23 / 59
第2章 若き刑事の苦悩
第9話
しおりを挟む
次の日。庁舎で顔を合わせた東雲警部に、開口一番言われた。
「やあ、大崎君。昨日はお手柄だったな。ご苦労さん」
これだけならいいが、そのあとがいけなかった。
「退職しても幽霊探偵で食っていけるな。その方が実入りがいいかもしれんぞ」
「ぜっっっっったいに! いやですっ」
神経が疲弊して二十代で死ぬ。やりたいことは、まだまだたくさんある。
「すまん、すまん。ところで今日は、『彼』の事務所を訪ねることになったんだが、行けるかね?」
「彼、とは……まさか」
「俺だろ」
本物の幽霊探偵が返事をした。警部がそれを(聞こえてはいないが)肯定する。
「葉桜君の事務所だよ。謎はかえって増えたわけだからね。背後関係を含めて、我々に引き続き捜査しろとのことだ」
「はぁ……わかりました」
行けるかね、とは、警部なりの気遣いだろう。結局は優しいのだ。怖がりの部下をこれ以上関わらせてよいものかと、気にしてくれている。
「何なら今から行ってきます」
「そうかね。まあ、顔色は一昨日よりずっといいが……くれぐれも、無茶はいかんよ」
「はい」
今さらですから、と心の中で付け足した。
「おかしい」
葉桜探偵事務所が入っているビルが見えてくると、周囲には見えない相棒が呟いた。
「正常だ」
「どっちなんです」
独り言の振りをして小声で聞けば、それほど怪しまれない。イヤホンはしていないが、スマートフォンを手に歩けば、誰かと通話をしているように見えないこともない。時代に感謝しながら、大崎は足を止めた。
「何で止まるんだ」
「おかしいって言ったじゃないですか。何かいるんでしょう」
「ん? ああ……そういう意味じゃないから、心配するな」
あっさり信じて探偵事務所のある二階へ上がり、嘘つきっと思った。
ドアの前に、若い女性がいた。肩までの細くつややかな髪。明るい色でまとめられた、清潔感のある服装。まっすぐにこちらを見た大きな瞳は日だまりを思わせる。春の光が舞い降りたかのようだ。古いビルの廊下だけでなく、大崎の胸の奥にも。だが、全体的に憂いが漂っている。
葉桜は小さく舌打ちした。通常なら聞き逃すことのないその音は、大崎の耳には届かなかった。心に、むくむくと花が咲き始めている。何の根拠もなく、彼女の名前も素性も知らないうちから、「この人のためなら何でもしてあげたい」という思いが沸き起こる。 廊下の空気は冷え切っているのに、ほわんと暖かいのはなぜだろう。
女性は小首をかしげ、ぺこりと一礼した。
(か、かわいいっ)
じーんと感動が体を突き抜ける。こういうのなら、いくらでも突き抜けてもらいたい。事務所の主が「手遅れか。ったく……」と言っているが、意味不明だから無視する。声をかけなくては。何か印象的な、かっこいいことを。
「人間……ですよね?」
出てきた言葉に、自分を顎の下から殴りたくなった。彼女はまた首を傾げ、困ったように口を開いた。
「ええ。あの……幽霊じゃないと、駄目ですか?」
ぶんぶんと首を横に振った。
(やったー! 気遣いなのか天然なのかわからないけど最高の返しだ! 自己申告の域を出ないにしても人間だっ。そうだ、足……)
彼女の足を正視し、いったん目を逸らしてからまた見た。ぼやけない。踊り出したい気分だ。
「とんでもないっ。人間の依頼者様、大歓迎です! 僕は葉桜さんの助手で、刑事もやってます大崎孝信です。さあ、どうぞどうぞ」
鍵は、上の許可を得て持ってきている。葉桜が例のペンションの前に泊まったホテルに、忘れ物として保管されていた私物の中にあったものだ。
「そういや琴絵のやつ、俺だけ飛ばして荷物は置いてきてたんだな」
鍵の持ち主が何か怖いことを言っている。あのホテルで何があったのかは、いまだ捜査中だ。彼がそれまで転々とした宿泊施設と異なるのは、女性の遺体がなかったこと。ベッドは、もう使い物にならないほどぐっしょりと濡れ、一部は凍り付いていた。思い出したら手が震えた。うまく鍵穴に入らない。
「大丈夫ですか? 刑事さん……」
