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 修学旅行、二日目の朝。

 ゲラゲラと騒がしい笑い声に起こされて、綾人は静かに目を覚ました。

「起きたか、綾人」

 目敏くもそれに気が付いた孝太郎が声を掛けてきた。綾人は無言で身を起こす。

 朝っぱらから何をしていたんだか知らないが、向こうの方で固まっていた同部屋の連中が一斉に綾人の事を見る。

 木下孝太郎を除いた四人が四人ともニヤニヤとしていた。嫌な予感しかしない。

「おい。見ろ。綾人」と孝太郎が一人、ベッドに近寄って来た。

「朝勃ち!」

 孝太郎は言いながら、はち切れんばかりに盛り上がっている股間をずいッと綾人の顔の真ん前に突き出してきた。ズボンの中に500mlのペットボトルでも仕込んでいるのか、孝太郎の股間は馬鹿みたいな大きさになっていた。

「…………」

 何も答えずに綾人は横を向く。無視だ。

 すると孝太郎は、綾人が背けた顔の方にまでわざわざと回り込んで来て、

「抜いてくれ」

 再度、馬鹿みたいになっている股間を綾人の鼻先に差し向けた。

 当然、綾人は「…………」と唇を固く結んだまま、くるりとその「馬鹿」に背を向ける。何事も無かったかのようにベッドから降りた。直後、

「ぶひゃひゃひゃひゃッ」

 綾人の背後、部屋の向こうの方から四人分の下品な笑い声が聞こえてきた。



 いじめとは、いじめられている側がいじめだと思ったらいじめなのである。

 イジりだとか悪ふざけだとか遊びの延長だとかといった、いじめている側の言い分は全て無意味な言い訳でしかなかった。

 和泉綾人。高校二年生。十六歳。彼はいじめの被害者だった。被害者だ。決して、「いじめられっ子」などとは言って欲しくはなかった。綾人は「いじめられっ子」などという言葉が大嫌いだった。

 いじめとはいじめている側が一方的に作り上げている現象だ。加害者がその行動を止めれば、たったそれだけの事で、今、この瞬間にも無くなるものなのだ。

 なのに。いじめられっ子などという名称を付けて、いかにも特別な存在のように扱われる。まるで、いじめられっ子といじめられていない人間は全く違う存在であるかのように。本来はただの被害者であるはずなのに。

 例えば、自動車に轢かれてしまった歩行者に対して「道路を歩いているから」だの「歩いてないで、自分も車に乗ってれば、轢かれなかったのに」だの「え? 貧乏で車を持ってないの?」だの「頭が悪くて免許が取れないの?」だの、しまいには「轢いちゃったヒトが可哀想」だのといった意味合いを暗に含めて「轢かれっ子」とは言わないのに。

 痴漢に合った被害者を「触られっ子」とは言わないのに。「騙されっ子」も「盗まれっ子」も「殺されっ子」も言わないのに。何故か、いじめの被害者だけは「いじめられっ子」と呼ばれるのだ。

 まるでお綺麗な自分達と汚れているそれを区別するかのように。

 和泉綾人、十六歳。いじめられ歴は一年と三ヶ月を過ぎた。

 素は元気で明るい男の子だった。それがたったの十五ヶ月で思考がすっかりと黒くなってしまった。

 いじめの被害とは肉体的なダメージや金銭的なダメージだけではない。嫌な言葉や態度によって精神的に傷付くだけでもなくて、そのダメージは誰からも見えない心の上に積もり積もっていくのだ。もしくはその中にまで染み込んでいくのだ。それこそ綾人本人でさえ気付かないうちに、無自覚のまま、どんどんと黒く染められていく。



 起きしなの綾人が「ぶひゃひゃ」と笑われた日の夜の事だ。綾人達、修学旅行生らが泊まっていたホテルの大浴場にてその事件は起こった。

 いや。その事を事件だと認識しているのは綾人だけかもしれない。彼らにとってはきっと「いつもの事」だったのだろう。

 湯船に浸かる前、風呂椅子に腰掛けて髪を洗っていた綾人の頭に、

「ちょんまげ」

 孝太郎が自身のイチモツを直接、乗せたのだ。

 最初の数秒は何が頭の上に乗せられているのか分からなかった。シャンプーのミニボトルでも乗せられているのかと思った。だがしかし綾人の目の前にあった鏡には、ばっちりとその「ナニ」が映し出されていた。

 綾人は絶句してしまう。いつもの無視とは全く違っていた。

 何をされたのか、されているのか、しばらくの間、理解が出来なかった。

 もう一度、改めて、言おう。孝太郎は、まさか勃起しているのかと思わせるような大きさのイチモツを綾人の頭に直接、乗せたのだ。

 なるほど。確かに「ちょんまげ」だ。

 孝太郎も綾人と同じ十六歳であったはずだ。いや、もう十七歳になっているのか。知らないが。綾人にしてみれば、性的な事に関しては過敏な程に敏感であろう年頃の男子が恥ずかしげもなく自身の性器を人目に晒している事も驚きの一つではあった。

 この後、綾人はどのような対応をしてその場を切り抜けたのか、もしくは遣り過ごしたのか、自分の事だというのに和泉綾人はまるで覚えていなかった。記憶に無いのだ。

 ただ「ぶひゃひゃ」と笑われた事だけは覚えていた。

 四人分どころではなかった。まるで大合唱だったその大きな大きな笑い声は今も綾人の耳にこびりついているかのようだった。

 あの時、大浴場には綾人や孝太郎といった班の六人だけが居たわけではなかった。「大浴場」の名称通りに大きな風呂場であったその場所には同じクラスの班が複数、十二人や十八人どころか、二クラス分の全員である五十人以上が居た。

 和泉綾人が木下孝太郎を中心とした一部の連中にいじめられている事は最早、周知の事実となっていたが、それはあくまでも綾人達のクラス内に於いての話だった。

 少なくとも綾人はそのように感じていた。考えていた。理解していた。

 だが今回、孝太郎達にはそこまでの狙いやら何やらは無かったであろうが結果として、他クラスの人間も多く居る中で明らかないじめ行為を受ける事となってしまい、綾人のプライドはより大きく傷付けられた。

 和泉綾人が「いじめられっ子」だとは知らなかった人間に、和泉綾人は「いじめられっ子」なのだと知られてしまった。

「いじめられっ子」だ。ただの被害者ではない。「いじめられっ子」だ。

 あの場には綾人の友達も居た。一人ではなくて何人も居た。同じ中学校出身で幸いにも今は他クラスで、綾人が孝太郎からいじめ行為を受けているとは知らなかったであろう友達だ。

 彼らにもバレた。綾人が「いじめられっ子」だとバレた。

 明日からどんな顔をして会えば良いのだろうか。何を話せば良いのだろうか。

 どんな顔で会ってくれるのだろうか。何を話してくれるのだろうか。

 きっと、今までと同じではいられない。全く変わらないという事はありえない。

 会ってももらえなくなるかもしれない。何も話してもらえなくなるかもしれない。

 だって綾人は「いじめられっ子」だから。君子危うきに近寄らず。一般的な高校生が普通に平穏な学生生活を送る為には絶対的に忌避すべき対象であるわけだから。



 その日の深夜、ベッドの中からただ真っ直ぐに真っ黒な天井を見据えたまままるで眠れずにいた綾人はふと、同室の五人が全員、規則正しい寝息を立てている事に気が付いた。何を思ったのか、そっとベッドから抜け出した綾人は、のっそりとそちらに這い寄ると木下孝太郎を静かに揺り起こした。
 
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