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「ただいまぁー!」と元気に帰ってきた達矢はその胸に「魔法の本」を強く押し当てながら、すたこらと自室に入り込む。少しだけ遠くから「はーい。おかえりなさい。手を洗いなさいよー」と母親の声が聞こえていたが達矢は「はーい」と言葉を返しただけで手は洗いに行かなかった。そんな事よりも、と気が急いてしまっていた。

 その様子はまるでこっそりとエロ本を買って帰ってきた中学生男子みたいだったが達矢にとっての「魔法の本」はエロ本なんかよりもずっと大事な秘密の本だった。

 ……ただ、事実だけを並べると「エロ同人誌」を胸に抱えて帰ってきた小学生男子ではあるので先程の「まるで」通りでもあるのだが重要なのは本人の心持ちだった。

 学習机の大きな引き出しの奥の奥にその本を入れたら、上にハンカチを被せてまた別の本を重ね置く。これで大丈夫だ。達矢は息を吐いた。

「一般人に魔法がバレちゃうとせっかく叶ったお願いの効果が無くなっちゃったりだとか僕がカエルにされちゃったりだとかするもんね」

 それは「魔法の本」なのだ。

 達矢が拾ったものが普通の本であったなら「誰かの落とし物だ」と思えただろう。「誰かの落とし物」を自分の家に持ち帰ったり、ましてや自室の学習机の引き出しの奥の奥に隠したりはしない。達矢は悪いコではなかった。

 しかし。「魔法の本」は神様からのプレゼント、もしくは運命に導かれて出会うものなのだ。それが定番。いわゆるお約束だった。

 エレベーター内に誰が落としていったのだろうだとか元々は誰のものなのだろうといった考えや意識は全く無かった。達矢の為に用意されたもの、もしくは迷子状態か逃亡途中の「魔法の本」を偶然、運命的に達矢が拾ってあげたもの――保護してあげたものといったアニメの主人公的な感覚だった。

「ふふッ」

 と達矢は笑ってしまった。思い出し笑いだ。

 達矢は犬を手に入れた。言い方は悪いかもしれないが本人に悪気は無かった。

「僕の犬。僕の犬。おっきい。強そう。カッコいい」

 オリジナルソングを即興でくちずさんでしまうくらいに上機嫌だった。

「魔法の本」で呼び出した「魔法の犬」だから、その秘密は誰にもバレないようにしないといけなくて、友達に自慢が出来ないのは唯一の欠点、不満になっちゃうのかもしれないけれど。今はそんな細かい事よりもただ「僕の犬」という事実に達矢は浮かれまくってしまっていた。

「ふふ。ふふふ。うふふふふッ」

 気分も表情も緩みっぱなしだった達矢の耳にピンポーンとインターフォンの音が聞こえた。

「うえッ?」と達矢はその身を引き締める。

 もしかしたら「敵」が来たのかも。達矢が保護した「魔法の本」を取り返しに来たのかもしれない。達矢はちょっとした陰謀論的思考、アニメのストーリー的に考えて身構える。耳を澄ますと母親の話し声が聞こえてきた。ヨソイキのちょっとだけ高い声だった。けれども相手の声は聞こえてこない。小さな声で喋っているのか、いや、それが普通の声の大きさで、母親の方の声が大き過ぎるだけなのかもしれない。

 自室から廊下に出てみた達矢はこっそりと玄関を覗く。こっそりとのつもりだったのに、

「あら」

 とすぐに母親に気付かれてしまった。

「達矢。ちょっといらっしゃい。こちら、お隣に引っ越してらした」と母親が言っていた途中で、

「おじさんッ」

 と達矢は二人の前に飛び出していった。

「やっぱり来たんだ。来てくれたんだ。入って。入って」

 躊躇ちゅうちょも遠慮も何も無く赤の他人の手を握って引っ張っている我が子に、

「え、なに? ちょっと。達矢? どうしたの?」

 母親の梨央は困惑してしまう。達矢は人見知りをし過ぎる繊細で敏感な子供ではなかったがそれでも誰彼構わず、今みたく瞬間的に懐くような子供でもなかった。

 自分の子供はオカシクない。母親なら誰だって抱くであろう感情だ。という事は、このオカシナ状況の原因はと梨央はちらり、その男性――今日、隣の部屋に引っ越してきましてと菓子折りを持って挨拶に来てくれていた鈴木虎呼郎を見てしまった。

 つい、だった。悪気も無ければどんなつもりも無かったが結果として疑うような、怪訝そうな、失礼な目を向けてしまっただろうか。一瞬の後、梨央は申し訳ないような恥ずかしいような気持ちになって、その目を逸らす。

「えー……と」

 鈴木虎呼郎の明らかに困っている声が聞こえてきた。

「お子さんとは先程、引っ越しの作業中に顔を合わせまして」

「はあ」と梨央は曖昧に頷いた。

「あの……何と説明をすれば良いものか。お子さんは何か勘違いをしてしまっているみたいでして」

 鈴木虎呼郎は「おじさん、おじさん」とまるではしゃいでしまっていた達矢を軽く無視しながら梨央に話をしてくれていた。

「勘違い?」

「ええ。その、女性には分かりづらい例えかもしれませんが私の事を仮面ライダーの変身前だとかウルトラマンの正体みたいな人間だと思われているようで」

「あら」と梨央は十歳の我が子に目を向ける。

 確かに今のところまだサンタクロースは信じてくれているみたいだけれど。さすがに仮面ライダーやウルトラマンはテレビの中の話だと分かっていると思っていた。男の子ってそんなに幼かったかしら。

「お子さんは、ええと……三年生か四年生くらいですかね。本気の本気では思ってはいないものの、もしかしたら、ぐらいの感じだと思うのですが」

 鈴木虎呼郎が言ってくれた。

「ああ。遊園地とかデパートでやってるヒーローショー的な」

 小首を傾げながら梨央は相槌を打ってみた。

「そうそう。そんな感じだと思います」と鈴木虎呼郎は笑顔で頷いてくれた。

「おじさん、おじさん、おじさん」

 達矢が虎呼郎の手を握ったままの手で虎呼郎の脇腹を叩く。叩く。叩く。

「何だ。何だ。何だ、少年」

 虎呼郎が達矢に顔を向ける。何かを期待しているような表情の達矢と虎呼郎の目が合った。虎呼郎は口許に力を込めて、意識的に表情を引き締める。

「良いの? お母さんには言っても良いの? お母さんは家族だからバレても大丈夫なの?」

「ん?」と虎呼郎がその問いの意味を理解しかねていると、

「お母さん。おじさんはね、僕の犬なんだよ!」

 達矢は見切り発車してしまった。

「ンなッ!?」と息を飲むような虎呼郎の驚きは、

「ええッ!?」

 という梨央の悲鳴みたいな驚きの声によって完全に掻き消されていた。

「す、すみません。犬だなんて。失礼なコト。すみません。ウチの子が」

 慌てながら焦りながら梨央はほんの数秒の内に二度も謝ってくれた。そんな彼女の様子を目の当たりにさせてもらえた事で逆に、

「いえいえ。大丈夫ですよ。お気になさらず。ごっこ遊びだと思えば。鬼になったりダルマになったりと同じようなものですよ」

 虎呼郎はすっかりと落ち着きを取り戻せていた。取り戻させてもらっていた。

「ただ、少年。お願いだから余所よそでおじさんの事を犬だとか何だとかは言わないでおくれな。今みたいに事情を話せるならまだしも通りすがりの人間に聞かれでもしたら酷い誤解を与えかねないからね。頼むよ」

 亀の甲より年の劫。さすがはアラフォーといったところか。達矢の三倍以上もある人生経験を活かして鈴木虎呼郎はおおらかで冷静な被害者を装っていた。が、その背中には人知れぬ冷や汗をたっぷりとかいていた。

 達矢少年は、

「はーいッ」

 本当に分かっているのか、虎呼郎の言葉をちゃんと理解してくれているのか不安になってしまうような実に少年っぽい、無邪気で元気な返事をしてくれた。


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