しっとりとした、優しい声だ。
(大事に育てられたお嬢さんなんだろうな。力になってあげないと)
気持ちが静まり、鍵がすっと穴に入った。同時に、自分の中の未知の扉が完全に開いた。琴絵の怨念と愛情も、なつが百六十年待ち続けたことも、葉桜が人間だろうと幽霊だろうと妻を恋い慕っていることも……理解した。
(理屈じゃないんだ)
目の前のドアは灰色だが、いまや世界が薔薇色に見える。
「お待たせしました。あ、ちょっと待ってくださいね。数日留守にしていたので、中が散らかってるかも。先に僕が入って確かめますので」
何しろ、五年前に死んだ男が、幽霊妻の力を借りて営んでいた事務所だ。彼が表向きにも『死んだ』今、不要になった場所として打ち捨てられ、物凄く想像したくない状態になっているかもしれない。数軒先の喫茶店にでも誘えばよかった、と思ってももう遅い。音もなく開いた扉の隙間から、目をつぶって首を突っ込んだ。
「やあ、大崎君。昨日はお手柄だったな。ご苦労さん」
これだけならいいが、そのあとがいけなかった。
「退職しても幽霊探偵で食っていけるな。その方が実入りがいいかもしれんぞ」
「ぜっっっっったいに! いやですっ」
神経が疲弊して二十代で死ぬ。やりたいことは、まだまだたくさんある。
「すまん、すまん。ところで今日は、『彼』の事務所を訪ねることになったんだが、行けるかね?」
「彼、とは……まさか」
「俺だろ」
本物の幽霊探偵が返事をした。警部がそれを(聞こえてはいないが)肯定する。
「葉桜君の事務所だよ。謎はかえって増えたわけだからね。背後関係を含めて、我々に引き続き捜査しろとのことだ」
「はぁ……わかりました」
行けるかね、とは、警部なりの気遣いだろう。結局は優しいのだ。怖がりの部下をこれ以上関わらせてよいものかと、気にしてくれている。
「何なら今から行ってきます」
「そうかね。まあ、顔色は一昨日よりずっといいが……くれぐれも、無茶はいかんよ」
「はい」
今さらですから、と心の中で付け足した。
「おかしい」
葉桜探偵事務所が入っているビルが見えてくると、周囲には見えない相棒が呟いた。
「正常だ」
「どっちなんです」
独り言の振りをして小声で聞けば、それほど怪しまれない。イヤホンはしていないが、スマートフォンを手に歩けば、誰かと通話をしているように見えないこともない。時代に感謝しながら、大崎は足を止めた。
「何で止まるんだ」
「おかしいって言ったじゃないですか。何かいるんでしょう」
「ん? ああ……そういう意味じゃないから、心配するな」
あっさり信じて探偵事務所のある二階へ上がり、嘘つきっと思った。
ドアの前に、若い女性がいた。肩までの細くつややかな髪。明るい色でまとめられた、清潔感のある服装。まっすぐにこちらを見た大きな瞳は日だまりを思わせる。春の光が舞い降りたかのようだ。古いビルの廊下だけでなく、大崎の胸の奥にも。だが、全体的に憂いが漂っている。
葉桜は小さく舌打ちした。通常なら聞き逃すことのないその音は、大崎の耳には届かなかった。心に、むくむくと花が咲き始めている。何の根拠もなく、彼女の名前も素性も知らないうちから、「この人のためなら何でもしてあげたい」という思いが沸き起こる。 廊下の空気は冷え切っているのに、ほわんと暖かいのはなぜだろう。
女性は小首をかしげ、ぺこりと一礼した。
(か、かわいいっ)
じーんと感動が体を突き抜ける。こういうのなら、いくらでも突き抜けてもらいたい。事務所の主が「手遅れか。ったく……」と言っているが、意味不明だから無視する。声をかけなくては。何か印象的な、かっこいいことを。
「人間……ですよね?」
出てきた言葉に、自分を顎の下から殴りたくなった。彼女はまた首を傾げ、困ったように口を開いた。
「ええ。あの……幽霊じゃないと、駄目ですか?」
ぶんぶんと首を横に振った。
(やったー! 気遣いなのか天然なのかわからないけど最高の返しだ! 自己申告の域を出ないにしても人間だっ。そうだ、足……)
