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剣鬼と案山子
滝壺
しおりを挟むその日の午後、源蔵が滝つぼから、まさに彼が望むような――いや、彼の想像を絶する「極上の獲物(おしん)」を拾ってくることを。
運命の歯車が、欲望と純愛を巻き込んで、軋(きし)み音を立てて回り始めた。
その男が戦場を歩くと、雨が避けて通ると噂されていた。
時は戦国。
関東の枯れ野原で、二つの軍勢が睨み合っていた。東の赤備え一千、西の黒備え八百。
矢合わせの合図と共に、空を埋め尽くす矢の雨が降った。
誰もが盾を構え、馬の影に隠れる中、その男――源蔵は、ボロ布のような着流し一枚で、あくびをしながら最前線を歩いていた。
ヒュン、ヒュン、カキン。
奇妙な音がした。
源蔵の周囲だけ、物理法則が歪んでいるようだった。
彼に向かって放たれた数十本の矢は、彼が鞘(さや)ごとの刀を軽く振るうだけで、すべて空中で叩き落とされていた。まるでハエを払うかのような、退屈な手つきで。
「……化け物か」
敵の騎馬大将が震える声で言った。
「構わん、踏み潰せ!」
怒号と共に、精鋭の騎馬隊が突撃する。
源蔵は止まらなかった。抜刀もしなかった。
ただ、すれ違いざまに、鯉口(こいくち)をわずかに鳴らしただけだ。
ザンッ。
一瞬の静寂の後、騎馬隊の馬たちの「鞍(くら)」のベルトだけが同時に切れ、武者たちは無様に地面へと転げ落ちた。馬も、人も、誰一人傷ついていない。ただ、戦うための装備だけが正確に解体されたのだ。
戦場が凍りついた。
殺すよりも遥かに難しい、「無力化」の極致。
「……あー、あー。めんどくせぇ」
源蔵は頭をかきながら、腰の抜けた敵大将の前まで歩み寄った。
「これで勝負ありだろ。……帰って寝ていいか?」
「な、なんと無欲な……!」
陣幕の中で、勝利した側の大名は涙を流していた。
「国をやろう。金もやろう。なんなら我が娘を嫁に……」
「いらん」
源蔵は即答した。
「土地なんぞ貰っても、俺には耕せん。女もいらん、煩わしいだけだ。……それより、約束の銭(バイト代)と、握り飯を二つくれ」
そう言って、彼は日当の小銭だけを受け取り、伝説を残したまま風のように去っていった。
翌日には、京の都で公家たちが「東国に雷神現る」と噂し、江戸の武家屋敷では「源蔵という名を聞いたら裸足で逃げろ」と通達が回った。
だが、当の本人がどこにいるかといえば――。
「おい、源蔵!また鍬(くわ)をへし折りやがったな!」
村の畑で、百姓の爺さんに怒鳴られていた。
戦場では神と崇められる男も、平和な村ではただの「不器用な穀潰(ごくつぶ)し」だった。
力加減ができないのだ。雑草を抜こうとすれば作ごと引き抜き、杭を打とうとすれば地盤ごと砕いてしまう。
「……すまん。弁償する」
「弁償なんていいから、あっち行っててくれ!ったく、図体ばかりデカくて何の役にも立たねえ案山子(かかし)だ!」
源蔵は肩をすくめ、逃げるように川の方へと向かった。
村の井戸端では、女たちがクスクスと笑いながら彼を見送っていた。
「ねえ見て、またあっちへ行くよ」
「いい男なのにねえ。こないだお雪ちゃんがお団子あげようとしたら、鬼みたいな顔して逃げたんだって」
「あらやだ。もしかして、女嫌い?」
「あっち(男色)の気があるのかもねえ。毎日滝つぼで何やってんだか」
村人たちは知らない。
彼らが「役立たず」と呼ぶその男が、今まさに、世界の理(ことわり)を超えようとしていることを。
ドドドドド……。
村外れの巨大な滝。
源蔵は、誰にも見せない鋭い眼光で、落ちてくる瀑布(ばくふ)を見上げていた。
「……水は、斬れん」
彼は呟き、刀を抜いた。
今まで数多の豪傑を葬ってきたその刃が、唸りを上げて水を裂く。
瞬間。
轟音と共に落ちていた滝の水が、下から上へと逆流した。
斬撃が生んだ真空波が、重力すら一瞬だけねじ伏せたのだ。
だが、すぐに水は元通りに落ちていく。
源蔵は首を振った。
「遅い。……これでは、あの『夢に出てくる銀色の鱗』には届かん」
彼はまだ知らない。
自分が無意識に目指しているその高みが、まもなく空から降ってくることを。
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