんだなあ。
今度ははっきり聞こえた。頭の中に、声が直接届いた。ざわっと全身に悪寒が走る。ふるふると首を横に振り、背中を廊下へ通じるドアにぺったりくっつけた。後ろ手にドアを開けて出ればいい。泣きべそをかいているのを見られるなんて刑事としては最悪の事態だが、そんなことは言っていられない。
(あ、開かない!?)
ガチャガチャと音を立て、何度試みても、鍵がかかったままだ。大体、共用トイレの出入り口なんか、誰が鍵をかけるというのか。
(僕はかけてないぞっ)
偶然なのか『何か』に仕組まれたのか、ここにほかの人間はいない。人間以外のものならいそうだが。
(誰か、気付いて……助けてっ)
叫びたくても、声が出ない。人通りの多い廊下で、利用者の多いトイレなのに、おかしい。ドアが異常な音を立てていることに、誰も気付かないのだろうか。
(東雲けーぶー! 松井ーっ)
庁舎にいるはずのない松井にまで、心の中から全力で助けを求めた。
(ゆ、夢だ……そうだ、夢だよっ。僕はトイレに入ってすぐ、眠くて寝ちゃったんだ。これは全部悪い夢で、ほんとは何人も人がいて……って、だったら誰か早く起こしてーっ)
歯がガチガチと鳴る。神経が限界に近い。声を出せれば恐怖を逃がせるのに。
まだ明るいからつけていない天井の蛍光灯が、ちらちらと騒ぎ始めた。
(あ、あ、もう終わりだ……)
ドアノブにしがみついて意識を手放そうとした時、呑気な声が聞こえた。やけにはっきりと。
「悪い、悪い。やっと安定したよ。これで姿を見せられる」
「は……?」
ぽかんと宙を見上げた。恐怖が脳天を突き抜けた。五年前に死んだ男が浮かんでいる。
「骨じゃない状態でまともに対面するのは初めてだな。葉桜康平だ。よろしく」
(よろしくされたくないーっ)
今度こそ、意識が途切れた。
幽霊は苦手だ。何なら、あの世をひっくるめて世界一苦手だ。
「なのに、どうして! よりにもよって僕に憑くんですかぁっ」
あの日、白骨化した葉桜康平を見た。見てしまった。奥さんの幽霊もいた。こう言っちゃなんだが、かなり凶暴だった。「苦手なものは、怖いもの」を公言している大崎には、刺激が強すぎた。そのせいか、K県警のパトカーに乗り込もうとしてから、警視庁に帰り着くまでの記憶がない。「え? さっき乗ったばっかりでもう着いたの? 泊まるんじゃなかったっけ」と心の底から驚いた。松井は「お前、大丈夫か。昨夜、俺のこと散々蹴り飛ばしておいてそりゃあないだろ」と呆れた。東雲警部には、それはそれは気の毒そうに見つめられた。
車を降りて、別件で先を急ぐ松井を見送った。庁舎に入ってからも、どうにもわけがわからなかった。
「君は昨夜、しっかり二人前食べて我々を驚かせたあと、松井君のアパートに泊まったんだよ。本当に覚えていないのか? 朝食もたくさん食べたそうだから、眠くなってさっきまで寝てたんじゃないのかね」
「それで、寝ぼけてるっていうんですか? うーん……」
「まあ今日は簡単な報告でいいから、早く帰って休みなさい」
帰れば、必然的に一人になる。普段は気楽な独身生活だが、昨日の恐怖がまだ体に纏わりついているような……皮一枚増えたというか、変な感じがある。しばらく親のところに泊まった方がいいかもしれない。
顔を合わせる同僚たちのコメントは、まちまちだった。「海辺の町でよっぽどうまいもの食ってきたんだな。顔がつやつやしてるぞ」と笑う者もいれば、しばし絶句してからただひと言、「大丈夫か」と尋ねる者もいた。大丈夫かどうか、こっちが知りたい。
「はぁ……」
帰り支度を済ませ、みんなにも挨拶をして、庁舎を出る前にトイレに寄った。ひんやりして、寒い。
手を洗いながら、ふと鏡を見た。見なければよかった。自分の後ろの方が、何だかぼやけて写っている。鏡のこちら側に目を移すと、白いもやが、ふわふわ、ぽわぽわと腰の周りをうろついていた。
「ひっ……」
悲鳴が喉まで出てきた時、『それ』はヒュッと引っ込んだ。大崎の体内に引っ込んだ……ように見えた。
「いやいやいやいや」
腰をくいっと動かしてみた。異常はなさそうだ。つまり、金縛りとかの。鏡の中も、正常に戻った。
(違うっ。戻ったんじゃない、目の錯覚だったんだ)
手を拭き、鏡に向かってきりっと顔を引き締め、「よし」と気合を入れた。
――おっと、やばいやばい。はみ出しちまった。
「ん……? 今、何か……」
――なかなか難しいもんだなあ。
今度ははっきり聞こえた。頭の中に、声が直接届いた。ざわっと全身に悪寒が走る。ふるふると首を横に振り、背中を廊下へ通じるドアにぺったりくっつけた。後ろ手にドアを開けて出ればいい。泣きべそをかいているのを見られるなんて刑事としては最悪の事態だが、そんなことは言っていられない。
(あ、開かない!?)
ガチャガチャと音を立て、何度試みても、鍵がかかったままだ。大体、共用トイレの出入り口なんか、誰が鍵をかけるというのか。
(僕はかけてないぞっ)
偶然なのか『何か』に仕組まれたのか、ここにほかの人間はいない。人間以外のものならいそうだが。
(誰か、気付いて……助けてっ)
叫びたくても、声が出ない。人通りの多い廊下で、利用者の多いトイレなのに、おかしい。ドアが異常な音を立てていることに、誰も気付かないのだろうか。
(東雲けーぶー! 松井ーっ)
庁舎にいるはずのない松井にまで、心の中から全力で助けを求めた。
(ゆ、夢だ……そうだ、夢だよっ。僕はトイレに入ってすぐ、眠くて寝ちゃったんだ。これは全部悪い夢で、ほんとは何人も人がいて……って、だったら誰か早く起こしてーっ)
歯がガチガチと鳴る。神経が限界に近い。声を出せれば恐怖を逃がせるのに。
まだ明るいからつけていない天井の蛍光灯が、ちらちらと騒ぎ始めた。
(あ、あ、もう終わりだ……)
ドアノブにしがみついて意識を手放そうとした時、呑気な声が聞こえた。やけにはっきりと。
「悪い、悪い。やっと安定したよ。これで姿を見せられる」
「は……?」
ぽかんと宙を見上げた。恐怖が脳天を突き抜けた。五年前に死んだ男が浮かんでいる。
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今度こそ、意識が途切れた。
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