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しおりを挟むハードレイは複数ある伯爵家の中で最も特別な家だ。歴史は浅い。しかし家を興したのが臣籍降下した王族なので血の濃さでは公爵家と変わらない。下手したら暫く婚姻のやり取りがない公爵家よりも王家の血が濃い。
それなのに公爵位ではなく伯爵位なのは、臣籍降下した理由が失態の責任をとって、というものだったからだ。ようは罰としての臣籍降下だったので通常より低い爵位を与えられたということ。与えられた領地は痩せ細り貧しく、ハードレイ伯爵家も貧乏だ。改善を図りたくても先立つ資金がない。
対するヌゲイル男爵家は、貴族としての歴史は浅い。元は商人だ。財産だけはある。少しでも税金を納めさせようと、あらゆる国から爵位を押し付けられる。断ったり、断りきれずに押し切られたり。そのうちの一つが男爵位であるというだけで、爵位にこだわりなど無い。何なら祖国にも思い入れはない。
元々、ヌゲイル男爵家とハードレイ伯爵家の婚姻は王家からの命令だ。ヌゲイル男爵家という金ヅルを他国へ渡さないため、この国により深く根を張って貰おうという目論見である。この縁談を成立させることができれば、ハードレイ伯爵家を公爵家に引き上げると王家は誓約書まで用意した。
故にハードレイ伯爵家は必死なのだろう。婚約者の令嬢が死んだと説明されても信じない程に。結婚さえすれば爵位が上がり、多額の持参金が手に入るのだから。
───そのような裏を事前にヌゲイル男爵から説明されていた偽物少女は、伯爵はどうせ自分になど興味を持たないだろう。そう思っていた。
「え?公爵位?要らないから断ったよ」
婚姻さえすればすぐに爵位が上がるのか、それとも数年は結婚生活を維持する必要があるのか。どちらにせよ、爵位を得られるあと一歩というところでリアーチェが逃げ出したら、さぞかし伯爵は悔しい思いをするだろう。そんな悪意を持って探りを入れた偽物少女に、肝心の伯爵はキョトンとして答えた。
「え、要らない…んですか?」
「いや、だって義務ばかり増えて面倒だし。君が公爵夫人になりたいなら考え直すけど…」
聞いていた話と異なり出世欲はないらしい。偽物少女もまた、なりたいかと問われれば、面倒くさそうという感想しか湧かなかった。
「…要りません」
「そう?良かった」
伯爵は、ふにゃりと表情を緩める。その無防備な表情に偽物少女は顔を強ばらせた。気を抜くとつられて頬を緩めてしまいそうになるから困る。
「その、愛称で呼びたいんだが…」
伯爵家で過ごすようになり数日経った頃。随分と深刻な表情で朝食の場に現れた伯爵は、神妙な面持ちで口を開き…。何かと思えば、そんなことだった。
「お好きにどうぞ」
勝手にしろと、偽物少女は投げやりな返事をした。
「じゃあ、その、り、り、……………ああ!いざとなると恥ずかしくてこれ以上無理だ!!」
自分から言い出した癖に真っ赤になって壁に額を打ち付けて停止した伯爵に、偽物少女はポカンとする。
「たかが呼び名でしょう?」
「他でもない貴女を呼ぶ、しかも私だけが───。…すまない!少々走ってくる」
そう言い残し、広大すぎる手入れの行き届いていない庭園を、伯爵は全速力で周回したという。止めようとする使用人たちの「旦那様!」「お気を確かに!」という悲鳴に似た叫びが聞こえる中、食堂に残された偽物少女は、時間差で羞恥が伝染し、その場で身悶えた。
愛称どころか、名前で呼ばれたのも初対面の時だけだったなと思い至る。まさか彼は「君」とか「貴女」と呼ぶ時でさえ緊張しているのだろうか。───しているんだろう、恐らく。
「ハードレイ伯爵は何と呼ばれたいですか?」
気分を落ち着けるためにと外を走った伯爵が戻ってくるなり、この機を逃すものかと、偽物少女は前のめりで訊ねた。
緊張でリアーチェを気軽に呼べない伯爵を、逆にリアーチェが呼んだら一体どんな反応をするだろうかと。興味があったし、喜んでくれるかもしれないという期待もあった。
伯爵は驚いたように動きをとめ、力なくカトラリーを掴むはずだった手をテーブルの上に置く。
伯爵家は財政難だと聞かされていたが、あくまでも貴族の基準では、なのかもしれない。あるいは男爵家からの援助が入っているからなのか。朝食だというのに品数も豊富で、豪勢な料理が並んでいる。そこで固まる伯爵は一枚の絵画のようにさえ見えた。
「───お気に障りましたか?」
「いやいや、そんなことはない。呼び名か、そうだな…」
顔を紅潮させて、目をぐるぐる回す勢いで、彼はあわあわと動揺している。面白い。見ていて飽きない男性だと、少女は小さく笑う。
「何でしょう?」
「昔のように───、いや、違う!すまない!失言だった」
浮かれていた彼は、途中でハッとし、顔から血の気を引かせながら勢い良く席を立つ。
───どうか、忘れてくれ。
祈りにも似た掠れた声が、小さく小さく呟き、願う。
昔のように呼ばれたいと言われても、今のリアーチェは昔のリアーチェとは違う。少女は偽物だ。請われたところで呼べるはずもない。前言撤回されたのは喜ぶべきことだ。
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