彼女の足を正視し、いったん目を逸らしてからまた見た。ぼやけない。踊り出したい気分だ。
「とんでもないっ。人間の依頼者様、大歓迎です! 僕は葉桜さんの助手で、刑事もやってます大崎孝信です。さあ、どうぞどうぞ」
鍵は、上の許可を得て持ってきている。葉桜が例のペンションの前に泊まったホテルに、忘れ物として保管されていた私物の中にあったものだ。
「そういや琴絵のやつ、俺だけ飛ばして荷物は置いてきてたんだな」
鍵の持ち主が何か怖いことを言っている。あのホテルで何があったのかは、いまだ捜査中だ。彼がそれまで転々とした宿泊施設と異なるのは、女性の遺体がなかったこと。ベッドは、もう使い物にならないほどぐっしょりと濡れ、一部は凍り付いていた。思い出したら手が震えた。うまく鍵穴に入らない。
「大丈夫ですか? 刑事さん……」
しっとりとした、優しい声だ。
(大事に育てられたお嬢さんなんだろうな。力になってあげないと)
気持ちが静まり、鍵がすっと穴に入った。同時に、自分の中の未知の扉が完全に開いた。琴絵の怨念と愛情も、なつが百六十年待ち続けたことも、葉桜が人間だろうと幽霊だろうと妻を恋い慕っていることも……理解した。
(理屈じゃないんだ)
目の前のドアは灰色だが、いまや世界が薔薇色に見える。
「お待たせしました。あ、ちょっと待ってくださいね。数日留守にしていたので、中が散らかってるかも。先に僕が入って確かめますので」
何しろ、五年前に死んだ男が、幽霊妻の力を借りて営んでいた事務所だ。彼が表向きにも『死んだ』今、不要になった場所として打ち捨てられ、物凄く想像したくない状態になっているかもしれない。数軒先の喫茶店にでも誘えばよかった、と思ってももう遅い。音もなく開いた扉の隙間から、目をつぶって首を突っ込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
霊和怪異譚 野花と野薔薇[改稿前]
野花マリオ
ホラー
その“語り”が始まったとき、世界に異変が芽吹く。
静かな町、ふとした日常、どこにでもあるはずの風景に咲きはじめる、奇妙な花々――。
『霊和怪異譚 野花と野薔薇』は、不思議な力を持つ語り部・八木楓と鐘技友紀以下彼女達が語る怪異を描く、短編連作形式の怪異譚シリーズ。
一話ごとに異なる舞台、異なる登場人物、異なる恐怖。それでも、語りが始まるたび、必ず“何か”が咲く――。
語られる怪談はただの物語ではない。
それを「聞いた者」に忍び寄る異変、染みわたる不安。
やがて読者自身の身にも、“あの花”が咲くかもしれない。
日常にひっそりと紛れ込む、静かで妖しいホラー。
あなたも一席、語りを聞いてみませんか?
完結いたしました。
タイトル変更しました。
旧 彼女の怪異談は不思議な野花を咲かせる
※この物語はフィクションです。実在する人物、企業、団体、名称などは一切関係ありません。
本作は改稿前/改稿後の複数バージョンが存在します
掲載媒体ごとに内容が異なる場合があります。
改稿後小説作品はカイタとネオページで見られます
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2026/2/19:『おとしもの』の章を追加。2026/2/26の朝頃より公開開始予定。
2026/2/18:『ひざ』の章を追加。2026/2/25の朝頃より公開開始予定。
2026/2/17:『うしろまえ』の章を追加。2026/2/24の朝頃より公開開始予定。
2026/2/16:『おちば』の章を追加。2026/2/23の朝頃より公開開始予定。
2026/2/15:『ねこ』の章を追加。2026/2/22の朝頃より公開開始予定。
2026/2/14:『いけのぬし』の章を追加。2026/2/21の朝頃より公開開始予定。
2026/2/13:『てんじょうのかげ』の章を追加。2026/2/20の朝頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる