1 / 9
1
しおりを挟むハードレイ伯爵には幼い頃から婚約者がいた。それにも関わらず、ハードレイ伯爵は成人後も、爵位を継いでも独身のまま。
整った顔立ちのハードレイ伯爵に、女性達が群がる。彼はそれらに応じず、婚約者の存在を主張するだけ。
「私の妻となり得るのは、今も昔も、そして今後も、ヌゲイル男爵令嬢だけです」
ヌゲイル男爵令嬢。
この名前が出る度に人々は首を傾げる。商人上がりだと揶揄されることの多いヌゲイル男爵家。令嬢の存在を問い合わせると決まって病弱で外に出せないと返される。当然社交界に顔を出したことは一度もなく、屋敷に出入りする行商人ですら見たことがないらしい。果たして実在するのか。最初から存在しないのではないか。
好き勝手言われるのを聞く度に、ハードレイ伯爵の脳裏に浮かぶのはたった1人だけ。
灰色の髪、灰色の瞳。不健康な程に白い肌と相俟って、石膏像のようだというのが当時の印象だった。
───
─────
────────
「私の娘として、伯爵家で花嫁修行をしてきてくれないか?」
「はぁ?」
伯爵家と縁談があるということは、目の前の男性も貴族なのだろう。初老の、ひょろりとした細身の男性だ。あまりの唐突過ぎる提案に、素っ頓狂な声を上げたことを後悔しつつ少女は口を閉じた。
ここは田舎の外れにある寂れた教会。住み込みで働いている少女に名はない。何なら記憶もない。神父もシスターも高齢で、少女は「お嬢ちゃん」と呼ばれている。名前の必要性も記憶の必要性もない。必要なことは問いかければいい。
「ようは婚約者の真似事だな。本当に結婚してくれても構わない。最悪逃げるために死んだふりをしてもいい。君が望めばいくらでも手を貸す。必要なのは、婚約という家同士の契約を果たそうと努力した、と表向き見えるような事実だ」
「……………………」
教会の礼拝者と話し込むことは珍しくないが、このような内容を話すのは初めてのことだ。当たり前である。3人に1人の割合で同じような内容を話す輩がいたら流石に気味が悪い。神父やシスターがお昼寝をしている時間で良かった。聞かれていたら今頃大騒ぎだっただろう。うちの子に何をさせる気だと。
一体どういう事情があるのか、問いかけようとしたが、少し考え、再び口を噤む。下手に知らない方がいいだろう。どう考えても厄介事だ、深く首を突っ込む必要は無い。
「引き受けてくれるなら、この教会に継続的な寄付を約束しよう。神父様は最近体調を崩しがちなのだろう?医者の派遣も、薬の無償提供も、慈善事業として喜んで行おう。君が我が家とこの教会の縁を繋いでくれるのならね」
それは利益の提案で。同時に、お前の弱点は分かっているのだという脅迫。足元を見られている、拒否権はない。
「断ったらどうなりますか?」
訊ねたのは退路を断つ為か、好奇心からか。
「この土地を買い取って工房でも建てようか」
教会を奪われれば、神父とシスターはどうなるだろう。肩書きは意味を失い、残るのは単なる身寄りのない老人達。
少女は笑った。
「───神父とシスターには心配を掛けたくないので、実の親が見つかったという体裁で彼らには説明させてくださいね、お父様」
馴れ馴れしかっただろうか。少し不安を覚えつつ男爵を窺えば、彼は嬉しそうに破顔していた。予想外の反応に瞬く。本当に娘が欲しかっただけなのでは、と錯覚しそうな程に男爵は喜んでいるように見えた。これが演技なら、貴族というものは実に恐ろしい。
「そうと決まれば我が娘の恩人に礼を尽くすのは当然だな。明日には医師が往診に来るよう手配しておこう。見たところ、この教会は雨漏りもしているようだ。改修工事の見積もりも必要だ」
「隙間風が酷いので毛布の差し入れもお願いします」
「ふむ。お年寄りには街まで買い物に行くのもつらい距離だ、金銭よりも物資の方が良いだろう。食料も必要だな」
「お心遣いに感謝申し上げます。ついでに糸織物の工房か何かも建ててくれません?」
「ん?」
どういうことだ?教会を存続させたいのではないのか?潰すのか?───男爵の目は何よりも雄弁に疑問を浮かべる。
「教会を取り囲むように工房と宿舎を建てるんです。働き手が教会に足を運ぶようになれば、教会そのものが本来あるべき姿を取り戻すでしょう」
人が集い、幸福と平穏を祈り、心を落ち着ける場所。それが教会だ。人々から忘れ去られた教会は本来の意味を見失っている。
「なるほど。ならば、行き場を失った女性を保護する施設の一環として工房を建てよう。そういった者達の方が、日常の有難みを噛み締めて感謝の心を教会に捧げてくれるに違いない」
自身と引き換えにそれだけの恩返しが出来るならば安いものだ。ここに留まっていたところで、自分には同じだけのものなど返せない。少女は満足し、挑発的に笑う。
「その身代わり婚約、私が引き受けます」
「ならば、君は私の娘───リアーチェ・ヌゲイルだ」
15
あなたにおすすめの小説
白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話
鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。
彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。
干渉しない。触れない。期待しない。
それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに――
静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。
越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。
壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。
これは、激情ではなく、
確かな意思で育つ夫婦の物語。
記憶喪失のフリをしたら婚約者の素顔が見えちゃった
ミカン♬
恋愛
ビビアンには双子の弟の方、エリオットという最愛の婚約者がいる。
勉強なんて大っ嫌いなビビアンだったけど、エリオットが王立学園に入ってしまった。
1年頑張ってエリオットを追いかけてビビアンも入学できたんだけど──
**歩いていた、双子兄のブラッドさまをエリオットだと間違えて、後ろから「わっ」なんて声をかけてしまった。
肩をつかんだその瞬間、彼はふりかえりざまに、肘をわたしの顔にぶつけた。**
倒れたビビアンを心配する婚約者エリオットに記憶喪失のフリをした。
すると「僕は君の婚約者ブラッドの弟だよ」なんて言い出した。どういうこと?
**嘘ついてるのバレて、エリオットを怒らせちゃった?
これは記憶喪失って事にしないとマズイかも……**
ちょっと抜けてるビビアンの、可愛いくてあまーい恋の話。サクッとハッピーエンドです。
他サイトにも投稿。
悪役令嬢、記憶をなくして辺境でカフェを開きます〜お忍びで通ってくる元婚約者の王子様、私はあなたのことなど知りません〜
咲月ねむと
恋愛
王子の婚約者だった公爵令嬢セレスティーナは、断罪イベントの最中、興奮のあまり階段から転げ落ち、頭を打ってしまう。目覚めた彼女は、なんと「悪役令嬢として生きてきた数年間」の記憶をすっぽりと失い、動物を愛する心優しくおっとりした本来の性格に戻っていた。
もはや王宮に居場所はないと、自ら婚約破棄を申し出て辺境の領地へ。そこで動物たちに異常に好かれる体質を活かし、もふもふの聖獣たちが集まるカフェを開店し、穏やかな日々を送り始める。
一方、セレスティーナの豹変ぶりが気になって仕方ない元婚約者の王子・アルフレッドは、身分を隠してお忍びでカフェを訪れる。別人になったかのような彼女に戸惑いながらも、次第に本当の彼女に惹かれていくが、セレスティーナは彼のことを全く覚えておらず…?
※これはかなり人を選ぶ作品です。
感想欄にもある通り、私自身も再度読み返してみて、皆様のおっしゃる通りもう少しプロットをしっかりしてればと。
それでも大丈夫って方は、ぜひ。
“足りない”令嬢だと思われていた私は、彼らの愛が偽物だと知っている。
ぽんぽこ狸
恋愛
レーナは、婚約者であるアーベルと妹のマイリスから書類にサインを求められていた。
その書類は見る限り婚約解消と罪の自白が目的に見える。
ただの婚約解消ならばまだしも、後者は意味がわからない。覚えもないし、やってもいない。
しかし彼らは「名前すら書けないわけじゃないだろう?」とおちょくってくる。
それを今までは当然のこととして受け入れていたが、レーナはこうして歳を重ねて変わった。
彼らに馬鹿にされていることもちゃんとわかる。しかし、変わったということを示す方法がわからないので、一般貴族に解放されている図書館に向かうことにしたのだった。
実在しないのかもしれない
真朱
恋愛
実家の小さい商会を仕切っているロゼリエに、お見合いの話が舞い込んだ。相手は大きな商会を営む伯爵家のご嫡男。が、お見合いの席に相手はいなかった。「極度の人見知りのため、直接顔を見せることが難しい」なんて無茶な理由でいつまでも逃げ回る伯爵家。お見合い相手とやら、もしかして実在しない・・・?
※異世界か不明ですが、中世ヨーロッパ風の架空の国のお話です。
※細かく設定しておりませんので、何でもあり・ご都合主義をご容赦ください。
※内輪でドタバタしてるだけの、高い山も深い谷もない平和なお話です。何かすみません。
【完結】私、噂の令息に嫁ぎます!
まりぃべる
恋愛
私は、子爵令嬢。
うちは貴族ではあるけれど、かなり貧しい。
お父様が、ハンカチ片手に『幸せになるんだよ』と言って送り出してくれた嫁ぎ先は、貴族社会でちょっとした噂になっている方だった。
噂通りなのかしら…。
でもそれで、弟の学費が賄えるのなら安いものだわ。
たとえ、旦那様に会いたくても、仕事が忙しいとなかなか会えない時期があったとしても…。
☆★
虫、の話も少しだけ出てきます。
作者は虫が苦手ですので、あまり生々しくはしていませんが、読んでくれたら嬉しいです。
☆★☆★
全25話です。
もう出来上がってますので、随時更新していきます。
【完結】双子の国の行く末〜女王陛下になるべく育てられたはずの王女が見た景色〜
まりぃべる
恋愛
姉ヴァレリアと妹ヴェロニカは双子の王女。
長子が、身分や仕事や財産を継承するのが当たり前の思想が浸透している国であったから、その双子の長女ヴァレリアが国を継ぐと思われていました。
しかし、それは変化し、次の陛下は…?
☆姉ヴァレリアが主人公です。
☆現実世界に似たような名前、思想などがありますが、全く関係ありません。
☆カラーが異なる為、ヴェロニカの過ごした日々とは別の作品にしました。
そちらを読まなくても分かると思います。思い掛けず長くなりましたがこちらはショート寄りです。
☆全19話です。書き上げていますので、随時投稿していきます。
【完結】言いつけ通り、夫となる人を自力で見つけました!
まりぃべる
恋愛
エーファ=バルヒェットは、父から十七歳になったからお見合い話を持ってこようかと提案された。
人に決められた人とより、自分が見定めた人と結婚したい!
そう思ったエーファは考え抜いた結果、引き籠もっていた侯爵領から人の行き交いが多い王都へと出向く事とした。
そして、思わぬ形で友人が出来、様々な人と出会い結婚相手も無事に見つかって新しい生活をしていくエーファのお話。
☆まりぃべるの世界観です。現実世界とは似ているもの、違うものもあります。
☆現実世界で似たもしくは同じ人名、地名があるかもしれませんが、全く関係ありません。
☆現実世界とは似ているようで違う世界です。常識も現実世界と似ているようで違います。それをご理解いただいた上で、楽しんでいただけると幸いです。
☆この世界でも季節はありますが、現実世界と似ているところと少し違うところもあります。まりぃべるの世界だと思って楽しんでいただけると幸いです。
☆書き上げています。
その途中間違えて投稿してしまいました…すぐ取り下げたのですがお気に入り入れてくれた方、ありがとうございます。ずいぶんとお待たせいたしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる