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8 優しさ
しおりを挟む抗わないことを、従うことを選んだのは過去のアーネ。流された方が楽だったからだと、離れた今ならわかる。抗う気になればいくらでも抗えただろう。証拠を揃えて上級メイドのトップに現状を訴える、とか。
そうしなかったのはアーネだ。怒る理由がない。
アーネ自身、怒りなどの感情が微塵も残っていないことに驚いている。働いていた当時は理不尽に対する不満ばかりだったのに、離れただけで当時の気持ちがアッサリ過去のものになるなんて予想もしなかった。
「心配してくださって有難うございます」
「いやいや、アンタ能天気すぎるでしょ!何で喜んでるの!?」
何故か半泣きになりながら前後に揺さぶってくる。そんなに病んでいるように見えるのだろうかと苦笑するしかない。
「だって、貴女が優しいから」
「馬鹿なことばかり言ってないで!嫌なことは嫌って言うの!嫌だって顔をするの!アンタを見ていると自分を見ているようで嫌なのよ!」
他の高爵位の令嬢メイドたちから仕事を押し付けられていた彼女。彼女もまたアーネに仕事を押し付けていたが、そうしなければ、彼女は善人ぶるのかと罵られて一層酷い扱いを受けただろう。
「貴女の行いが本心でなかったと知れて、とても嬉しく思います」
アーネに恨まれることで、彼女は過去の自分を罰したかったのかもしれない。本当は恨んで憎んだ方が彼女の心は救われるのかもしれない。しかし、残念ながらアーネには怒るという機能が欠けている。人間として欠陥品なのだ。死にやしないので、それに対して思うことは無いが、目の前の彼女は違うらしい。
「…アンタと話していると調子が狂うわ!仕事に戻る。精々幸せになりなさいよ」
喧嘩を売るかのような口調で言い残し、彼女は立ち去る。アーネはご機嫌で手を振り、彼女の姿が見えなくなると、数歩先の曲がり角を覗き込んだ。
「…立ち聞きですか?」
前髪で顔を半分隠した青年が、仏頂面で壁によりかかっている。
「因縁をつけられているようなら助けに入ろうと思ったんだが、途中から随分とおかしな方向に話が流れていたな」
呆れたように溜め息を吐き出す姿に、いつもの底抜けに明るい様子は見られない。
アーネはキョロキョロと周囲を見渡した。周囲に人がいる様子はない。
「………どうした?」
「今ならエストって呼んでも大丈夫かな、と」
「───よくわかったな」
「ウィルお兄様は、邸宅だと元気そうに振る舞っていますが、実際は外出が困難なほどお身体が弱っているようにお見受けします。顔色も悪いですし、私の前では午後のお茶以外食事をとろうとはしません。───毒で傷ついた臓腑までは回復していないのでは?」
疑念を抱いたところで、本人にも養父母にも訊ねることはできない。アーネに心配をかけまいとする彼らの心が痛いほど伝わってきて、痛いほどに優しいから。
エストは小さく頷いた。俺のせいだとでも言いたげな表情で。でも、アーネにそれを否定する機会を与えてはくれない。彼もまた残酷なまでに優しい人だ。
ニッと笑って話題を変えてくる。
「で、俺の事をお兄様とは呼んでくれないのか?」
頭に置かれたエストの手が熱い。
たかが呼び名だ。呼ぶことに何の問題もない。しかし、何故か、モヤモヤとしたものが胸に突っかえる。必要がないなら、呼びたくはない。
「そんなことより、何故ここに?」
「アーネの様子を見に来たんだよ。影がいない分、なかなか仕事を抜け出せなくてな」
逸らした会話に気づきながらも、エストは追求せず応えてくれた。だからアーネもエストが何者なのかは追求しない。
「私も、貴方がどうしているか心配でした」
なにせ彼は命を狙われているらしいので。
「ありがとう。君も元気そうで良かった」
アーネの顔に影を落とし、エストからの口付けが降ってくる。前回は頬だった。しかし今日は唇に触れる。
不思議と互いに照れなどはない。ただ触れて、離れて。それだけのこと。
「また、な」
「ええ、また」
甘酸っぱさなどない。単なる挨拶だ。
VIPルームに戻ると、養母は少しだけ寂しそうに笑いながら紅茶を嗜んでいた。
「愚息には会えたかしら?」
「───はい」
もしかしたら事前に店内の廊下を人払いしていたのかもしれない。元子爵令嬢は、アーネが来ることを知り、敢えて残っていたのかもしれない。憶測に過ぎないし、確かめるのも野暮だ。
だからアーネは心から無邪気に微笑むだけ。
「そう、良かったわ」
養母も満足気に微笑むだけ。
「長男のソリュート・ジェノールだ。帰国が遅れてしまい、すまなかった」
留学中の長兄は、まるで軍人のような体格の良さだ。思わず養父を見遣る。養父はひょろっとしており、正直体格は似ていない。その代わり目元が似ている…ような気もする、たぶん。
「アリネリアです、宜しくお願いします」
「帰国がお披露目の当日だなんて薄情な息子ね」
アーネの隣で養母が頬を膨らませている。わかりやすくムクれる母から、ソリュートは視線を逸らした。
「親不孝者で申し訳ありません」
「はは。大丈夫ですよ、兄上。兄上の分までアーネが親孝行してくれますって!」
ウィルが無責任なフォローを入れるので、アーネは苦笑した。
───その発言の意味を知るまであと少し。
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