TOKOSHIE

一条咲穂(花宮守から改名)

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第2章 若き刑事の苦悩

第10話

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 ひゅるんと頭の上を、事務所の主が通過した。
「目、開けろよ。別段変わったところはない。それが、おかしなことなんだけどな。空気も清浄だ」
「清浄ってそっち……」
 正常、ではなく。
「え?」
「あ、いえいえ。どうぞおかけくださいっ」
 応接セットのソファーもテーブルも、埃すら見えない。電気ポットでお湯を沸かして紅茶を淹れ、冷蔵庫にあったレモンを輪切りにして添えた。
(葉桜さん、死んでるのに普通に飲み食いしてたんだな。電気も水道も使えるし……琴絵さんて、ほんと不思議だ)
 暖房も、問題なく作動している。来訪者は、繊細な花模様の茶器と、ちょうどよい濃さのレモンティーを大層喜んだ。
「ありがとうございます。私、紅茶が大好きなんです。探偵さんて、本当に何でもわかるんですね」
「いやあ、初歩的なことですよ」
 尊敬の眼差しを向けられ、素直に嬉しい。戸棚にはコーヒーも緑茶もあるのに、葉桜は「紅茶だ」と断言した。
(さすが、人たらし探偵)
 寒い廊下で待たせたことを詫び、紅茶で彼女が暖まるのを待って、話を聞いた。
「おかげさまで人心地がつきました。どこへご相談したらいいのか、途方に暮れていたんです……」
「何でも話してください。葉桜は今はいませんが、必ず伝えますので」
「嘘つきはどっちだ」
 口を挟んだ葉桜は、数メートル離れたデスクに寄りかかっている。絵になる様に、ここが彼の城であることを実感する。五年もの間、ここで確かに『生きて』いたのだと。
 どれだけの人間が、ここへ悩みを打ち明けに来たのだろう。葉桜琴絵もまた、五年前に死んでいる。戸部とべという男のマンションで殺害されていたのだ。その直後、葉桜康平は警察を辞めた。探偵に鞍替えしたのは、妻の死の真相を追う目的があったのだろうか。刑事ではなく、一人の男として。
(愛する人が殺されたら……僕も、同じことをするかもしれない)
 危険な方向へ思考が流れていく。それを、流れの真ん中で足を踏ん張って堪える思いで、大崎は依頼者の話に集中した。
「私、杉下恵麻すぎしたえまと申します……」

 恵麻は現在、無職だという。大学を出てすぐに就職したが、半年後、病気を理由に退職した。気負って頑張りすぎてしまい、心身ともに疲弊したのだろうというのが医者の見立てだった。一時は入院していたが、現在は親元に身を寄せている。早く再就職して親を安心させたいが、体調は依然として思わしくない。病院で検査をしても異常はないという結果ばかり……。

 大崎は首を傾げた。恵麻は生命力の塊に見える。血色も、病的ではなく、若い女性のみずみずしい生気を感じさせる。元気そのものという印象を与える彼女が、一体どこが悪いというのだろう。
「思ったことを聞いてみろ。やり方は刑事と大差ない」
 葉桜からアドバイスが飛んできた。彼はポケットから煙草を出して咥えたが、火はつけない。恵麻には見えていないようだ。
(ってことは、服と同じで幽体の付属品? ああもう、何が何やら)
 理解を遥かに超える幽霊の世界については、今は考えないことにする。優先すべきは恵麻だ。
「どこが悪いのか、具体的にお聞きしても? もちろん、お話しいただける範囲で構いません」
「頭も体も、何だかとても重いんです。病院ではどこでも、会社で無理をした疲れが抜けていないのだろうと言われました。でも、もう辞めて一年以上になるのに……」
(……ん?)
 大崎のアンテナがピクリと反応した。即座に、それを無視することに決めた。
(気にしすぎるからいけないんだ。幽霊だって、話せばわかる相手がいるわけだし……僕が先入観で怖がってたら、恵麻さんを助けられない)
「それでは、日常生活にも支障がありそうですね」
「はい、あの……」
 恵麻は唇を噛み、じっと自分の膝を見つめた。数分、間があった。若き刑事は、急かすことなく待った。元刑事の霊は、苦虫を噛み潰したような顔でフィルターを齧っている。
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