TOKOSHIE

一条咲穂(花宮守から改名)

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第2章 若き刑事の苦悩

第9話

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 次の日。庁舎で顔を合わせた東雲警部に、開口一番言われた。
「やあ、大崎君。昨日はお手柄だったな。ご苦労さん」
 これだけならいいが、そのあとがいけなかった。
「退職しても幽霊探偵で食っていけるな。その方が実入りがいいかもしれんぞ」
「ぜっっっっったいに! いやですっ」
 神経が疲弊して二十代で死ぬ。やりたいことは、まだまだたくさんある。
「すまん、すまん。ところで今日は、『彼』の事務所を訪ねることになったんだが、行けるかね?」
「彼、とは……まさか」
「俺だろ」
 本物の幽霊探偵が返事をした。警部がそれを(聞こえてはいないが)肯定する。
「葉桜君の事務所だよ。謎はかえって増えたわけだからね。背後関係を含めて、我々に引き続き捜査しろとのことだ」
「はぁ……わかりました」
 行けるかね、とは、警部なりの気遣いだろう。結局は優しいのだ。怖がりの部下をこれ以上関わらせてよいものかと、気にしてくれている。
「何なら今から行ってきます」
「そうかね。まあ、顔色は一昨日よりずっといいが……くれぐれも、無茶はいかんよ」
「はい」
 今さらですから、と心の中で付け足した。

「おかしい」
 葉桜探偵事務所が入っているビルが見えてくると、周囲には見えない相棒が呟いた。
「正常だ」
「どっちなんです」
 独り言の振りをして小声で聞けば、それほど怪しまれない。イヤホンはしていないが、スマートフォンを手に歩けば、誰かと通話をしているように見えないこともない。時代に感謝しながら、大崎は足を止めた。
「何で止まるんだ」
「おかしいって言ったじゃないですか。何かいるんでしょう」
「ん? ああ……そういう意味じゃないから、心配するな」
 あっさり信じて探偵事務所のある二階へ上がり、嘘つきっと思った。
 ドアの前に、若い女性がいた。肩までの細くつややかな髪。明るい色でまとめられた、清潔感のある服装。まっすぐにこちらを見た大きな瞳は日だまりを思わせる。春の光が舞い降りたかのようだ。古いビルの廊下だけでなく、大崎の胸の奥にも。だが、全体的に憂いが漂っている。
 葉桜は小さく舌打ちした。通常なら聞き逃すことのないその音は、大崎の耳には届かなかった。心に、むくむくと花が咲き始めている。何の根拠もなく、彼女の名前も素性も知らないうちから、「この人のためなら何でもしてあげたい」という思いが沸き起こる。 廊下の空気は冷え切っているのに、ほわんと暖かいのはなぜだろう。
 女性は小首をかしげ、ぺこりと一礼した。
(か、かわいいっ)
 じーんと感動が体を突き抜ける。こういうのなら、いくらでも突き抜けてもらいたい。事務所の主が「手遅れか。ったく……」と言っているが、意味不明だから無視する。声をかけなくては。何か印象的な、かっこいいことを。
「人間……ですよね?」
 出てきた言葉に、自分を顎の下から殴りたくなった。彼女はまた首を傾げ、困ったように口を開いた。
「ええ。あの……幽霊じゃないと、駄目ですか?」
 ぶんぶんと首を横に振った。
(やったー! 気遣いなのか天然なのかわからないけど最高の返しだ! 自己申告の域を出ないにしても人間だっ。そうだ、足……)
 彼女の足を正視し、いったん目を逸らしてからまた見た。ぼやけない。踊り出したい気分だ。
「とんでもないっ。人間の依頼者様、大歓迎です! 僕は葉桜さんの助手で、刑事もやってます大崎孝信です。さあ、どうぞどうぞ」
 鍵は、上の許可を得て持ってきている。葉桜が例のペンションの前に泊まったホテルに、忘れ物として保管されていた私物の中にあったものだ。
「そういや琴絵のやつ、俺だけ飛ばして荷物は置いてきてたんだな」
 鍵の持ち主が何か怖いことを言っている。あのホテルで何があったのかは、いまだ捜査中だ。彼がそれまで転々とした宿泊施設と異なるのは、女性の遺体がなかったこと。ベッドは、もう使い物にならないほどぐっしょりと濡れ、一部は凍り付いていた。思い出したら手が震えた。うまく鍵穴に入らない。
「大丈夫ですか? 刑事さん……」
 しっとりとした、優しい声だ。
(大事に育てられたお嬢さんなんだろうな。力になってあげないと)
 気持ちが静まり、鍵がすっと穴に入った。同時に、自分の中の未知の扉が完全に開いた。琴絵の怨念と愛情も、なつが百六十年待ち続けたことも、葉桜が人間だろうと幽霊だろうと妻を恋い慕っていることも……理解した。
(理屈じゃないんだ)
 目の前のドアは灰色だが、いまや世界が薔薇色に見える。
「お待たせしました。あ、ちょっと待ってくださいね。数日留守にしていたので、中が散らかってるかも。先に僕が入って確かめますので」
 何しろ、五年前に死んだ男が、幽霊妻の力を借りて営んでいた事務所だ。彼が表向きにも『死んだ』今、不要になった場所として打ち捨てられ、物凄く想像したくない状態になっているかもしれない。数軒先の喫茶店にでも誘えばよかった、と思ってももう遅い。音もなく開いた扉の隙間から、目をつぶって首を突っ込んだ。
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